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■特集にあたって/公行政・公務の「民化」政策はどこまで進むのか?
最高裁平成一七年一月二六日大法廷判決は、「住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定するなどの公権力の行使に当たる行為を行い、若しくは普通地方公共団体の重要な施策に関する決定を行い、又はこれらに参画することを職務とする」地方公務員を、「公権力行使等地方公務員」と定義し、その職務の遂行は、「住民の権利義務や法的地位の内容を定め、あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど、住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するものである。それゆえ、国民主権の原理に基づき、国及び普通地方公共団体による統治の在り方については日本国の統治者としての国民の最終的な責任を負うべきものであること(憲法一条、一五条一項参照)に照らし、原則として日本の国籍を有する者が公権力行使等地方公務員に就任することが想定されているとみるべきであり、我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する外国人が公権力行使等地方公務員に就任することは、本来我が国の法体系の想定するところではないものというべきである」としている。
これは、定住外国人にとっては公務員になるための制約基準であり、これまで通説・判例たる地位を占めてきた、いわゆる「公務員に関する当然の法理」(「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国家意思の形成への参画に携わる公務員となるためには、日本国籍を必要とする」といったものから、「地方公共団体の意思の形成」、さらには「公の意思の形成」へと拡大解釈されてきたものである)の延長上にあるものと、さしあたり解される。
本判決を冒頭で取り上げた理由は、本判決が、「公権力の行使」あるいは「地方公共団体の意思の形成」といった不確定な法概念について、「住民の権利義務を直接形成し、その範囲を確定する」、あるいは「住民の権利義務や法的地位の内容を定め、あるいはこれらに事実上大きな影響を及ぼすなど、住民の生活に直接間接に重大なかかわりを有するもの」であるなど、「公務員」の職、すなわち「公務」について、最高裁なりの判断を示しているところが重要であると考えたからである。
この間、「官業の民間開放」の名の下で、このような「公権力の行使」までの「民化」(民間化・私化)政策が強力かつ急速に進められている。その進化形が、官民競争入札を制度化する「競争の導入による公共サービスの改革に関する法律案」(「市場化テスト法案」)であるといわれるが、民間の指定確認検査を認めた建築基準法「改正」、PFI法の制定、独立行政法人・地方独立行政法人制度の導入、構造改革特別区域法の制定、そして公の施設の設置管理にかかる指定管理者制度の導入など、すでに「公務」の根幹にかかわる「民化」政策は着実に「法化」されてきている。しかし、このような「公権力の行使」の「民化」が進めば進むほど、先の最高裁の「公権力行使等地方公務員」を厳格に解するものの考え方との乖離は広がるばかりである。そしてここでいう「公権力行使等」をそう簡単に「民化」してよいのかという疑問が湧いてくる。
本特集では、このような「民化」の問題点についての個別具体の検討がなされるところであるので、ここでは仔細の問題には立ち入らないが、「市場化テスト法案」にかかわって、一点だけ指摘しておきたい。
ある論者は、この法案の画期的な点は、「市場化テストを行って不断の改革を行うべき事務事業の単位として、『公共サービス』という概念を用いていることである」。「日本の行政法では、官に特有な法的現象を切り分ける単位として、『公権力の行使』という概念が用いられてきた」が、この概念は、「現実の組織体としての政府・行政機関の管理運営のあり方や、国民から見た行政過程全体の公正さ・透明性の確保といった、行政法の現代的論点に対応できないという重大な欠点がある」。これに対して、「公共サービス」概念は、「行政機関が行う業務を単位とするものであり」、「この業務の単位について、効率化・質の向上を保つ行政手続を組み込もうとするものである」。「個々の『公共サービス』がイメージし易く、そこで要求される説明責任や透明性についても具体的に理解可能となる。『公共サービス』という単位での改革・改善は、『お役所仕事の改革』としての具体的成果として広く各方面からとらえ易くなる」と喝破する(橋本博之『行政法学から見た市場化テスト』」ESP二〇〇五年一二月号一二頁)。
