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 法と民主主義2008年12月号【434号】(目次と記事)


法と民主主義2008年12月号表紙
特集★オバマ次期米大統領の『変革』と課題
特集にあたって……編集委員会
第一部■座談会
◆オバマ新米大統領と大変革の勝算……霍見芳浩
◆オバマ民主党政権下で日米同盟、憲法改正問題がどうなるのか……井上正信
◆空飛ぶオバマの「地域活動」外交……伊藤千尋
◆大統領選挙現地レポート──市民参加の視点からオバマ・キャンペーンを見る……猿田佐世
特別掲載●松井康浩先生から 学ぶもの、引き継ぐもの
◆開会の挨拶……北野弘久
◆司法の改革と松井先生……鳥生忠佑
◆核時代における日本の法律家として 松井先生が貫き通した一すじの道とは……池田眞規
◆民主的司法制度を求めて共に闘った松井先生……吉田博徳
◆松井康浩先生の思い出……米倉洋子
  • シリーズ4●私の原点──若手弁護士が聴く 弁護士 宇都宮健児先生 クレサラ問題訴訟……聴き手・酒井健雄
  • 司法改革への私の直言●裁判員制度・刑事裁判制度に立ち向かう──合意と共同をどこに求めるか……坂本 修
  • 司法書士からのメッセージ●(27)「名ばかり管理職」に見る企業のコンプライアンス……羽野祐介
  • 投稿●国民保護法の基本的人権への影響……大久保賢一
  • 判決・ホットレポート●警察の捜査怠慢の違法性を認めた東京地裁判決……鈴木麗加
  • とっておきの一枚●弁護士 土屋公献先生……佐藤むつみ
  • 西川重則の国会傍聴記ケ●田母神発言と国会のいま……西川重則
  • 日民協文芸〈拾弐〉
  • 書評●小沢隆一/中里見博/清水雅彦/塚田哲之/多田一路/植松健一編著「クローズアップ憲法」(法律文化社)……織田かおり
  • 時評●憲法から労働関係法制をみる視点とは──労働契約法を中心として……横田 力
  • KAZE●今年もがんばった「法民」をほめて下さい……佐藤むつみ

 
★オバマ次期米大統領の『変革』と課題

特集にあたって

 次期米国大統領に、バラク・オバマ氏が共和党候補を大差で押さえて当選した。
 マーチン・ルーサー・キング牧師が「私には夢がある」と語り、公民権運動の先頭に立ってから約半世紀、米国史上初めてのアフリカ系大統領が誕生する。まさに画期的なことである。
 それだけではない。オバマ氏は、大学卒業後シカゴの貧民街で地域活動を経験し、その経験が政治活動の基礎をなしていると言われている。その選挙戦も広範な草の根の活動家に支えられ、組織作りも選挙資金作りも情報技術を駆使し、選挙費用も、インターネットで小口の募金を広く薄く集め、これに支えられたものといわれる(ただし、その割合は大きなものではないとの報道もある)。その結果、若者層に圧倒的な支持を勝ち取ったという(出口調査では一八才から二九才までの若年層の六六%がオバマを支持しマケインの三三%を圧倒した)。核兵器の廃絶を公約に掲げ、イラクからの米軍の撤退、金融規制の強化等を提起してきた。
 オバマ氏は、こうした経歴の点でも、選挙活動の手法の点でも、そしてその政策の点でも、誠に新しく画期的な大統領であると言えよう。
 このオバマ氏の大勝は、よく言われているように、ブッシュ政権の路線に対する米国国民の明白な「ノー」の審判であった。世論調査によると約八割の米国民が「米国は悪い方向に向かっている」と感じているとの結果であったという。こうした世論がブッシュ政権に対する断を下し、オバマ氏の「変革」を支持したことは明らかだろう。こうした、アメリカ国民の世論の動向、オバマ支持に大きく動いた若者たちの活動と熱気、現状を、是非リアルに知りたいものである。
 オバマ氏は、イラク戦争には当初から反対し、大統領就任後一六ヶ月以内の早期撤退を公約として掲げている。しかし、他方でアフガニスタンを「主戦場」と位置づけ、軍の増派を主張している。マスコミは、「テロとの戦い」は、オバマ政権誕生と共に大きな転機を迎える(11月6日朝日)と報じているが、その「変革」はどこまでの射程を持ったものなのだろうか。
 日米関係でいえば、一九九〇年代以降、日米安保の「再定義」が推し進められ、特にブッシュ政権の下で、「再々定義」が推し進められてきた。日米同盟を「極東」はもちろん「アジア・太平洋」を大きく越えたグローバル同盟と位置づけ、米軍を地球規模で再編成しそれに伴って自衛隊を再編して米国軍の一部として組み込み、日本の基地の再編・整備が強行されてきた。オバマ氏は、こうした日米軍事同盟の方向性についてどの様に「変革」しようとするのか、しないのか。
 このことは、私たち国民の最大の課題である、憲法、特に九条改悪の阻に直結する問題でもある。一九九〇年代以降、そして特にブッシュ政権の下で顕著である九条改憲圧力にどのような変化がありうのだろうか、それとも全くないのだろうか。
 マスコミは、米軍再編問題については民主党、共和党の違いはほとんど無く(との自民党筋の見方であるという)、むしろ、アフガンの建て直しのためには、軍事的・経済的に日本の負担をより積極的に求められるであろうとの論調である。
 オバマ氏の軍事・外交政策はどの様な内容を持つのであろうか。
 オバマ氏は、ブッシュ政権を金持ち・大企業優遇と批判し、そこからの転換を掲げた。勤労者層に対する減税、高所得者層に対する増税、石油企業に対する課税強化、さらには、全ての国民が入れる医療保険制度の創設、サブプライムローンに対する規制強化等を提示し、格差是正を図るといわれる。また、世界金融危機に対しても金融規制の強化を図るとしている。
 こうした提起をみると、オバマ政権は、この約三〇年ほど強行されてきた、新自由主義、「小さな政府」の流れを転換しようとするように思える。
 しかし、そのような認識でよいのか、超巨大に発達した多国籍企業がこうした転換を許すであろうか。そうした抵抗を果たして抑え込むことが出来るのであろうか。
 軍事・外交、金融危機などの他にも、食料危機、原油問題、地球温暖化等の環境問題等、私たちは多くの地球規模の危機に曝されている。それらの問題についてどのように取組むのであろうか。
 今特集では、オバマ氏が掲げる理念や政策が実際にどこまでの射程距離を持ち、どこまでの可能性を持つものであるかについて、冷静かつ本質的な視点からの検討をしたいと考えている。

