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 法と民主主義2007年12月号【424号】(目次と記事)


法と民主主義12月号表紙
特集★憲法25条が壊される!─「生活保護行政」をめぐる現場からのたたかい
特集にあたって……編集委員会
◆現代の格差・貧困と生活保護問題……杉村 宏
◆格差社会における生活保護の役割……木村達也
◆生活保護基準切り下げは、国民生活に重大な影響……吉永 純
◆老齢加算及び母子加算の削減・廃止と「生存権裁判」……舟木 浩
◆政府・厚労省による生活扶助基準『見直し』について……木谷公士郎
◆北九州市で相次いだ餓死事件─2007年小倉北事件を中心に……木佳世子
◆三郷生活保護国家賠償請求訴訟について……吉廣慶子
◆「水際作戦」の実態とこれに抗する法律家のネットワーク……小久保哲郎
◆生活保護を申請しよう……木原万樹子
◆生活保護問題対策全国会議の活動と今後の課題……尾藤廣喜
◆全国公的扶助研究会─貧困問題と闘うケースワーカー集団の確立をめざして……渡辺 潤

 
★憲法25条が壊される!─「生活保護行政」をめぐる現場からのたたかい

特集にあたって
 「豊かな国」日本で格差と貧困の拡大が深刻化し、大きな社会問題となっています。
 そんななか、生活扶助水準にたいする「見直し」が検討されています。
 生活保護基準の引き下げは、労働規制の緩和や非正規雇用などにより、実質生活保護基準以下の生活を余儀なくされている市民にとっても深刻な問題です。
 生活保護基準は、事実上の「貧困線」としての機能を果たしてきたといわれています。その「貧困線」の引き下げは、労働・医療・福祉・税金・教育という全ての分野に連動し、影響を及ぼしていきます。
 生活保護を打ち切られた男性が餓死するというショッキングな事件報道は、日本列島各地で起きても不思議ではありません。生活保護制度が「最後のセーフティネット」としての役割をはたさなくなれば、人々の生活の安定はありません。人々の生活の安定なしに、この社会の安定を構築することはできません。
 まさに、憲法二五条が崩壊の危機に立たされているのです。
 しかし、この事態に多くの人々が立ち上がりつつあります。
 老齢加算の廃止をきっかけに、生活保護をめぐる裁判が全国的に提起されています。国、地方自治体に対し、生活保護の切り下げを止め、生活保護法の積極的適用などを行うことなどをもとめる運動が広がってきています。

 今特集では、生活保護行政に焦点をあてながら、その実態をくまなくレポートすることで、この事態を生み出してきた元凶にせまりたいと考えました。
 杉村宏法政大学教授は「現代の格差・貧困と生活保護問題」と題して生活保護制度の再生と活用をよびかけ、木村達也弁護士は現代の貧困の背景にふれながら生活保護支援法律家ネットワークの結成とその活動について、吉永純花園大学准教授は生活保護基準が諸施策と連動している実態にふれその切り下げは国民生活に重大な影響を及ぼすと指摘、舟木浩弁護士は二〇〇五年提訴から現在にいたる全国の「生存権訴訟」の意義と今後の課題を語り、木谷公士郎司法書士は生活保護受給者へのさまざまな攻撃に保護受給者とともに日々対処している経験から政府・厚労省による生活扶助基準の「見直し」についての様々な問題点を浮き彫りにしています。
 生活保護行政の現場では、何が起き、何が起されようとしているのか、そして、それへの反撃の闘いを通して、法律家と市民の連帯の輪が大きく広がっている実態を、それぞれの場に身を置く先生方から、生々しい報告をいただきました。
 人間らしく生きる権利が、平和に生き抜く権利とともに大切にされる社会をめざして、この特集がいくばくのお役にたつことができたら、望外のよろこびです。

 なお、特集の企画にあたっては、大阪の小久保哲郎弁護士より多くの実例とともに、お力とお知恵を拝借いたしました。心より感謝申しあげます。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●消費税の社会保障財源化のウソ

