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 法と民主主義2008年6月号【429号】(目次と記事)


法と民主主義2008年6月号表紙
特集★サミットと「テロ対策」
特集にあたって……清水雅彦
◆グローバリズムのなかのサミットと「テロ」問題……小倉利丸
◆洞爺湖サミットと昨今の政府・警察の「テロ対策」……清水雅彦
◆最近の「テロ対策」と刑事法……新屋達之
◆近時の出入国・在留管理体制の強化と国際的なデータ共有の現状……難波 満
◆市民の自由奪う「監視」の重層的強化──北海道における「テロ対策」の実態……安藤 健
◆アメリカ合衆国における「テロ対策」の動向……木下智史
◆テロ規制と監視を強めるイギリスの動向……田島泰彦
◆ドイツのテロ対策法制について……武藤糾明
  • 裁判・ホットレポート●セブン−イレブンに係るコンビニ契約上告事件──最高裁で弁論……北野弘久
  • 判決・ホットレポート●「袴田事件」再審特別抗告棄却決定……指宿昭一
  • とっておきの一枚●元保谷市市長 都丸哲也先生……佐藤むつみ
  • 税理士の目(15)●国民生活の悪化とさらなる税制「改悪」……奥津年弘
  • 連載・軍隊のない国家(28)●憲法9条と軍隊のない国家……前田 朗
  • き・ず・な●川口和正編著『道遠くとも 弁護士相磯まつ江』あかあかと一本の道とおりたり……小田成光
  • 司法改革への私の直言6●冤罪とどう闘うのか─第40回司法制度研究集会を批判する……渡辺 脩
  • 司法改革への私の直言7●裁判員を量刑判断への参加から外せ──裁判員制度の法改正を望む……中原精一
  • 日民協文芸●〈漆〉
  • 書評●日隅一雄著『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか』……服部孝章
  • 時評●生存権裁判の判決を前にして……新井 章
  • KAZE●日本も本気で温暖化対策を……有村一巳

 
★サミットと「テロ対策」

特集にあたって
 いよいよ洞爺湖サミット開催が目前に迫ってきた。特に北海道では、まちには「サミット歓迎」の空気が漂い、ほとんど毎日のようにサミット関連の報道がなされている。
 しかし、洞爺湖でのサミット自体は七月の開催だが、既に三月から関連国際会議【気候変動・クリーンエネルギー及び持続可能な開発に関する閣僚級対話(三月一四〜一六日、千葉)/開発大臣会合(四月五〜六日、東京)/労働大臣会合(五月一一〜一三日、新潟)/環境大臣会合(五月二四〜二六日、神戸)/第四回アフリカ開発会議〈TICAD W〉(五月二八〜三〇日、横浜)/エネルギー大臣会合(六月七〜八日、青森)/司法・内務大臣会議(六月一一日〜一三日、東京)/財務大臣会合(六月一三〜一四日、大阪)/科学技術大臣会合(六月一五日、沖縄)/外務大臣会合(六月二六〜二七日、京都)】が全国各地で開催され、既に「サミット対策」は早くから展開されてきている。
 この間、政府及び警察はサミットに反対する「テロ」の発生も予測し、着々と対策を進めてきた。
 例えば、二〇〇四年に政府が策定した「テロの未然防止に関する行動計画」の六分野一六項目は既にほとんど実行段階に入り、昨年から警察庁・各都道府県警はサミットに反対する「テロ」や反グローバリズム運動による「暴徒化対策」等に取り組んできている。
 各地域においても、札幌をはじめ監視カメラ設置・増設の動きがある。さらに、サミット開催が近づけば近づくほど警察の取組が強化され、それに伴って色々な市民の権利・自由制限も予想される。
 そこで、「法と民主主義」六月号ではサミットを目前とした中での「テロ対策」を検証する特集を組むことにした。
 本特集は大きく三部構成から成る。
 まず、総論として、マスコミ・国民の中でサミット自体を疑う視点がほとんど見られない中で、そもそもサミットとは何かを考え、サミットと「テロ」問題についての検討を行う。
 次に、「テロ対策」についての国内の動向として、昨今の政府・警察の「テロ対策」、「テロ対策」を口実とした刑事法の動向、出入国・在留管理体制問題、北海道における「テロ対策」の実態について検証する。
 そして最後に、外国との比較として、アメリカ・イギリス・ドイツにおける「テロ対策」を比較検討する。
 確かに、日本で「テロ」が起きてほしくない。しかし、なぜ「テロ」発生の可能性があるのか、「テロ対策」に問題はないのか。世界平和を願い、権利・自由の擁護を唱える法律家なら考える必要があろう。政府・警察主導の「サミット歓迎」「テロ対策」キャンペーンの中で、本特集が別の視点を提供できればと思う。