本当にそうだろうか。二〇〇六年二月一〇日閣議決定された法案を見ると、地方公共団体に関する市場化テストの具体の対象は、戸籍法に基づく戸籍謄本等交付の請求の受付及びその引渡し、外国人登録法に基づく外国人登録原票の写し等交付の請求の受付及びその引渡しなどである。つまり、法案において「公共サービス」とされるものは、「国の行政機関等の事務又は事業として行われる国民に対するサービスの提供その他の公共の利益の増進に資する業務(行政処分を除く)」のうち、「施設の設置、運営又は管理に関する業務」、「研修の業務」、「相談の業務」、「調査または研究の業務」に限定されており、「行政処分」に当たるものは除外されている。この限りにおいて、「公権力の行使」=「行政処分」の民間開放については、一定の歯止めがかかっている法案であるという評価が可能である。法案は、それだけに行政処分を切り離すことで行政過程をかえってバラバラにしているといわざるをえない。先の「公共サービス」概念の有効性を主張する論者は、これに対していかに答えるのだろうか。このような法案をいかに評価するかは本特集の個別論文に委ねるが、先の「公務員に関する当然の法理」になぞらえていえば、公務員が公権力の行使に当たる行為を担当するという意味で、「公権力に関する当然の法理」が維持されているという評価は可能であろう。ただその分、「公務」とは何か、「公権力の行使」とは何かといった根本問題は残されている。この点では、規制改革・民間開放推進会議の「中間とりまとめ」、「第一次答申」及び「第二次答申」とのニュアンスの違いについての厳密な総括が必要であろう。
そうはいうものの自治体を取り巻く事態はすでに深刻である。たとえば「構想日本」は、「公」と「民」との事務の配分に関して、民間人が実施する「事業仕分け」の実験を各地で行っている。パブリックビジネス・レポートなる情報誌は、「規制改革・官業開放で生まれるビジネスチャンスを掴め!」と喧伝する。追い討ちをかけるように、竹中平蔵総務大臣の私的諮問機関である「地方分権二一世紀ビジョン懇談会」は、いよいよ自治体の財政破綻・倒産を前提にした再生制度を検討中である。こういう状況の下で、財政危機克服を目的として、建築基準法上の指定検査確認機関や地方自治法上の指定管理者制度に代表される、「公権力の行使」の「民化」がさらに拡大する可能性はきわめて高い。しかし、「公務」あるいは「公権力の行使」の「民化」に当たっては、だれがいったい「公務性」について判断するのか。「公務」の「効率性」だけではなくて、「公率性」が重要な基準となるべきではないのか。「民化」にあたっての「公務」あるいは「公権力の行使」の再分類・細分類が不可欠ではないのか、など検討すべき課題は山積みである。安易な「民化」は許されない。
それにしても、「公権力の行使」までを「民化」し、「公権力の行使」を「公」と「民」が競う時代とはいったい何だろうか。「一〇円入札」・「談合入札」がまかり通るわが国で、「官民競争入札」がそもそも成り立つのだろうか。民間企業が自治体を買収して、「私的自治体」のごときものが誕生するかもしれない時代とはいったい何だろうか。区域を限られた自治体行政の事業効率とグローバル企業の事業効率を単純に競争させる愚はいつまで続くのだろうか。民間企業は、はたして維持可能なかたちで国民・住民の「生存配慮」に責任を持てる「公行政」を提供できるのだろうか。疑問や不安は尽きない。
本特集は、これらの問題を考えるに当って、考え方の筋道を示してくれるであろう。
本年二月九日横浜地裁(裁判長松尾昭一)は、横浜事件の再審につき免訴を言い渡した。この判決を傍聴席で聞いて真先に感じたのは、裁判官の「精神的荒廃」であり、暗然とした。
周知のように、この事件は、特高警察、思想検察、そして思想判事が「稀代の悪法」(美濃部達吉)である治安維持法を使って捏造した言論弾圧事件であり、その実体は司法権力犯罪であった。
このことを再審開始決定は認めたが、にも拘わらず、横浜地裁はこの明白な実体を無視し、再審の理念と手続構造を歪め、司法権力犯罪断罪の任務を放棄し、人権救済を拒んだ。
この異様な判決に、私は一片の人間らしさも良心も感じとることができず、人を人とも思わない「精神的荒廃」を嗅ぐ思いがしたのである。
