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 法と民主主義2007年11月号【423号】(目次と記事)


法と民主主義11月号表紙
特集★刑事弁護とメディア
特集にあたって……編集委員会
◆司法の職責放棄が招いた弁護人バッシング──光市事件の弁護を担って……安田好弘
◆マスコミと弁護活動──和歌山カレー事件の弁護を通じて感じたこと……山口健一
◆見るべきものが伝わっていない「裁判報道」──麻原一審裁判と弁護活動……渡辺 脩
◆「光市事件」を取材して……綿井健陽
◆「証拠の目的外使用禁止」は調査報道に対する「死の宣告」……大谷昭宏
◆社会とのつながりに自信を失っている新聞……美浦克教
◆コメンテーターがテレビをダメにする?──「弁護士とメディア」を考える……岩崎貞明
◆弁護士コメンテーターとは──……小池振一郎
◆刑事訴訟への犯罪被害者の参加と裁判員制度……足立昌勝
◆メディアの仕事は権力の監視──「人権と報道」から考える……丸山重威
◆インタビュー・後藤 昭 一橋大学教授に聞く 刑事弁護活動とメディア……後藤 昭──聞き手・澤藤統一郎

 
★刑事弁護とメディア

特集にあたって
 刑事弁護のあり方に対するメディアからの批判が過熱しています。
 この傾向は、弁護権の全うという観点からも、メディアの使命のあり方からも、看過できない問題をはらんでいます。
 刑事弁護は、人権がもっとも鋭く権力機構と対峙する局面です。弁護方針が人権の擁護と権力への対峙に徹するとき、被害者の立場に共鳴する市民感情と衝突することは当然に起こりうるところです。弁護士の使命の遂行が、市民感情から攻撃されることも覚悟せざるを得ません。
 その市民感情を代弁するかたちで、メディアが過剰に弁護方針を攻撃する場面が表面化しています。とりわけ、電波メディアにその典型がみられます。
 かつてはメディアの裁判批判と言えば、裁判所や警察・検察機構へ矛先が向けられ、冤罪批判がメインでした。いまは、被告人の権利行使や弁護方針にも感情的な批判が向けられ、「早く有罪判決を」「もっと重罰を」という雰囲気があります。市民感情や社会の雰囲気をストレートにぶつけて、法が持っている理想や理念を攻撃しているように見えます。
 いくつかの事件に顕著ですが、集中豪雨的とも言うべきセンセーショナルな弁護団バッシングが行われています。刑事司法が制度として市民の参加を得ようとしているこの時期に、メデイアのこのようなあり方には、ある種の危機感を抱かざるを得ません。
 弁護権行使のあり方が批判を許さぬ聖域であるはずはありませんが、近時のメディアの批判の姿勢には疑問を感じざるをえません。権力に対峙する側への批判は、刑事司法の原理や弁護権の重大さへの基本的な理解を欠いていることに起因してはいないでしょうか。
 しかし、メディア批判をしているだけでよいのか、という疑問も残ります。
 被告人の権利も弁護権も、最終的には民主主義的な立法手続きで消長をきたすことになります。長い目では、世論に支えられなければ人権も守れなくなってしまうことを恐れなければなりません。
被害者の刑事司法参加制度、裁判員制度の導入というこの時期に、いま生起しているメディアの刑事裁判における弁護活動方針への批判を冷静に考えねばならないと思います。
今特集では、世間の耳目を集めた特異な事件の代理人として、バッシングの嵐にさらされている光市事件弁護団、また同様の経験をした和歌山カレー事件弁護団、オウム事件弁護団から、メディアと刑事弁護のあり方についてお書きいただきました。
 また、メディアに身を置くジャーナリストからは、取材の現場からの問題提起を、学者からは、メディアのみならず刑事弁護のあり方、そして、裁判員制度や刑事訴訟への犯罪被害者参加問題を、刑事訴訟法の原則に照らして、問題点の整理をしていただきました。
 ぜひ、共に考える材料にしていただきたいと思います。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●歴史の歪曲を許さないために──沖縄戦「集団自決」をめぐって

(弁護士)新垣 勉


 歴史教育からの抹殺

 文科省は、本年三月、高校の日本史教科書における沖縄戦の「集団自決」(集団強制死)記述について、日本軍によって住民が「集団自決」に追い込まれたとの表現は、沖縄戦の歴史認識を誤らせるとして、修正を求める検定意見をつけた。
 これは、沖縄県民に対し、大きな衝撃を与えた。
 なぜなら、多くの県民は、沖縄戦の中で、日本軍が住民を守らなかった事実、守らないどころが、県民を死に追いやった事実を多数見聞・体験してきており、その象徴的出来事として「集団自決」を位置づけ受け止めていたからである。
 歴史認識の修正を求める前記検定意見は、県民の体験を無視し、歴史から国家に不都合な歴史的事実を抹殺しようとするものであった。