(札幌学院大学 清水雅彦)


 
時評●生存権裁判の判決を前にして

(弁護士)新井 章


 来たる六月二六日東京地裁民亊二部で、いわゆる生存権裁判(老齢加算廃止処分取消請求訴訟)の判決が出されることになった。この判決は、全国九地裁でとり組まれている同種事件の中で、トップをきって出される司法判断として、その成り行きが注目されている。
 1 この裁判は、生活保護基準の決定権限をもつ厚生労働大臣が、一九六一年(昭和三六年)から半世紀にわたって、七〇歳以上の高齢者保護世帯に支給してきた老齢加算手当(月額二万円弱)を、二〇〇四年(平成一六年)に至って突如廃止するとしたことに端を発している。単身の高齢者世帯でいえば、月額一〇万円足らずの生活保護費の中から二万円程の老齢加算をいきなりカットするというのであるから、これは大変なことであり、そうでなくともつましい暮らしを余儀なくされてきた人たちを貧窮のどん底に陥れる非情冷酷な措置として、高齢生活者の怒りを買い、〇七年(東京の場合)からの提訴となったわけである。
 裁判での争点は二つあって、その一は、長きにわたって保障されてきた老齢加算手当(生活保護費)をいきなり廃止するのは、生活保護法五六条が禁ずる「正当な理由のない不利益変更」に該当するのではないかという点であり、二つには、さような経緯はともかくとして、高齢者国民を月額八万円弱の生活扶助費で生きていけというのは高齢者の「健康で文化的な生活」を脅かすものであり、憲法二五条等に違反するのではないかという点である。
 提訴から一年程度のスピード審理の中で、厚生労働省が自ら「高齢者に特有の生活需要を賄う」費用として支給してきた老齢加算手当を、「高齢者に特有の生活需要」が失われていないのにも拘らず、「財政再建」の名の下に廃止したこと、すなわち「正当な理由」がないのに敢えて不利益措置に出たことが明らかとなり、また、高齢者の生活実態の調査や科学的分析からして、単身世帯で月額一一万円前後が最低生活費として必要であり、月額八万円弱の生活扶助費では「健康で文化的な生活」の最低限度さえも下回ることが解明された。
 2 しかし、今般の老齢加算の廃止措置は、橋本・小泉内閣以来の「財政再建」路線の下で、二兆円に及ぶ社会保障予算の縮減という方針が打ち出され、これを至上命令として策定された二〇〇三年の「骨太方針」の中で、「老齢加算等の扶助基準など制度・運営の両面にわたる見直し」という方策が表明されたことに起因している。要するに、「始めに財政縮減の方針ありき」なのであって、その政策の下に老齢加算であれ母子加算であれ、削り易いところから社会保障予算を削るという、無茶苦茶な大ナタが振るわれたのである。
 確かに国家財政の基盤が脆弱化している実情の中では、財政を改革し再建するという問題は喫緊の政治課題であろう。しかし、財政的な必要があれば、どのような措置でも政府に許されているわけでは決してないのであって、「憲法」という国政の大綱を定めた規範を政府の財政方針が無視してよいということになるものではない。国家財政や予算の編成は、憲法二五条の生存権の保障を実現するためにこそ行われるべきであり、その保障を脅かしてまで財政縮減の方針が貫かれることがあってはならないのである(朝日訴訟第一審判決参照)。
 3 今回の判決が、このようななりふりかまわぬ政治の振舞いに、憲法二五条の見地から鉄槌≠くだし、競争原理・市場原理主義の名の下に「格差は当たり前」と嘯いてきた小泉政治の路線に待った≠かけることになるのか、それとも「財政再建」の掛け声に屈して、高齢者や母子世帯・障害者を深刻な生活困難に陥れ、働く若者達からさえ「人間らしい生活」の保障を奪いつつある現下の自公政治に途を開くことになるのか、憲法政治の中での司法のあり方・見識が問われている。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