しかしながら、翻ってよく観察すれば、この種の荒廃現象は、今や政治層、官僚層、財界層、マスコミ層をはじめとして権力層全般に瀰漫していることに気付く。
今わが国では「弱肉強食」による貧富格差の拡大と、イラク出兵及び改憲策動などによる軍事的覇権国家づくりとが着々と進行しているが、この二つの動きは、人間のいのちや暮らしを犠牲にして恥じない点で共通し、且つ相互に連関している。
そしてこの動きを推進しているのが「人を人とも思わない」権力層なのである。その意味で権力層は、今や人間的ないとおしみの気持や良心の希薄な存在に堕しているようにみえてならない。
このような状況をみるにつけ、将来には希望も展望も見出すことが難しいのではないかという心境に陥りがちになるが、しかし、その一方でいま全国各地で憲法、とりわけ九条を守る運動がまさに遼原の火の如く拡がりつつあることに希望の光を見出せる思いが強くする。
私は一昨年秋、『希望としての憲法』という本を出したことがきっかけとなって、各地のいろいろな集まりで憲法の話をすることが多くなった。郷里の小学校のクラス会でもそれをきっかけとする形で九条の会が自然発生的に生まれ、二〇人近いクラスメートが自分の戦争体験を語り平和への思いを綴った文集を作り上げた。
こんな風な動きを体験するにつけ、国家、社会、そして人間のありようが権力層によって歪められ危機的状況に陥りつつあることへの危機感が人々の間に広く拡がり、その打開の鍵を憲法に求め、人間としての良心と愛情と人生の誇りをかけて立ち上っていることに強い感動を覚える。
このような動きの中で憲法擁護への連帯の絆を結び合うとき、権力層の「精神的荒廃」と対峙しこれに打ち克てる自信と展望とを深めるのだが、それと同時に、このような動きを謀略や暴力(弾圧やクーデター的手法など)によって阻止、抑圧しようとする権力属内の動きに対し警戒する必要を強く感ずる。
この動きの中心には公安機関や「軍事」機関、そして一部の言論機関がおり、例えばテロ対策や公益保護などの名目で入念にその仕組みを強化し、改憲反対潰しに向け実行に移しつつあるように思う。
私が権力層の「精神的荒廃」と感じるところのものは、実はわが国の権力層の統治技術、統治手法の中心が謀略と暴力のむき出しの行使に置かれつつあることの表れ、その一現象形態なのである。
その恐るべき実態を明らかにして警鐘を鳴らし、その実効化を防ぐ道筋と方法を提示することは、法律家や言論人、そして学者・知識人の緊急の任務だと私は考える。
やっとお会いできた。深瀬先生は最初にインタビューを申し込んだ時「事前に十分な時間を取ってください」とおっしゃった。そのまま何年か過ぎ、私は深瀬先生の宿題をサボっている生徒のようだった。親戚の病気見舞いで急に札幌に行くことになり「えいっ」とお電話をした。「お約束を果たさないと」と先生はやさしい。どこに伺うかでひとしきり迷われ「アラビアの真珠」とおっしゃる。札幌駅の大丸デパート七階にあるコーヒー屋さん。雪の札幌で「アラビアの真珠」かしゃれている。「このあいだ奥平康弘さんとそこであったんです」
電話の向こうで奥様の絢子さんに聞く先生の声。「あのコーヒー屋はなんと言う名前でした」えっ。お店は京都の老舗のコーヒー店「イノダコーヒー」札幌店でした。
お店は赤いビロードのカーテンがアクセントになっている窓に沿ってカウンター席が並びテーブルもいすも少しクラシックで不思議な空間である。ぐるりと広がる窓から雪の札幌の駅前が見える。端の席で先生を待つ。先生は黒いかばんを抱えてひょいひょいと歩いて来られる。かばんから「恒久平和のために─日本国憲法からの提言」一一一三ページの分厚い本。一九九八年に出版三四名の共著、深瀬忠一・杉原泰雄・樋口陽一・浦田賢治編。これを机に出し、もちろんコーヒーは「アラビアの真珠」。それから三時間。深瀬先生は毅然と淀み無く平和憲法への思いを休むことなく語り続けられた。
深瀬忠一先生は一九二七年生まれ。七八歳。父親の実家は高知市郊外の仁淀川、地方の「郷士」の家系であった。長男の父親は陸軍軍人。母福美は土佐山内藩の武家の血を引く、しっかりした女性。妹が一人。忠一少年は母自慢の息子、秀才であった。東京陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ。陸軍のエリートとして一三歳から徹底した「軍人教育」を受けた。「敗戦の時は陸士五九期生、本土決戦となれば最前線で死ぬところであった」東富士で訓練中の忠一青年は茫然自失「お先真っ暗」のまま解散命令を受け郷里高知に帰った。とにかく生き残った。