 抗議の11万人沖縄県民集会

 九月二九日、続々と宜野湾市の会場に詰め掛ける県民を見ながら、私は、一九九五年一〇月の米兵による少女暴行事件に抗議する八万五〇〇〇人集まった県民大会を思い出し、間違いなく、あのときを超えている≠ニ実感した。
 主催者が参加者11万人と発表したとき、静かな感動が参加者をおおった。人口一三〇万人の沖縄で、11万人の県民が集まった意義は、きわめて大きい。
 是非、全国民にその重さを受け止めて欲しいと願う。

 「集団自決」の本

 沖縄戦における日本軍により強制をされた「集団自決」問題は、深刻な歴史的反省を内包している。一つは、皇民化教育(天皇・国家への忠誠教育)の持つ恐ろしさ危険性への反省であり、二つは、沖縄県民への差別の問題であり、三つは、住民をスパイし軍事作戦上の障害と考えた軍体の本質にかかわる問題である。
 「集団自決」は、これら三つの要因のいずれが欠けても、起きなかったと思われるが、やはり決定的・直接的な要因は、日本軍の軍命令・関与にあると言わねばならない。
 軍が貴重な武器であった手榴弾を住民に配り、「自決」を促した事実は、生存住民の証言と相まって、軍命の存在を強く裏付けているものである。

 歴史を歪曲することの危険性

 近年、歴史を歪曲する動きが顕著である。その手法をみると、いくつかの特徴に気づく。
 一つは、月日が流れ、証言者が死亡し、あるいは証拠が散逸した状況下で「明確な証拠がない」とする手法であり、二つは、客観的事実が否定できないときには、その本質を隠蔽するため責任を他に転嫁する手法である。
 それだけに、歴史の歪曲を許さないために、その時々で、歴史的事実をはっきりと刻み込む運動を行うことの重要性を改めて感じている。
 歴史の真実を直視し、そこから教訓を引き出すことは、人類が前進をする上で、不可欠であり、貴重な源泉である。
 歴史を歪曲する動きは、現在組織的、計画的に行われており、沖縄戦「集団自決」問題の歪曲もその一環として行われている。
 この動きが憲法改正と国家の変革を狙うものだけに、一つ一つ歴史の歪曲を許さない闘いを積み重ねることが、一層重要な課題となっているといえよう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