人に寄り添う地方自治

元保谷市市長:都丸哲也先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

2002年渋谷観世能楽堂にて。謡曲「邯鄲」の独吟を演ずる都丸さん。

 保谷市は二〇〇一年に田無市と合併し西東京市になってしまった。八年にもなるのに「西東京市って何」と思う。一九四〇年に村から町になって二七年。一九六七年に東京で一七番目の市となった。人口一〇万人弱、東京のベットタウン。そして三四年後ついにその名を失った。 都丸哲也さんは一九七七年から一九九三年まで一六年その保谷市の革新市長だった。市になって一〇年目、青年期の市政を担った。「憲法を地方自治に生かす」ことが目標だった。その前に都丸さんは町議と市議を一〇年間勤めているので保谷との関わりは長く深い。都丸さんは畑だらけだった町にたまたま土地を買って移り住んで半世紀になる。
 一九二一年生まれの都丸さんは八七才になった。「えっ」と思う若さで今でも市民運動の元気なリーダーである。息子二人はとうに独立して今は妻泰江さんと二人暮らし。元保母の経験のある泰江さんは保谷市内私立保育園の園長をやって退職後市議になった。都丸さんが市長になったとき泰江さんは現役の市議。「夫婦でまずい」などと不当な干渉をうけ、泰江さんはその期で議員を辞めた。「私より一〇歳も年上なのに毎日出かけています。ゆっくりしたらって言うんですけども。この頃忘れ物が多くて」。
 都丸さんは群馬県赤城山のふもと横野村生まれ。実家は大きな養蚕農家だった。
間口一〇間奥行五間、二階が養蚕所。戦争新制中学校校舎として生きかえる。姉二人、妹三人そして兄が二人いた。ところがこの二人の兄が亡くなったため哲也君はたった一人の大事な跡取り息子になってしまう。家父長制の時代、食事のお膳が違う程大切にされた。家長の父嘉藤次は「遊び人で有名」渋川あたりに繰り出してお金を使うばかりで家の仕事はしなかった。養蚕業はしっかり者の母きんが懸命に支えていた。それにも限度があり都丸家は次第に没落していく。哲也君は内気なおとなしい少年だった。勉強は良くできたが試験に弱く「大事なときに怖じ気づく」性格だった。旧制中学進学を希望していたが小学校の校長をしていた伯父に諭され師範学校を受験する。「その時『僅か』という漢字が何故か書けなくなって」失敗。お金がからなくて職業につながる学校にと東京の逓信講習所に入学する。卒業後神田郵便局に勤務。当時から文学特に「源氏物語」の世界にひかれていた哲也君は旧制高校そして大学に進み国文学の研究者になりたかった。働きながら夜間の旧制中学に通っていた。
 哲也君にも兵役がある。一九四二年一〇月高崎東部第三八部隊に召集。入隊するとき万葉集と英語の辞書を携えていた。学徒兵なので幹部候補生になることも出来たが哲也青年は「一兵卒」をとおした。軍隊は嫌いだったし、そこでえらくなる気もなかった。入隊後は初年兵としてひどい扱いを受けたが、通信隊に配属される。モールス信号を打つ係だった。哲也青年はこれが大得意。そして一九四四年、宇都宮の第二師団に配属され、防寒具をわたされ北方に派兵されることになる。ところが通信装置を積んだ馬車の馬が農耕馬だったため、予行演習中に暴走して哲也君はケガをしてしまう。見ていたみんなは「都丸は死んだ」と思った。大丈夫一週間の入院で回復し、派兵は免れた。
 次は第百飛行場大隊に転属。一九四四年北ボルネオ島へ。人事担当係となる。幸運なことに、都丸さんは戦争の現場からは遠いところにいた。「南方の前線に行っていたのに激しい空襲を受けている日本から避難しているようだった」。
