「法と民主主義」のご注文は注文フォームからお願いします

 法と民主主義2008年7月号【430号】(目次と記事)


法と民主主義2008年7月号表紙
特集★議会制民主主義の再生を求めて─選挙制度と政治資金を検証する
特集にあたって……小沢隆一
◆「政治改革」とは何だったのか、その『やり直し』の展望……上脇博之
◆選挙制度改革の視点……小松 浩
◆議会制民主主義再生のカギは主権者国民に……木島日出夫
◆我国の議会制民主主義を考える……佐々木秀典
◆議会制民主主義の復権と創造への提言……大脇雅子
◆政治的表現の自由と市民社会──立川反戦ビラ事件最高裁判決批判……石埼 学
  • 判決・ホットレポート●国籍確認訴訟違憲判決──起爆剤となることを期待して……近藤博徳
  • とっておきの一枚●元東京家裁調査官 浅川道雄先生……佐藤むつみ
  • 司法書士からのメッセージ(24)●非司法競売手続きの導入議論について……中山貴博
  • 司法改革への私の直言G●刑事司法改革に対する直言──石田文之祐「冤罪司法の砦!」の書評に事寄せて……石松竹雄
  • 追悼●松井康浩先生ありがとう……小田成光
  • 軍隊のない国家(29)●エピソード編……前田 朗
  • 私の考える平和へのグランドデザイン(3)●一直線につながる、貧困・平和・環境破壊──日本は「地球問題解決人」になろう……高遠菜穂子
  • インフォメーション●第4回「相磯まつ江記念・法民賞」授賞式
  • 日民協文芸●〈捌〉
  • 書評●『裁判員制度を批判する』(小田中聰樹著)……渡辺 脩
  • 書評●『新聞と戦争』(朝日新聞出版)……丸山重威
  • 書評●『刑場に消ゆ』(矢貫隆著)……佐藤むつみ
  • 時評●社会の崩壊をどう食い止めるか─秋葉原事件と社会の責任……丸山重威
  • KAZE●相磯まつ江先生の出版記念会に出席して……榎本信行

 
★サミットと「テロ対策」

特集にあたって
 いま、日本の議会制民主主義は重大な岐路にさしかかっている。
 一九九四年の「政治改革」によって作り出された選挙制度と政治資金のシステムは、この間の政治運営の中でその本質的弊害を露呈するにいたった。すなわち、衆議院に導入された小選挙区制と政党交付金による新たな資金提供、企業・団体献金の温存は、保守政党が地道な日常的政治活動なしに「劇場型政治」で政治的パフォーマンスを確保できる仕組みであり、それは、経済的・社会的・地域的格差を拡大させる新自由主義政策と、明文改憲も視野に入れた自衛隊の海外派兵体制の構築をめざす新保守主義政策を推進するのに格好の政治的枠組みであった。この仕組みの下で、二〇〇五年の小泉純一郎内閣時の「郵政解散」と「9・11総選挙」の結果、衆議院で三分の二の多数を占める自民・公明の巨大与党体制が成立し、小泉政権を継いだ安部晋三内閣が、教育基本法を改変し、改憲手続法を成立させ、二〇〇七年の参議院選挙の公約のトップに改憲を掲げるところにまで至った。
 ところが、二〇〇七年の参院選では、小泉政権・安倍政権のこうした新自由主義政策プラス九条改憲の路線に対して国民がNOの審判を下し、選挙戦で反・新自由主義的な公約を掲げた民主党が受け皿となり参院第一党の地位を得て、自民・公明の与党が少数派に転落した。これは、「政治改革」の弊害が、いわばブーメランのように与党を襲ったものである。
 こうして生まれた「ねじれ国会」の下、テロ特措法が期限切れで失効して自衛隊のインド洋での活動が一時中断したり、参議院に「後期高齢者医療制度廃止法案」が野党共同で提出され、可決されて衆議院に回付されるなど、参院選で示された民意に応える新しい政治の動きがある一方で、新テロ特措法が衆議院での再議決の強行によって成立したり、福田康夫と小沢一郎の自民・民主党首会談で「大連立」が模索されるなどの逆流も見られ、議会政治はにわかに緊迫している。こうした中、自民党の内部では、中選挙区制復活論、衆議院の小選挙区制への純化論、衆参両院を統合する一院制論など、さまざまな制度構想が論じられるようになってきている。
 本特集は、こうした動きを踏まえて、「政治改革」とは一体何だったのか、その実際と本質について、現時点での総括的な批判的検討をおこなうとともに、新たな制度改革すなわち「政治改革のやり直し」(上脇博之氏の表現)の視座を提示しようというものである。上脇博之論文は、「政治改革」の全体像を示し、政治資金法制の問題点を明らかにして改革の方向性を示す。小松浩論文は、選挙制度の問題を扱い、選挙制度改革の視座を提示しながら、民意形成あり方も論じている。
 また、木島日出夫、大脇雅子、佐々木秀典各氏の論文は、「政治改革」以降の国会内での活動を通じて、その問題状況をつぶさに体験した元議員の法律家による興味深く示唆に富む「インサイドレポート」である。
 こうした「政治改革」後の政治が切り捨て、抑圧してきたものは、市民社会内部での民意形成のプロセスである。そうした状況は、ひとり議会政治が、選挙制度と政治資金制度によって作り出したものではない。この間相次いで刑事裁判化された市民によるビラ配布事件は、新自由主義政策と改憲の動きを見すえてこれを批判し抵抗する市民の言論・表現活動を敵視する警察・検察による「国家が仕掛けた罠」(石埼学論文の表現)としての意味をもっている。これらの裁判で有罪判決を下した裁判所は、とりわけ二〇〇八年四月一一日の立川反戦ビラ事件での最高裁判決は、国民の政治活動に対して自ら抑止的役割を演じていることが見て取れる。石埼学論文は、このことを鋭く告発し批判するとともに、政治的表現の自由を守り抜く勇気と知恵の必要性を強調する。
 「政治改革」以降の政治によって歪められた議会制民主主義を、国民主権の理念を真に実現するものに再建していく広範な国民運動の形成が、今こそ求められている。本特集がそのための一助となれば幸いである。