笑う門には人来たる

弁護士:神谷咸吉郎
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

949年当時。近所の子供たちと父の弁護士事務所兼自宅前で。

 神谷咸吉郎先生は生まれも育ちも上野。竹町(現・台東二〜四丁目)で産湯を使い、竹町幼稚園から竹町尋常小学校、そして旧制都立上野中学へ。大学は中央大学法学部。全部自宅から歩いて通ったという上野っ子。一九三一年生まれで七六才になる。
 上野の山に続く黒門町、御徒町、竹町は東京の下町。竹町あたりはもと佐竹藩の上屋敷。神谷先生の祖父は旧幕臣で明治一〇年代から司法代書人だった。下谷の裁判所のすぐ近くに自宅事務所を持ち、二階の間にはお客様の待合所。そのころ登記は即日処理交付で午前中に登記を申請してお客は二階の間で茶菓子や出前弁当、すしや鰻を取って一杯やりながら登記済書(権利書)の交付を待っていた。時には芸者を上げ宴会になることもある。不動産の売買や担保の登記が完了すると「おめでとうございます」の手締めでしゃんしゃんとなるのである。そこを仕切っていたのが司法代書人の妻君である。心付けも多くそれを元手に上野界隈に一〇〇軒を超える貸家をもっていた。
 神谷先生の父作祥は神谷家の婿養子である。職業は裁判官。九州の大分県宇佐から書生として上京、明治大学に入学、判検事登用の試験に合格して司法官となった。ところが、先妻は関東大震災で二人の子供を残して亡くなり、神谷先生の母はるも夫を亡くし縁あって、後妻となった。その息子が咸吉郎君である。はるは神戸の貿易商二代目大島兵太郎の四女、ハイカラなお嬢さんだった。はるの祖父は緒方洪庵をしのぐと言われた幕末大阪の名医原老柳である。咸吉郎君はおしゃれな洋服など着せられ職人と商人の町竹町の「おぼっちゃん」だった。
 小学校から旧制上野中学へ。当時中学に進むのは学年で数人。中学入学は一九四四年、太平洋戦争末期である。咸吉郎君ももちろん軍国少年だった。中学一年の時東京陸軍幼年学校の入学試験を受けるが「僕は笑い上戸で幼年学校の試験に落ちたんです」。幼年学校は秀才少年が集まるあこがれの的だったのに。咸吉郎少年は「より目の検査」でどうしても笑いをこらえることができなかった。「目のところ試験官がトンボ取りのしぐさで、中指で迫って来るので、まともにやられるとおかしくておかしくて」「君に最後の機会を与える」といわれたときにはもっとおかしくなって。「緊張すると笑いたくなるんだね僕は」「笑いをこらえるのは死ぬ程の苦痛なんだよ」
 一九四四年の秋にはB29の空襲が始まった。四五年三月一〇日の東京大空襲で神谷の家も焼失。咸吉郎君たちは下町一帯の焼跡と焼死体の整理に動員され、沢山の焼死体を見ることに慣れ、いよいよ一億玉砕かと思った。やむなく朝霞、我孫子と転々と疎開。咸吉郎君は連日P51やグラマンの機銃掃射にさらされながら常磐線や東上線で上野中学の動員先に通い続けた。「よく命があったものです」。勤労動員で咸吉郎君たちは「ガス管」抜きに精を出していた。火薬を尖端につめ、シャーマン戦車に突入する「特攻兵器」にするためだった。「教練ではいつも、タコ壺式の壕を掘らされ、ガス管を手にして散兵戦の花と散る運命にあった」。親友長野幸彦君と咸吉郎君は「終戦の日は二人で死のうと覚悟した。戦争に負けたことを天皇におわびしようと皇居に向かった。二重橋前で土下座して両手をついたところ陸軍の高級参謀が切腹しているのを見た。我に返ってみると、自ら死に追いやる道具はなにももっていないことに気が付いた」。咸吉郎君はその時笑わなかったんだろうか。
 「四五年の秋は、食うものも食えずいつも腹をすかし、体育園で耕作に従事し人参ばかり一週間食べて、自分も馬になってしまうのではないかと思う日々でした。しかし空は青く澄みわたり、上野の丘から下町眺めると海が見え、まさに一望千里でした。戦争は終わってよかったと赤いリンゴの歌を口ずさみながら、ゲートルをはかないで思いっきり足を出して、映画館に殺到して行ったものです」。
 一九四八年四月咸吉郎君は四修で中央大学旧制予科に進学、翌年新制大学に編入、五三年三月に卒業する。大学時代は女性に誘われて社研に入り、久我美子に会いたい一心で東宝争議の応援に行ったり、自治会選挙に出たりといっぱしの「闘士」と思われていた。上のひとが「粛正」にあい咸吉郎君は用無しとなった。ついに父親から「いい加減勉強しろ」と言われ司法試験をめざすことになる。「僕はあんまり勉強しないんだけど要領がいいのよ」と卒業の年に合格、修習は八期である。
 大学の玉成会や真法会などには陸士だ海兵だ学徒兵出身だという猛者が大半で自力で学資や生活費を稼ぎ空腹を抱えながら勉強していた。咸吉郎君は少数「親の臑齧り」派だった。
 「僕の特徴はおっちょこちょい」その場の勢いに乗って深く考える前にやってしまう。ものにこだわらない。気さくで率直、ネアカで開放的。東京下町の旦那気質である。それに筋金入りの笑い上戸が重なるんだから神谷先生のところに人が集まるのは必然である。何しろ弁護士になってしばらくは自民党河野派の議員の相談役で議員会館河野一郎室を事務所としていたこともある。妻千恵子の父は芦田均の側近の堀内幾三郎。先生は一時政治家になろうと考えたこともある。仲人は、親友長野幸彦の伯父の長野国助弁護士夫妻である。
 一九六一年、先生は銀座で独立する。事務所といってももとはバー「洋酒もいろいろあったからな」。上野の幼なじみや中学の旧友や先生の依頼者はみんな先生のことが大好きである。「仕事をしないのに顧問料を持って来てくれるんだ」と笑う。
 先生は弁護士稼業ばかりでなく、弁護士会活動、司法反動阻止運動にも情熱を注いだ。国際法律家運動にも関わった。テレビ出演やカルチャースクールの講師と幅広い。そして何より先生らしいなと思うのは日弁連「両性の平等に関する委員会」の活動である。先生が司法問題から女権に変わったのはたまたま女権委員会の設立に関与したことだった。鍛冶千鶴子先生から「後もフォローしてね」と頼まれ、「私はかつては芸妓としばしば交流し、女性の尊厳に対するやましさがあるので資格がありません」と断った。
 ところが今は亡き井田恵子先生から「過去は問わない、これからです」と言われ返す言葉がなく「それ以降女性の権利委員会を一途にやることになった」。
 敗戦後、父の自宅兼事務所はそのままにして今は資料室になっている。インタビューの途中に近所の依頼者が書類を持ってくる。玄関は道路に続く引き戸、上がり框に膝をついて話す。先生は「うんうん」と聞いている。

・神谷咸吉郎(かみや かんきちろう)
1931年東京生れ。1956年弁護士登録(8期)。
長らく朝日カルチャーセンターで「相続・遺言」等の講師をする傍らテレビ東京「レディス4」出演など幅広く活躍。
東京弁護士会副会長、最高裁規則制定諮問委員、法制審議会委員、日弁連常任理事、調停委員等を歴任。現在学校法人大東文化学園監事。中央大学学員会副会長。著書『わかりやすい遺言と相続の法律相談』(2003年、新星出版社)など多数。


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