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 法と民主主義2008年11月号【433号】(目次と記事)


法と民主主義2008年11月号表紙
特集★最高裁の実像と虚像
特集にあたって……編集委員会
第一部■座談会
◆最高裁、その基軸と周辺……出席者・右崎正博/小澤隆一/澤藤統一郎/佐藤むつみ〈司会〉
第二部■判決から見る最高裁
◆「立法事実の変遷」を読みとった国籍法違憲最高裁判決……近藤博徳
◆西松建設中国人強制連行最高裁判決について……足立修一
◆形式主義的思考に終始した住基ネット差止訴訟最高裁判決……渡辺千古
◆「君が代」ピアノ伴奏強制拒否訴訟最高裁判決……吉峯啓晴
◆考えることを放棄した最高裁──銃後の憂いに配慮した立川反戦ビラ最高裁判決……内田雅敏
◆NHK番組改編訴訟最高裁判決……日隅一雄
◆利息制限法の解釈適用と最高裁判決……茆原洋子

 
★最高裁の実像と虚像

特集にあたって

 憲法原則を実現すべきその使命に照らして、現在の司法を、そして最高裁の姿勢をどのように評価すべきでしょうか。
 最高裁の諸判決の内容を通じて現在の司法の全体像を把握し、的確に評価したい。そんな思いで、本特集を企画しました。
 近時の最高裁諸判決をどう評価すべきか、意見は軽々に一致しません。おそらくは一面的な評価を許さない複雑さがあるのだと思います。
 「治安重視型判決と人権重視型判決の混在」というご意見もあろうかと思われますし、「周辺部分では比較的開明的だが、基軸部分では牢固たる体制擁護姿勢」という見解もあります。「従前よりも物わかりがよくなったのでは」「変化の兆しも見える」という好意的な感想も、「本質は何も変わっていない」との慨嘆も聞こえてきます。
 それぞれが群盲の一人として象を撫で、自分の感触をつぶやいているだけにとどめずに、それぞれが撫でている部分の感触を集めて繋げて全体像を組み立て見よう、そこから明らかになるものがあるだろうというのが、この特集のねらいです。
 第一部では、「最高裁、その基軸と周辺」と題し、学者と実務家の弁護士との鼎談形式による座談会を企画しました。最高裁に変化の兆しがみえはじめたのかどうか、最高裁は「時代」をどう感じとり、それを、どのように判決内容に反映しているのかを、近時の主な判例の分析とともに、語りあったものです。
 そして、第二部では、治安・教育・マスメディア・戦後補償などから医療や消費者、家族問題などの諸分野まで、それぞれの分野で特徴的な事件に直接かかわってきた実務法律家から、最高裁をどう評価すべきかという問題意識をもって、関与された事件の内容と最高裁の姿勢についてご報告をいただきました。
 「解散・総選挙間近」の文字もすっかり消え去ったかにみえる昨今ですが、近い将来に行われる総選挙では、「最高裁裁判官の国民審査」も実施されます。
 そして、来年五月には、裁判員裁判の実施が予定されています。司法制度の大きな変革が、否応なく追っています。その司法を方向づける最高裁裁判所が、憲法と人権の砦として、その本来の機能を果たし得ているのかどうか、その判断材料として、この特集が、お役に立てば幸いです。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●100年に一度の金融危機 戦争か革命か