(「法と民主主義」編集委員会)


 
時評●憲法から労働関係法制をみる視点とは─労働契約法を中心として

(都留文科大学)横田 力


 新刊、中西新太郎編『一九九五年─未了の問題圏』(大月書店)は、一九九五年がもつ歴史的画期を、阪神・淡路大震災とオウム真理教事件、そして当時の日経連が提示した「新時代の『日本的経営』」に求めている。第一の惨事は、自然災害に開発主義国家という当時の社会統治のあり方が加わり、被害の最大限化を招いたという点で構造的な意味をもつと言えよう。
 これに対し第三の点は、正に政策の問題であり、政策に力が伴い実定化されれば、それは新たな構造を造出するという関係になる。ではその後、雇用の場において新たな構造は造出されたのか。体系的な憲法解釈の問題でもある。
 先の日経連提言が今後の雇用のあり方と労働者像を、各々長期蓄積能力活用型、高度専門能力活用型、雇用柔軟型の三つの類型に分けて捉えたことは良く知られている。
 今日では、これをうけ、とりわけ若年層(特に女性)と高齢者の雇用形態が流動化し、働き方の多様化が実定法上も追認、正当化される状況が生まれている。それを一部労働法学者は雇用(労働)の柔軟化という用語の下に所与とする傾向さえみられる。
 確かに右の傾向の中に一部看取される契約論を媒介とした個人の自律と人格的価値の強調の傾向は、従来の企業への帰属関係一色に塗りつぶされた労使関係に対して新たな光を投げかけるものである。そしてその光は、二つの方向に作用するといえるであろう。一つは、一般的拘束力をもった労働協約をも結べない日本の圧倒的な職場環境の中で、就業規則が最高の規範として機能するような状況に対してであり、いま一つは、従属労働論を介して労働者を一律統制の馴染む集団的存在と捉える手段的労働基本権論に対してである。いずれも、企業秩序より労働者の自己決定を、集団統制による力よりは労働者の選択を重視する考え方であり市民法の延長線上にある考え方と言えよう。今年三月施行の労働契約法は、特に前者の点を合意及び対等性の原則として繰り返し確認している。
 しかし、この問題を憲法学のレヴェルに引き戻してみると、言われている自律、自己決定にはいくつかの位相があることが十分自覚されていない嫌がみられる。
 そもそも自己決定の基礎となる自律には、「政治共同体において自由かつ平等なものとして尊重される」という意味での「地位としての自律」という考え方がある。これは従来の危害禁止原理や「切り札としての人権」論で正当化が図られるものであるが、それは制限の正当化理由をできるだけ制限することで達成できるものである。それに対して「生涯にわたって遂行される全体としての人生の在り様」にかかわっての自立(目標としての自立)はそれだけでは保証されない。
 それは例えば契約という一回限りの決定と見えるものが、当人をその「人生を積極的に形成する様々な「規模と実践の網の目」の中に」挿入するからである。労働契約がよく「合意の束」であると言われるのはその意味であり、その束は彼・彼女を単に労働者であるに留まらず家庭人であること、生活者であることをも含め広く規定することになるのである。
 ということはこの合意の束の一本の切断または変更が彼らの「目標としての自律」に与える影響は計り知れないものになると言えよう。
 憲法二七条一項の勤労権の意味は二五条の趣旨を労働を介した自律によって達成しようとするものである以上、二項の勤労条件法定主義のいう法は右の意味での「目標としての自律」を条件づけるものでなければならない。
 解雇制限と集団的労働条件の一方的変更とをバーターの関係におき、行政法規としての性格を全くもたず、解雇予告の新規定も欠く労働契約法は何のための特別法であったのか。政策主導の格差として構造化した今日の雇用環境の下で、その意義を憲法に基づく自己決定論と契約z制度論の各々の視点から再度吟味する必要があるように思われる。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