(東京慈恵会医科大学・小沢隆一)


 
時評●社会の崩壊をどう食い止めるか 秋葉原事件と社会の責任

(関東学院大学教授)丸山重威


 秋葉原事件について「理由もなく殺され、傷ついた被害者は、本当に気の毒だ。しかし同時に、生い立ちと環境の中で自分を追い込み、とんでもないことをした加藤智大という青年も可哀想だ、と思う。いま大事なのは、『ひとりぼっちの仲間』をつくらないことではないか」─。
 大学の授業でこう話した。事件が衝撃的だったせいか、学生の関心も高かったが、私の意見には賛否さまざま。もちろん異論もあったが「先生の言うこともわかる」という声も少なくなかった。
▼容疑者の「孤独」
 子ども時代は優秀だったが、進学校で挫折した。自動車整備工を目指して短大に進んだが、結局目的を果たさないまま故郷に戻る。だが、定職に就けず転職を繰り返し自動車工場の派遣工へ。期間工─正社員の夢が壊れたと思い絶望した。
 当初「継続が決まっていたが、つなぎの作業衣がなかったことで解雇されたと思い込んだ」と伝えられた。
 だが、「週刊金曜日」六月二七日号、横田一レポート「派遣先自動車工場での容疑者の日常」によると、彼にも「解雇通知」は来ており、六月五日朝出勤したとき「つなぎ」は本当になく、「いらなくなったら(首を)切るのか」と言って暴れた。それを見た同僚が上司に訴えたが、上司は止めることもなだめることもしなかった、という。「あ、住所不定、無職になったのか ますます絶望的だ」とネットに書き込むのは、この日の夜、六日午前一時四四分(「毎日」一〇日付)だ。ネットへ書き込んでも、止める人はいなかった。取り調べ官に「初めてきちんと話を聞いてくれる人ができた」(「朝日」二一日付)と語った孤独…。
▼新自由主義と派遣労働
 彼が働いていた関東自動車は、トヨタが五〇%を超える株を持ち、トヨタから社長がやってくる基幹工場だ。
 ベルトコンベアの中の「労働疎外」は、鎌田慧氏が「自動車絶望工場─ある季節工の日記」(一九七三年)で書いている。「これは労働かもしれないが、何も作らない。作るのは機械であり、コンベアであるだけだ」─。それに労働法制の「規制緩和」が加わった。「例外」だった「労働者派遣」は当然のことになった。二〇〇四年には、製造業も解禁。当時の日本経団連会長はトヨタの奥田碩氏である。
 八〇年代、中曽根時代の「民活」、国鉄・電電の民営化、国立病院の再編、受益者負担の拡大、九〇年代の「橋本行革」を経て、小泉首相の「聖域なき構造改革」は、格差を拡大し貧困層を増大させた。
 その結果、「競争原理」と「カネ」と「市場」が万能となった。誰もが「価値」ではなく「勝ち」を求めて競争し、理解し助け合えるはずの庶民はバラバラにされた。それまでの地域や組織や家族の繋がりが壊され、余裕もいたわりもやさしさも失い、みんなが疑心暗鬼になった。
▼「闘い」と「連帯」こそ
 つまり、この間、私たちは心の中まで「競争」と「カネ」と「自己責任」の「新自由主義思想」に汚染され、本来最も大切な、人と人との「連帯」や「仲間意識」まで忘れてしまったのではなかったか。
 流れに抵抗すべき労組も骨抜きにされた。気付いた部分もあるはずだが、法律家もメディアも運動をつくれなかった。
 そして、いま事件が私たちの社会を射ている。自分の娘を殺し、その友達の近所の子まで手をかけてしまう母親、「パパを殺す」と自宅に放火し、母や弟妹を殺してしまった少年、「おかあさんは/とってもやわらかい」と詩に書く息子を殺してしまった母、岡山駅ホーム突き落としの少年、そして秋葉原事件の彼…。
 「状況は変わらない。彼らは自分に負けた」「心の闇の解明を」─そんな言葉はごまかしだ。社会の崩壊を防ぐために何が大切か。政治の根本から見直すべきことは多いはずだ。そしてそのための「闘い」と「連帯」─。展望を開くあらゆる活動が求められていると思う。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

