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歴史認識問題─世界からのレポート@●南京事件70周年国際シンポジウム
◆今、なぜ南京事件70周年国際シンポジウムを企画したのか……尾山 宏 ◆和解と平和構築のために─南京事件70周年国際シンポジウム各国企画について……南 典男
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■特集にあたって
第三九回司法制度研究集会は、二〇〇七年三月三日(於、東京・四ッ谷 プラザF)に開催された。
司法とは、憲法の理念である人権、そして民主主義や平和を実現するシステムである。しかし、現実にはそうなってはいないではないかとの問題意識から、そのときどきの司法のあり方の問題点を模索するのが司研集会。歴史を重ねて、今年は三九回目となった。そのメインテーマは、「検証轟ヵマする司法制度の現状と問題点」である。
鳴り物入りの「司法改革」の結果は、いったいどうなったのか。何がどう変わったのか、変わりつつあるのか。司法の現状を総体として眺望し、問題点をさぐろう。そういう問題意識で開催された。
まずは「司法の現場からの現状報告」。次の五テーマについて九人の報告があった。
y 刑事裁判における公判前手続きと裁判員制度導入について/z 被疑者国選と法テラスについて{ 法曹養成・法科大学院について/| 家裁における人事訴訟・成年後見制について
} 労働審判制の現状
いずれも、第一線の現場からの内容の濃い優れた報告だった。そして、報告をめぐる熱心な討論が行われた。
今次司法改革に全面賛成という意見は聞かない。しかし、これにどう対応すべきか。意見は鋭く対立している。一方に、「不十分でも一歩前進のチャンスとして生かそう。そのために、改革の渦の中にはいってあるべき改革を推進しよう」とする立場がある。他方に、「それこそ為政者の補完勢力に成り下がること。司法改悪の共犯者となることを拒否しよう」という立場が対立する。そして、両者とも、相手を「市民のためにならない」と批判する。
本集会も、このような立場からの応酬があった。が、併せては弁護士以外のジャーナリストや学者・市民から、「市民のためにと言うけれど、ほんとに市民が見えているのか」「そんな論争に市民が乗ってこないことをどう考えているのか」「いつまでも、コップの中の嵐でよいのか」などの意見が出た。
それでも、いくつかの共通点を確認することができる。
・司法を官に絡め取らせてはならない。弁護士自治・弁護士の在野性を大切にしなければならない。
・裁判は拙速であってはならない。審理促進の名をもって、権利救済の実現という司法本来の使命を 見失ってはならない。
・とりわけ、刑事事件においては、いかような理由をつけようと も被告人の権利・弁護権を侵害してはならない。
・現実の制度を根本的に批判するにせよ、日常の可及的な民主的 運用の努力が必要である。
事態の背景・本質・理念についての一致はともかく、個別課題での共同行動の芽は見えてきたのではないだろうか。
なお、集会には、映画「それでもボクはやってない」の主人公のモデルとなった元被告が奥さんとご一緒に参加され、懇親会にもお付き合いいただいた。徹底的に否認しながら有罪判決確定で服役した彼。そして、彼を信じて支え続けた奥さん。その生々しい発言に、司法の重責を再確認させられた。
今号の特集を組むにあたり、報告者、コメンテーターの方々からは、当日の報告をコンパクトにまとめていただき、会場からの質疑・応答については、頁数の関係から編集委員会の責任において要約させていただいた。改めて、みなさまのご協力に心から感謝申しあげる。
テーマにつられて、勉強をし直す好機と考え、全く久し振りに、「検証轟ヵマする司法制度の現状と問題点」と題する第三九回司法制度研究集会に出席した。考えさせられることの多い集会であった。
その一つが、弁護士のギルド的利益の擁護という印象を与えかねない会場からの発言である。これには、看過できないものがある、と考える。弁護士界において、この擁護論が、有力になる虞れがある、と予想できるからである。
その理由は、大別すれば次の二つとなろう。
第一は、「規制緩和」の大合唱を背景に、弁護士の法律事務独占の緩和の要求が強まり、隣接法律専門職の法律事務への参入が認められるようになったことである。それは、司法書士の簡裁における民事訴訟代理権等、弁理士の特許権等の侵害訴訟での弁護士との共同代理、税理士の税務訴訟での補佐人としての陳述権である。これにより、明らかに他の専門職との競合が生じるのであるから、弁護士の職域は縮減することになる。またADRが活用されるようになり、ここにも他の専門職が広く参入するようになれば、同様の現象が生じることになる。その結果、公然、非公然を問わず、職域紛争が発生するであろう。
第二は、弁護士人口の増加により、弁護士界内部において多様な形態での対立、競争が激化することである。これを放置するならば、弁護士が、「悪しき隣人」どころか、法匪(法の匪賊)と化する虞れさえある。
このようにみてくると、弁護士は、外部的にも内部的にも厳しい状況、いわば内憂外患交々至る状況に直面しているといわざるをえない。この状況は、放置しておくならば、弁護士の自由と独立とを、ひいては市民の基本的人権をも危殆に瀕せしめる虞れがある。
それ故に、この状況は、打開されなければならない。しかし、いうまでもなく、それは弁護士の特権を護る観点からなされるものであってはならない。わが国の總体としての法律家制度はいかにあるべきかという観点からなされなけらばならない。そのためには、ビジョンが必須である。「敗戦後の司法改革」また今次の「司法改革」においては、必ずしもビジョンが明確にはなっていなかったといってよいであろう。
このビジョンは、いうまでもないことではあるが、抽象的・観念的には、市民革命したがって市民社会の自由・平等・友愛の理念また人権宣言、その継承・発展である世界人権宣言また日本国憲法の原理に基づいて構想されなければならない。また具体的・現実的には、第一に、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」という弁護士の使命は、ひとり弁護士のみのそれではなく、法律家すべてのそれであり、分有するものであることを承認することであり、第二には、この当然の事理の反映として、法律家間の分業を明確に承認し、確立することである。
たしかに、わが国の現実をみると、法律家間の分業は存在する。しかし、それは形式的にである。隣接法律専門職は、各省庁がタテ割行政の下、一定の需要に応え、自らの利便を図るために、また労務政策(天下り・認可)の一環として作ってきているからである。したがって、ここには法律家間の分業はない。あるのは上下関係である。
これを、前述のような法律家制度に再編することは、至難の業である。司法改革は未完である。しかし、わが国を「美しい国」ではなく、基本的人権の擁護され、社会正義の実現している国にするためには、この事業は貫遂されなければならない。民主主義は「永久運動」である。およそ制度というものは、不断に努力する自覚的主体的人間によって担われてこそ、その存在意義を発揮するものである。司法制度もまたその例外ではない。市民の中から生れ、市民に奉仕する法律家(判・検を含む)は、その担い手たることを不断に強く自覚し、この事業に取組まなければなるまい。(えとうよしひろ)