私の「戦争責任」

弁護士:土屋公献先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

2002年8月27日東京地裁前。七三一部隊細菌戦裁判。

 土屋公献先生は戦犯になり損ねた。「僕は勇気がないから彼のように自決できなかったと思う」そばで奥様が「あらあなたは死んでいたと思うわ」。練馬の自宅のソファに背筋をピンと立て毅然と座る八五才の土屋先生は病を得ても強いまなざしできりりと私を見る。
 「私が父島で体験した最も残酷だったものは、アメリカ兵捕虜の処刑であった。私は、墜落したグラマン戦闘機からパラシュートで降りたアメリカ航空兵捕虜の処刑を命じられた。その捕虜は中尉で、名前をウォーレン・アール・ボーンという青年だった」。公献さんは魚雷艇隊の少尉候補生二一才。ボーンはひとつ年上の二二才。公献さんが「君には恋人がいるのか」と聞くと「まだ全然恋人なんかいない、母一人子一人で、母親は首を長くして帰ってくるのを待っている」と。処刑の日は一九四五年三月半ば父島から二〇〇キロ先硫黄島の戦闘がまだ続いていた頃だった。「父島を攻撃してきたアメリカ空軍のグラマンには四一代大統領ジョージ・ブシュも乗っていた。彼の機はこちらが撃った弾に当たって墜落したが、彼は海にパラシュートで降り潜水艦に助けられた」。
 「父島では何人かの米軍兵士が捕まったが、全員が首を切られたり、残忍な方法で処刑された」。ボーンの斬首が決められた時公献さんは上官から「土屋、剣道二段だからその捕虜を日本刀で切れ」と命令された。「私はいずれ死ぬ。斬れと言われれば斬る。これも戦争だ」。ところが処刑前日、「土屋がやるくらいならオレがやる」剣道四段の少尉だった。「彼はものの見事にバッサリやった」「斬った瞬間、座っている捕虜の首が前にバラッとぶら下がって、血を吹き出してパタリと後ろに倒れた。途端に見物していた兵隊たちから拍手喝采が沸き上がった」公献さんは当日の当直将校。「彼に目隠しをして首を切る場所まで連れて行って座らせ、胡座をかかせた」。「彼は素直ないい人であった」。その日の深夜、シャベルを持った二人の兵隊が捕まった。「捕虜を埋めた穴から遺体を掘り出して、その肉を食おうとした」父島は全体に飢えていた。説教して釈放し、「翌日司令にこのことを報告すると『食わせてやればよかったじゃないか』と言われた」。「弱いものを守るために、屈強な若者はまず前戦に立たなければ」。公献さんの素朴な思いは次第に戦争の現実に打ちのめされていく。
 公献さんは一九四三年一二月に旧制静岡高等学校一年で学徒出陣、海軍を志望。横須賀の武山海兵団で、陰湿な虐めと暴力の一か月、そして海軍予備生徒になった。四四年一月末旅順で六月まで訓練を受け七月長崎の川棚魚雷艇訓練所へ。訓練中特攻隊の募集があった。「大熱望」と書いた。が、採用されず魚雷艇隊を希望、一二月末第二魚雷艇隊に配属された。四五年一月硫黄島行きの輸送船で父島に送られた。父島で下船したのは何人かで甲板で帽子を振ってくれた人たちは硫黄島へ、そしてほぼ全員玉砕した。
 二月米軍の硫黄島上陸作戦が開始し、父島にも猛攻撃が始まる。機銃とロケット弾攻撃のなか公献さんたちは艇に乗り込んで米軍機を機銃で狙った。「口から入った弾が頭に抜けて鉄兜を貫く。目を剥いて、開いた口から血が物凄い勢いで吹き出ている。そばで死んでいく仲間を見ているうちにだんだん怖くなって死を実感するようになる」のだと言う。