その少年の側に立つ

元東京家裁調査官:浅川道雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1997.1.20「櫛田ふきさんをかこむつどい。松田解子さんの下町文化章受賞記念をかねて」。浅川さんは女性にもてる。裁判所でも「浅川チャン」と呼ばれ人気だった。

 浅川道雄さんの住まいは東京の下町、文京区根津にある。地域雑誌「谷根千」のあの根津である。寺町谷中と下級武家屋敷町だった千駄木に挟まれた根津は江戸時代から庶民の住む下町だった。町には累々と重ねられてきた人々の生活の匂いがそこかしこに残っている。夜になると上野動物園の動物の声まで聞こえる。人が肩寄せ合って暮らす町である。そこは元々浅川さんの愛妻やよいさんの実家があったところ。つまり浅川さんはマスオさんになったのである。数年前、明治以来の古家を建直し今はバリアフリーのモダンな家になっている。ウイスキーの樽材で作った質実剛健なテーブルに座って「どんと来い介護生活ですね」くだらないことを言う私。「両親を看ていましたから」とやさしいやよいさん。浅川さんは在職中に一度過労で肝臓を悪くして五ヶ月休職したことがあったがその後はいたって元気で舌好調。一九三一年七月生まれの七七才なのに一〇才は若い。
 東京家庭裁判所の調査官として「まるまる三六年間少年の非行と取り組んできました」。自宅の根津から霞ヶ関の家庭裁判所まで通勤時間わずか二〇分。そのまま三〇年転勤を拒否し東京家裁にいた。裁判所を退職して一六年になる。「在職中から、おしゃべり好きだったので、頼まれると、いろいろなところで講演をして、『恩返し』をしてきました」。「私のおしゃべりをもとにしたいくつかの著作も生まれました」。「非行と向き合う親たちの会」の世話人、「日本子どもを守る会」元副会長でもある。息長く恩返しを続けている。「そろそろ店じまいをしようと思って」だって。
 浅川さんは東京の牛込生まれである。四兄弟と一番下に戦後生まれた妹。二男が道雄君。父親は東京帝国大学工学部卒の金属の研究者であった。日本大学の教授をしていた。母は軍医の娘でしっかりしたインテリ女性で歌などを読む人だった。小学校時代は荻窪に住み小学校一年の夏休みに満州国大陸科学院学校に赴任した父と新京に移ることになる。虚弱児で家でのあだ名は「ゴキブリ」。小学校では小柄な体格で「ネズミ」。本ばかり読んでいる少年は自由で開放的な植民地新京で「東京から来た子」としてみんなの注目を集めのびのびと楽しい少年時代を送ることになる。小学校五年の時一家は東京に帰ってくる。父は陸軍省に勤め、一家は目黒に家を借りて住む。道雄君は府立第一八中に進学する。一九四四年、勉強どころではない。三鷹の軍事工場に動員されて飛行機の部品作りをしていた。
 本土決戦が迫り、下の二人の弟は母方の実家広島に疎開することになる。一九四五年五月に目黒の家を焼かれ、一家は八王子の工場の寮に移る。八月にはその八王子も空襲にあうが、父と母、長男一六才、二男道雄君一四才の四人は水をかけたふとんを被って逃げ、小学校の校庭の端で全員生き残った。広島で被爆した二人の弟のことなど知るよしもなかった。「とにかくいつかは死ぬんだと思っていました」。八月一五日突然の終戦。「日に日に高まる緊張感が切れ茫然とした」。「もう死ななくていいんだ。生きていていいんだ」道雄少年はそう思ったという。三男は県立一中で、四男は市内の自宅で被爆、二人は生死を別つこととなった。