(弁護士)森川文人


 遂に「革命」の時代が来た、と言ったら「何を言ってるんだ?過激派か」と思われるだろうか。「ありえない」と失笑するだろうか。
 裁判官からの「職業は?」という人定質問に対し「革命家」と答える若者たちが現れている。法政大学のキャンパスに学内デモや集会への呼びかけを目的で足を踏み入れたことをもって建造物侵入罪で逮捕された青年らだ。逮捕者は二年間で八八名(内起訴は一九名)。国家・大学資本の弾圧であることは、その杜撰な捜査過程からしても明白だ。
 今般の世界金融恐慌をグリーンスパン前FRB議長は「一〇〇年に一度の金融危機」に見舞われていると表現しているが、一〇〇年前と言えば第一次世界大戦(一九一四〜)前夜であり、ロシア革命(一九一七〜)前夜である。革命、そして戦争も歴史の現実である。
 日本では、行政改革、政治改革、そして司法改革…上からの一連の構造「改革」路線が民衆を幸せする為の施策ではなく、むしろその逆であったことはもはや明らかだ。「格差社会は構造改革の副産物ではなく、構造改革の目的そのもの」(森永卓郎・朝日新聞〇八・一〇・二七)と指摘されているが、まさに行政改革=国労解体により労組の弱体化が目指され、政治改革=小選挙区制により社会党等反対勢力を封じ込め、そして司法改革では弁護士激増政策により最後の反対勢力である弁護士会の自治への攻撃をしかけ、「自由」と「改革」の名の下に、強い者=「富める資本」の経済的自由を最大限に保障し、大衆を自己責任=貧困に落とし込む新自由主義社会が貫徹されようとしていた。
 「格差社会」とは曖昧な表現だ。現実は有産階級と無産階級が完全に分離し「上位三名の億万長者の資産は、最も発展の遅れた国々とそこにすむ六億人の人々のGNPの合計額を上回」(『新自由主義』・デビット・ハーヴェイ)る超階級社会だ。「過激」が存するとすれば、世界のこのグロテスクな現実、それ自体である。
 しかし、この超階級社会の破局が始まった。「世界大破局」「世界経済危機」等の表紙が経済誌を中心に躍り、新聞・TVニュースは株の乱高下等の一喜一憂しつつ、経済の楽観材料を示す記事はまったくない。
 すなわち、世界経済には今現在、さらに悪化する兆候の指摘はされても、上向きになる材料は、何一つ提示されていないのである。にもかかわらず、その事実に目をつぶり「そのうち景気は持ち直すだろう」等と嘯く戦後世代の根拠なき楽観は、守るべき生活のない若者からは、無責任な日和見と写るだろう。
 上からの「改革」路線の虚偽性、「リベラル」な制度内改良路線の無力が明らかになり、既存の政治勢力からは有効な未来像の提示はない。崩壊に向かっている資本主義制度の存続を前提としたその制度内での「改革」や政策修正運動等「ルールある資本主義」路線にもはや説得力も魅力もないのである。
 だから「革命」しかない、という若者が出てくるのは当然といえば当然だろう。「文明が閉塞し、不況が深刻化する今、階級の視点を徹底させるラジカリズムが必要」と主張する若い学者(白井聡・日本学術振興会特別研究員)も現れた。醜悪なほど富が偏在し、多くの民衆が貧困に陥れられるこの社会を転覆し、自分たちの未来を自分たちで開く。それが若者の希望であり夢であるのは不思議ではない。『蟹工船』が三ヶ月で四六万部売れたという。時代が大きく一回りし、「連帯」、「団結」、という古臭かった言葉が新しい響きを持ち始めた。一方、岩手の高校生の最も条件のよい就職先は自衛隊だという報告もあり、アメリカのような経済的徴兵制もすぐ目の前まで来ている。戦争か革命か。選択の時は遠い未来ではない。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

映像で歴史を記録する

映画監督士:片桐直樹さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1967年ライプチッヒ国際記録映画祭、日本映画特集の記者会見で。