 硫黄島が全滅し、米軍は父島には定期的な爆撃をする程度になった。食糧の補給もなく父島は味方からも見捨てられた。一九四五年八月一五日終戦。公献さん達は飢えから開放され、備蓄されていた食糧を贅沢に食べる日々を送った。捕虜になることもなく一二月の年の暮れ、冷たい雨が降る日浦賀港に帰還する。船の中で「あのことだけは秘密にしよう」とみんなで固く約束した。しかし四六年の春、アメリカ軍にそれが漏れMPが動く。東京で大学に復学していた「彼」は郷里に戻り庭先で頸動脈を切って自決した。「彼は私の身代わりになった」。
 「もし仮に私が中国大陸に行っていたら、のどかな農村に暮らしている人たちをいきなり襲って、罪もない子どもを刺し殺したり、母親を犯したり、助けてくれと拝んでいる老婆を殴り殺したりしたかもしれない」。
 生きて帰った公献さんは静高に戻った。随分年長の静高生だった。すぐに一目置かれるようになり寮の委員長となる。「古い昔の高等学校を取り戻そうと言う気分だった」。公献さんは子どもの頃から血の気が多く、正義感が強い硬派である。生まれは東京の芝、愛宕町。父親は腕のいい指物師、職人を抱え江戸っ子の気風であった。公献さんはその気風のうえに頭もよく滅法理屈ぽいのである。
 波乱の高校生活を終え一九四八年東京大学法学部に入学。総長は南原繁。宮沢俊義が新憲法九条を熱く説いていた。大学一年は真面目な学生、二年になって学生運動が忙しくなる。四九年六月一日学内紛争の処分で公献さんは一年の停学処分となる。原後山治も同じ処分となった。公献さんは一年後大威張りで大学に戻り、全然反省せずに学生大会議長になり行動はますます尖鋭化。こういうところが公献さんらしい。激動の時代だった。
 そして公献さんは政治的な路線論争に巻き込まれしだいに学生運動から離れることとなる。やっと単位とり、五三年に卒業。学生運動、停学処分の経歴では就職もままならない。やっと甲府商業の教師になる。ところが母が寂しがり練馬の自宅から通える大月市の都留高等学校の定時制の教師に。往復五時間かけて更に一年間教師を続けた。懸命に勉強する生徒を見ていると「心底から生涯、定時制の先生を続けていこうかと思った」
 五五年一月公献さんは原後弁護士の紹介である女性と出会う。この人に一目惚れ。公献さんの気質をよく知る原後は公献さんに弁護士になることを強く進めた。五五年春司法試験に専念するため高校を辞め、五六年一一月にはその女性と結婚。三三才、後に引けない思いで半年間猛勉強。五七年に合格。一二期。もうすぐ弁護士五〇年、ライフワークは「戦争の後始末」。「弱きを助け、強きを挫く」太い一本の道だった。人になんと言われようとも火中の栗を拾い続けた。弁護士としての活動は広く、著名な事件も多い。家族まで巻き込んで非難されることもあった。奥様は出会った時から土屋先生を大好きである。「曲がったことをしない人なの」
『余生をばどう生きようと勝手なり
     ならば平和に命捧げん』 

・土屋公献(つちや こうけん)
1923年東京生れ。52年東京大学法学部卒業。60年弁護士登録(12期)、第二東京弁護士会所属。79年司法研修所教官(3年間)、94年日弁連会長(2年間)。
著書「えん罪を生む裁判員制度─陪審裁判の復活に向けて」(2007年、現代人文社)、「弁護士魂」(2008年、同)。


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