(立正大学教授・税理士)浦野広明


◆変化のきざし
 与党の限りない庶民増税路線は、七月二九日の参議院選において自公に対する選挙民の拒否として現れた。このことはこれからの税制を考える上で一つの明るい材料である。確かに参院選後には変化が生まれている。
 政府税制調査会は〇七年一一月二六日、福田康夫首相に消費税増税や所得税増税の方向を色濃く打ち出した「答申」を提出した。しかし、増税色が極めて色濃い「答申」でさえ、消費税増税の時期や幅を盛り込めなかった。これは、増税勢力に審判を下した参院選の結果の反映であり、国民の世論と運動の成果といえよう。
とはいえこれで喜ぶのは早計である。
 日本経済団体連合会(日経連)は、参議院選挙の結果など「どこ吹く風」とばかりに、「今後のわが国税制のあり方と平成二〇年度税制改正に関する提言」(「提言」07年9月18日)を発表した。提言は、「先の参院選の結果を受け、一部には改革断行に否定的な意見もあるが」、今こそ税制改革を行えと、発破をかけている。
提言は中長期の「税制抜本改革の主要課題」として次のように述べている。
 @消費税…消費税率を引き上げ、今後のわが国における基幹的税目として役割を拡大していく必要がある。税率が二桁になるまでの範囲においては、消費税率の複数税率化は好ましくない。
 A国・地方の税源改革…地方交付税については、地方財政規律の低下にもつながりかねず、将来的には廃止する。地方法人二税(法人住民税・法人事業税)は、税源の地域偏在性が高く、景気に左右されやすいことから、安定した住民サービスを支える税目としては不適当である。地方法人二税は、国税である法人税への一本化をはかる。
 B所得課税の適正化…個人所得課税における各種控除(給与所得、退職所得、公的年金等、扶養控除などの諸控除)の整理、最高税率引き下げ、納税者番号制度、金融所得の減税。
 C法人税改革…三〇%を目途に法人実効税率を引き下げるべきである。臆面もなく、庶民増税、大企業・大資産家減税をうたっている。提言は〇八年度税制改定の具体的課題として、法人三税の税率引き下げ、法人税の税額控除、海外子会社からの受取配当の益金不参入など大企業減税を強調している。政府税調の前記「答申」は、従来にも増して「庶民増税色」を鮮明にしている。
 そもそも政府が、実行しようとしている増税や税制の改悪計画は、すべて政府税調の〇〇年七月一四日の中期答申や「あるべき税制の構築に向けた基本方針」(〇二年六月一四日)に盛り込まれていたものである。今回の税調答申は過去の「答申」のプランを具体化したものにすぎない。政党・政治状況が今のまま推移すれば、着実にこの増税計画が、具体化されていく可能性が高い。
 憲法は、負担能力に応じた税負担とすべての税金を生存権保障=社会保障や教育に充てることを要請している。しかし、「答申」は、「消費税の社会保障財源化」に特化。弱者に重い負担を強いる消費税によって、弱者を支える社会保障の財源を確保することをうたっている。消費税の社会保障財源化は法人税減税の口実にすぎない。〇七年六月までの一年間の法人申告所得は約五七兆円で史上最高である。法人税率を過去にあった四三・三%(現在は三〇%)にしたとしたら、概算であるが、七兆五八一〇億円の法人税収を確保できる〔五七兆円×一三・三%(四三・三%─三〇%)〕。
 憲法の「税金原則」に沿い、能力に応じた負担を求めるというなら、空前の利益をあげる大企業や株式運用長者にこそ、適切な税負担を求めるべきである。
 増税計画がどうなるかは、次期総選挙での「増税勢力」のすう勢にかかっている。増税勢力による消費税増税スケジュールを狂わしてきたという成果に確信を持ち、消費税増税・庶民増税を許さないたたかいが大切だ。うものだけに、一つ一つ歴史の歪曲を許さない闘いを積み重ねることが、一層重要な課題となっているといえよう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