 片桐監督の二〇〇七年は大変だった。元気だった妻佳枝が自宅の階段を踏み外し大けがをする。骨折は何とか治ったがその後打った腰が治らず立ち上がることが困難になった。自宅で療養を続けていた矢先に今度は片桐監督が夜左半身が痺れていることに気づく。「脳卒中の映画を撮ったことがあるのでこれは脳がやられたと思った」救急車を呼び、かかりつけのご近所世田谷区上祖師谷にある至誠会第二病院に運んでもらおうと思った。自宅からほんの三〇〇メートルの総合病院である。ところが受け入れてもらえず運ばれたのは慈恵第三病院の救急。片桐監督はよくまわらなくなっていた口で病状を説明し「脳卒中だからその治療をしてくれ」と頼んだという。「これといった治療は無い」らしい。入院四カ月、リハビリ一年半、今も続く。脳梗塞で左半身に麻痺が残った。歩くときは杖をつく。左手が不自由で「人間は両手を使えないと不便で」。話すことはまったく不自由ない。「随分良くなったんです」。「右手で脚本も書けるし、監督は口でするものだから軽くてほんとに良かったですね」。失礼ついでに「ご自分の闘病記をお撮りになりません」と私の口が滑る。「そう言うのは僕はやりません」。やさしく断固否定された。怒られるかと思った。
 二〇〇六年一一月、片桐監督はドキュメンタリー「戦争をしない国 日本」※を発表した。「映画人9条の会」の一員としての仕事であるが、実は七三才、片桐監督が生きてきた時代をたどる自分史でもあった。終戦の時一二才尋常小学校六年、「血のメーデー」の一九五二年に大学に入学。映画に関わって五五年、戦争の時代に生まれ皇国少年として育ち、思春期は戦後民主主義、映画人として戦争をしない国を作ってきたはずだった。「まさか、戦争であれだけの苦しみを受けた末にやっとできた平和憲法をそんなに簡単に変えてしまうなんて」、片桐監督は「改憲に賛成」の世論に愕然とした。監督はこの映画に心血を注いだ。そして倒れてしまった。
 片桐監督は一九三四年、滋賀県の草津生まれ、父親は東洋レーヨンに勤めていた。下に弟と妹がいる。琵琶湖に近い宿場町、中山道と東海道が接する街道筋である。生まれたときから戦争の時代、もちろん皇国少年だった。小学校高学年になると食糧難になりついに配給が普通になる。瀬田川に掛かる東海道線の鉄橋の下で大きなしじみをとって食べたりしていた。一九四四年小学六年の時一家は父の田舎の琵琶湖の北伊香郡高月町に縁故疎開する。高月は「古墳と観音の里」である。お寺も多かった。大阪や京都からたくさんの子どもが集団疎開に来ていた。飢えと空襲の日々。機銃掃射にもあった。しかし、農村ゆえに食べ物にも困らず一家は何とか無事に終戦を迎えた。
 終戦のラジオ放送は小学校のグランドで聞いた。何のことか分からず「もっとガンバレ」と言うことかと思った。事態が分かったのは夜灯火管制が解除されたときである。明るいなと感激した。次の日学校に行くと先生は「日本は変わりました」と言う。「鬼畜米英」から「民主主義」。片桐君は「大人の言うことは信用ならない」とつくづく思った。「でも新しい憲法ができて、これからは戦争をやらないと聞いたときこれだけは信じてみようと思った」。
 父の実家を継ぐため農業学校に進学する。ところが途中で学制が新制伊香高校になり、中学の卒業証書がないままに高校生になる。映画にはまったのはこの頃。闇米を担いで京都に行きそれを売ってそのお金で映画を見た。その時見た外国映画は片桐少年の心をわしづかみにした。シベリア物語、ガス燈、わが谷は緑なりき等々。大学は早稲田大学第一文学部演劇科へ。映画の仕事をしようと決めていた。一九五二年無事に大学に入学、まだ外食券の貧しい時代だった。仕送りでは生活できず、演劇科の河竹先生の顔で歌舞伎から映画の現場までいろんなところに紹介してもらいアルバイトをしながら学ばせてもらった。当時映画は東宝争議を経て独立プロの時代。片桐青年はその支援のため山本薩夫監督の傑作「真空地帯」のエキストラ出演をする。たくさんの学生が参加していた。山田洋次青年もいた。「彼はいいシーンで長く映っている」と悔しそうな片桐監督。以来、山本薩夫監督は師匠となった。学生だけで「九十九里浜一九五二」と言う記録映画を作ったこともある。お金が無くてその時音が入れられなかったが、これが片桐監督の映画作り初めの一歩である。まだ一八才だった。独立プロの映画作りに関わり片桐青年は映像の現場から離れられなくなる。毎日がお祭りわっしょいわっしょいと全力を尽くす。終わればしばらくはお休み。とてもまともな会社づとめなど出来ない。大学は中退。中日ニュースから誘われてニュース映画を作っていたこともある。給料も良く社に泊まりっぱなしで仕事をしていた。一九五七年再び戯映画の世界に戻り、山本監督を初め多くの監督の助監督をつとめる。
 そして八年、初めての監督作品は「裁かれる自衛隊」一九六七年。恵庭裁判を映像化したドキュメンタリーである。片桐監督は新進気鋭の三三才、今から四一年前。「これを作ったことが私にとって一生を決定することになろうとはその時は夢にも思わなかったが、今考えてみると、今日までその基軸にそって生きてきたと思う」。映画制作は弁護団の企画だった。ここに片桐監督の原点がある。
 その後、岩手県沢内村を描いた「自分達で命を守った村」、ベトナム戦争の総括とも言える「トンニャット・ベトナム」(ベトナム統一)、被爆者の証言「生きるための証言」、戦争で才能も命も容赦なく奪われた天才彫刻家を描く劇映画「潮音〜ある愛のかたみ」、「日独裁判官物語」、「核のない二一世紀を」、企業と政治が産み出したじん肺の告発「人として生きる」などを作ってきた。
 ドキュメンタリーといえども映画作りには費用がかかる。それを集めるのは容易ではない。稼ぐつれあいでもいなければ生活が成り立たないと思う。
 「私は映画界にはいって五〇年を越える。ニュース映画から劇映画、人形アニメまで映画と名がつくものは何でも経験した。但し、戦争賛美の映画とポルノはやっていない」。片桐監督は人間の歴史を映像でとらえたいのである。そこには確固たる視点がある。映像の力は圧倒的である。だからこそどう撮るかが問われる。
面白おかしいだけの映像で満ちあふれる日常に楔を打つ仕事をもっともっと続けてもらいたい。監督、次の作品は?

・片桐直樹(かたぎり なおき)
1934年滋賀県生れ。1953早大在学中より独立プロに参加。山本薩夫に師事。67年「裁かれる自衛隊」で監督。96年青銅プロ代表。「裁かれる自衛隊」「トンニャット・ベトナム」「生きるための証言」「日独裁判官物語」「人として生きる」等多くのドキュメンタリー映画を監督、一貫して社会問題に取り組む。


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