 終戦はボルネオのクチンで迎えた。オランダ兵が来て捕虜となる。リンタンの捕虜収容所に入れら、飛行場の石割という重労働の日々。片言の英語がしゃべれた都丸さんは部隊の通訳などもやらされた。食事は少なくひもじかったが仕事の時間は九時から五時、虐待もなく「いつ日本に帰れるかとそればかり考えていた」。都丸さんはマラリヤに罹患しただけで四六年帰還することが出来た。イギリス兵の捕虜の虐待でC級戦犯として二四名が残された。都丸さんは一兵卒で人事担当、関わりようもなかった。
 帰還は広島の大竹で、原子爆弾のことは知らなかった都丸さんは広島の惨状にびっくり。広島駅で子どもが物をねだってきたのには愕然とした。群馬の横野村に帰ったときは二四才、同世代の男性で生き残った者は少なかった。突然の帰還に家族は驚いたと言う。
 都丸さんは、実家で、農地改革運動、「群馬自由大学」の設立などに関わったりしたが、学止みがたく上京。受験勉強をはじめる。志望は国文学から哲学に変わって哲学のメッカ京都大学をめざした。受験するが失敗。「思案の末、『久野収』先生がおられる学習院哲学科に行くことにした」大学入学時、都丸さんは二六才の遅れてきた青年だった。
 学習院時代は楽しく充実した日々だった。安倍能成院長のもと自由で闊達な学風、魅力的で多彩な教授陣、学友。小田成光先生は同期、あのオノ・ヨーコさんも哲学科の同期。聡明なお嬢様だった。都丸さんのあだ名は「アンクル」おじさん。皇太子だった現天皇も同期でご学友グループに誘われたりしていた。自治会の総務委員長をやらされ、小田先生には大変ご指導頂いた。大学二年の時結核になり一カ年休学、実家で静養。その結核の療養中に渋川保健所で一町一二ヵ村住民の栄養・生活指導していた泰江さんと出会い、後に結婚。何が幸いするか分からないものである。卒業後は「農村社会学」を専攻しようかと思うが「語学が苦手で」研究者の道はあきらめる。
 一九五八年に保谷に住むようになる。保谷町長から「農業問題に詳しいあなたに町政に参加してもらいたい」と請われ町議選に。五七年に当選、一〇年間保谷の地方議員となる。
 一九六七年に美濃部革新都政実現に小田先生と共に努力、「憲法を地方自治に生かす」ことを学んだ。その思想を守り続けた市長の一六年だった。
 インタビューの場所に都丸さんが選んだのは「こもれびホール」の会議室。元保谷市役所脇にある。駅からタクシーで行くと都丸さんは玄関の外まで迎えに出ている。「『こもれび』っていい名前ですね」と聞くと「市民から公募したんです」。ホールの建設計画を立ち上げたのは都丸さんが市長の時。完成を待たずに辞めることになった。会議室の向こうは駐車場。「あそこは公園にしたかったのに」。しばらくするとさっきロビーで会った女性が会議室に入ってくる。都丸さんに会費を渡し「お会いできて良かったわ」。非核運動、平和運動、国際連帯運動、そして今は「九条を守り生かす」活動、後期高齢者医療問題まで都丸さんは大忙しである。

・都丸哲也(とまる てつや)
1921年、群馬県生まれ。
1942年、召集、入隊。
1955年、学習院大学卒業。1977年から4期16年間、東京・保谷市長。原水爆禁止東京協議会代表理事、非核の東京・自治体対策委員会責任者、日本AALA常任理事などを歴任。


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