僕が僕であること

弁護士:花田政道
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 花田先生は逗子が住まいである。事務所は西新橋。新橋駅から徒歩一五分、新橋から自宅の逗子駅までJRでちょうど一時間。朝は逗子始発車両に乗って、帰りはグリーンを使う。往復の二時間は至福の読書タイム。先生は文庫本主義者でいつも文庫本を持ち歩く。場所を取らないし軽い。少し前までは岩波新書を往復で一冊が定番だった。このところ「疲れる」ので小説にシフトした。「文庫で読む」先生は新刊本を読むのが何年も遅れるのが悩みの種。子供の時の「バンビ」「黒馬物語」「シートン動物記」から始まった読書癖はその速度と量、深度が進み、弁護士になってから「移動の時間、待ちの時間」が加わって無敵の読書人となった。「法民に読書日記を書いてくださいよ」と頼むと「僕は読むのは大好きだが、書くことは大嫌い。裁判官の時から一字でも少ない判決文を書くことに腐心していた。僕の判決はとにかく短いの」「辞書を引くのも嫌いなので、英語もだめです」。ただ読んでるだけなんて先生ちょとずるい。仕事は事務所でやる。土日は休んでテレビと読書の日々。「僕はテレビもよく見るんです」。
一九四〇年頃。銀行員だった母方の叔父が中国に赴く前に挨拶に来たとき 弁護士になって二〇年。事務所のメンバーは小田成光先生、宮本康昭先生の三人。小田先生とは九期同期でともに青年法律家協会員だった。宮本先生とは青法協裁判官部会の裁判官として再任拒否問題に関わった。日本の戦後司法の歴史に深く関わった三人が机を並べて仕事をすることになった。全員七〇才を超えた。
 この「とっておきの一枚」シリーズ第一回は七年前。今、先生をインタビューしているこの応接間で先生が座っているところに小田先生が座って始まった。花田先生も話の合間にたばこをくゆらす。小田先生は灰を「スーツの組んだ足の膝に」落としていた。花田先生は小さな灰皿用のグラスを持ちそこに灰を落とす。
 花田先生は一九三〇年生まれ、今年喜寿七七才である。裁判官を三〇年勤めた。修習後期に青年法律家協会に入り一九五七年任官。そのまま青法協に所属していた。やがて裁判官部会を作る。一九六四年に臨司問題、一九七一年には宮本再任拒否問題、戦後裁判官制度激変の中で「独立不羈」の精神で裁判官の仕事を続けた。自宅近くの横須賀支部の裁判官を八年務め、ついに任地に困った最高裁から簡裁裁判官の任官を打診された。先生は病気の親を抱え単身赴任は難しく、何より組織の中で裁判官として仕事を続けることに情熱がわかなくなっていた。一九八七年、五六才で退官する。「僕は任地や俸給で差別的な取り扱いを受けても別にどうということがなかった」「だって僕が最も尊敬する大学時代の友人は中学校の先生になった。教育現場で大変な仕事をしていた。その彼より僕の方がずっと給料がいい。裁判官同士の給料の差なんて」「言いたいことを言っているんだから給料ぐらい僕にとってはなんでもないわけ」花田先生らしい。
 花田先生は東京の麻布生まれ。父も祖父も海軍の軍人である。父は軍人といっても東大工学部卒の技術将校だった。ドイツに留学し、家に帰っても図面を引いているような勤勉な研究者だった。花田先生には姉と弟、二人の妹がいる。小学校入学の前に父が横須賀海軍工廠に勤務することになって一家は逗子に家を買った。父親は重油を燃料とするエンジン開発の研究をしていた。
 政道君は湘南中学に進学する。周りには海軍の将校の師弟が多く、湘南中学は海軍兵学校の予備校とまで言われていた。ところが政道君は軍国少年にはほど遠い読書好きのおとなしい「弱虫」ぼっちゃんだった。とにかく本を読むことが好きで友達が遊びに来てもそれぞれが本を読んでいる。読むのは異常に早くて学校で机の間に立って両側の友達が読んでいる本をいっしょに読んでいたくらいである。運動は苦手。父親の教育方針は「自分のやりたいことをやりなさい」だった。政道君は軍国主義より物語の世界に心ひかれていた。
 一九四五年に一家は新しい工廠建設に派遣された父について津に移転する。中学三年で政道君は湘南中学から津中学に転校した。四月、五月は学校に行ったがすぐに動員となり山に穴を掘る仕事をさせられた。八月一五日の玉音放送は動員先の山の中で聞いた。音が悪く甲高い声が聞こえたが「どうせがんばれなんてことだろう」みんな意味がわからず放送が終わると持ち場に帰って夕方まで穴掘りを続けた。夕方普通どおり帰宅した父親は「戦争は終わった」と一言。政道君は灯火管制もなくなり穴掘りの仕事にも行かなくていいとほっとした。政道君はそのまま中学に通い、五年で旧制一高を受けた。政道君は何しろこつこつと努力して勉強することが苦手で、数学と物理は得意だが英語は駄目、本は読んでいたが漢字は正確に書けなかった。というわけで不合格。一九四七年旧制中学は新制高校に。高校に一年通い、四九年今度はちゃんと受験勉強をして再受験、六月に新制の東京大学文Tに入学する。政道青年の理想の生活は「サラーリマンになって定時に帰宅しミカンを食べながらぬくぬくとこたつで小説を読む」ことだった。技術畑は忙しそうな父を見てやめた。
 大学に入学はしたもののその年の終わりに父親は失業、生活費と学費に困り政道君は「渋谷民報」でアルバイトをする。原稿を書いたりまんがをかいたりしていた。お金がなくなって一週間水だけで過ごしたりもした。「東京に親戚だっているし、お金を借りるなどもっと考えようがあったと思う。なぜか僕は世事に疎い」家族が逗子に戻ってから政道君は逗子から大学に通うこととなる。
 大学三年の時政道君はある講演会を聞く。東大セツルメントに法律相談部を作ろうという呼びかけ。川島武宜、福島正夫教授らが熱心な活動家であった。政道君はここにはまってしまう。「誰かの役に立つ」これが政道君の心をつかんだ。卒業したら住み込み専従でセツルメント活動をやってもいいとまで考えた。そうもいかず司法試験を受けてみる。大学も単位を取るだけで勉強もしていない政道君は不合格。一念発起して一年間集中して勉強した。一九五四年合格。公務員試験も受けどちらも一桁の成績だった。花田先生はやれば出来ちゃうのである。
 「僕は任官して一〇年はまあエリート裁判官だったの」アメリカの大学に留学までしちゃったんだもの。
 花田先生は自分のことを「ややひねくれた法律家」などと言う。物言いが切れがよく面白い。そして実は聞き上手。私なんかインタビューにうかがって五時間も事務所にいてしまった。
 先生は今も東大セツルメントの法律相談に出かける。「僕は法律相談がいちばんすきです」

・花田政道(はなだ まさみち)
1930年東京生まれ。54年東京大学卒。
1957年判事補任官。東京・札幌・東京・長野佐久支部・横浜・広島呉支部・東京・横浜横須賀支部の地家裁に勤務して87年春退官(9期)。同年弁護士登録、東京弁護士会所属。


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