「国策が根本的に間違っていたことに気づき」「何が真実か徹底的に勉強をやり直そう」その志を母が理解し支援してくれ六〇年、先生は狭く険しい道を選び歩き続けることになる。まずは「わが国の進むべき正しい道を」知るため「フランス革命」を学びたい。フランス語を教えている一高へ行こうと決心する。大急ぎで英語の受験勉強を初める。テキストは一冊だけ、NHKラジオでカムカムエブリボディを聞き勉強したという。敵国語をわずか半年で。
直ぐに大学に行かずに旧制高校に入ったことが深瀬青年の知的な幅を広げ深い教養の畑を作ることになる。「三年間、自由に世界の古典的名著を原語(英・仏・独・邦語)で読み猟って考えた」。そして戦後四年間の「模索、浅野順一先生の指導のもと求道の末」一九四九年のクリスマスに洗礼を受けキリスト教徒となる。
深瀬青年は一高から東大法学部に進学する。が正規のカリキュラムに興味が湧かず「直面する社会・国家・世界問題の研究、『戦争と平和』問題に取り組み、学び考え、実践することに打ち込」むことになる。あの有名な東大YMCA寮が深瀬青年の家だった。「大官庁・大企業」に行く気にもなれずにいた深瀬青年は新渡戸稲造ゆかりの「ウォルサー平和基金」の懸賞論文に応募、一等賞となる。「学究心を喚び起こされ、宮沢俊義先生に拾われて、『平和憲法学』研究・教育・実践の『天職』に導かれた。」
当時は東京から二六時間もかかる辺境の地、誰も行きたがらなかった、北大。法学部の助手にと言われたとき深瀬先生は直ぐにこれを受ける。北大は先生にとって憧れのフロンティアであった。クラーク、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾すべての系譜が深瀬先生に繋がったのである。北大に籍を置きながら、国内留学というかたちで三年間、先生は東大で研究活動を続ける。その間も東大YMCA寮にいた。
一九五七年からフランス政府給費留学生として一九五九年までフランスに留学。絢子さんとは留学先のパリで知り合う。絢子さんは東京大学仏文科卒でパリに留学中であった。高知の母福美は息子の「将来」を想い、深瀬先生の留学中によき伴侶をと心砕いていたと言う。深瀬先生が絢子さんのことを話すと「これからの学者の妻であればフランス語を話せるくらいでないと」こうして深瀬先生は人生の伴侶を得るのである。
先生には娘さんが二人。見せていただいた写真のなかでおそろいの赤いカーデガンを着て並んでいる。今では二人ともニューヨークで暮らす。それぞれ「アメリカ人の学者や弁護士の妻となり日米ハーフの孫まで出来ようとは、夢にも思っていませんでした」長・次女とも大学院で勉強中。「ニューヨークに行けば二人の娘さんと家族に一遍に会えて便利ですね」と私。若き日に「日本とフランスそしてアメリカとの架け橋になろう」と志した先生は学問研究、文化の交流と共に家族という深い絆を結ぶことになった。
東京大学への招聘も断り、他大学の学長にとの懇請も断り、先生は北大に立ちとどまった。「平和憲法学」の研究と教育はもちろん、フランス留学以降の日仏の交流、仏語の論文・著作、パリ法科大学での講義。そして平和憲法裁判での実践、先生の積み重ねられた日々に圧倒される。北辺の地は深瀬先生にとって神が配した立つべき地であった。
七八歳とは思えない先生は一九五九年、尊敬するシュヴァイッツァー博士が八五歳の時「パリのホテルで直接面談する機会に恵まれた」
彼はその後五年間、九〇歳で亡くなるまでアフリカで働き続けた。先生は「同じ八五歳までは、『平和憲法学』の共同研究のために、『平和憲法の一〇〇年のたたかいのマイルストーン』を打ち立てる「目標を目指してひたすら走る」
「ブッシュ政権によって二一世紀を戦争と軍拡の世紀(未来)にしかねない大(頽)勢に動きつつある今、『平和憲法学』が如何なる『平和戦略』論を提唱して、『改憲論』に打ち勝ち、阻止して、『平和憲法』をこの国に確立し、『核・地球時代』のアジアと世界の恒久平和の建設に寄与し得るか、否か、の岐路に立っている」先生は神に召されるまで平和憲法を究め闘いつづけるつもりである。
千歳空港まで電車に乗る私を先生は改札口まで見送るという。固持する私。デパートの一階で私を待っていた私の母八三歳と合流して先生はついに改札口まで来てじっと立っておられる。
「偉い先生なんだからね」と同世代の母によーく教えてやる。
深瀬忠一
1927年高知県にて誕生
1949年洗礼、キリスト教徒となる
1957〜59年フランス留学 1960年北海道大学に勤務
著書 「戦争放棄と平和的生存権」(岩波書店)「恒久世界平和のために日本国憲法からの提言」(共著・勁草書房)他、多数