 道雄君は戦争が終わって「もうだまされない。たくさんの人の意見には従うまい」と思った。そこからの出発だった。論語から老子に、ギリシャ哲学と読み進め「超然と生きたい」と思った。旧制中学四年で新制都立西高校一年となる。所属は文芸部。詩を書いていた。ところが東大から来たオルグの青年に論破され「社会科学」に目覚める。レッド・パージの中で学生運動をすることになる。そして早大に進んだ仲間を尻目に道雄君は哲学を学ぶため安倍能成のリベラルな学風にひかれ学習院大学哲学科に進む。清水幾太郎、久野収、勝田守一そうそうたる教授陣である。小田成光・鳥生忠佑先生は同窓、杉原泰雄先生は同期である。入学するとすぐに朝鮮戦争が始まる。社研から新聞部、ゼミは久能ゼミ。平和問題懇談会を組織し道雄青年は大活躍する。日教組運動の講師になって全国を飛び回ったこともある。
 浅川さんは大学を卒業したら教師になろうと思っていた。ところがひょんなことから家庭裁判所の調査官を勧められる。仕事の内容も知らずに試験を受けてみた。教養試験は得意、論文は清水ゼミでやったマスコミ論。もちろん合格する。一九五六年一三名の精鋭が合格する。それぞれ大学も専攻も様々多様な人々だった。
 配属は東京家庭裁判所、女性軍は家事事件を強く希望した。浅川さんは女性に優しいので異論なく少年事件担当となる。
 戦後の自由で民主的な家庭裁判所で、少年法の「子どもを処罰するのではなくて、子どもを健全に育成する」精神で現場を支えてきた。浅川さんは少年事件にのめり込む。仲間の調査官たちと共に研究活動もする。組合活動にも取り組み全司法の優れた活動家でもあった。
 浅川さんは久野収から「民主化というものは簡単なものではない。日本で民主主義を風土化していくことをめざして行かなければならない」と学んだ。少年はその社会をそのまま写す鏡である。人が民主主義の思想を持たなければ社会が民主化するわけがない。浅川さんは「子どもたちの気持ちの中にある、納得いかないことはうんと言えないという感情と、えこひいきされるのはまっぴらだというもう一つの感情」これが大切だという。ここにフランス革命以来の自由と平等の主張がある。この自己主張に目線をおき、たとえそれが未熟なものであっても「共感的理解」を持ち続けることが子育ての基本だという。
 とはいえ現実は複雑で重く、救いのない厳しい事件がくり返される。共感を持つことに疲れ無力感を持つことも多かったのでは。調査官も非行と向き合う親たちも同じであろう。浅川さんは決して少年たちを見捨て断罪することはしなかった。問題を指摘しても共感は捨てない。それを支えているのは人間に対する深い信頼だと思う。調査官の仕事を辞めてから浅川さんはその親たちとも付き合うようになる。調査官時代には見えなかった少年事件の別の一面を見せてくれる。共に語り合うなかで親たちが見事に変わっていく。自分をも変えながら子どもに対する理解を深めてゆく。その共感は我が子だけではなくすべての子どもに向けられる。親たちの会の月刊誌「あめあがり川柳」大賞になった浅川さんのパンチの効いた作品。
「居てほしい 居ないでほしい バカ息子」

・浅川道雄(あさかわ みちお)
1931年東京生れ。学習院大学哲学科卒業。1956年から1992年まで、東京家庭裁判所少年係調査官として、戦後の少年事件を扱う。現在、自助グループ『「非行」と向き合う親たちの会』世話人として、相談活動や講演活動などをおこなう。日本子どもを守る会元副会長。


©日本民主法律家協会