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■特集にあたって
裁判員制度の実施予定日が、いよいよ今年、二〇〇九年の五月二一日となった。さまざまな問題点をはらみながら、その時が近づいている。既に改正刑訴法は施行され、公判前整理手続きは先取りされて、刑事訴訟は様変わりしつつある。
裁判員制度はどう運用されるのか。審理や判決に健全な市民感覚が生かされるのか。被疑者・被告人の防御権や弁護権を侵害することにはならないのか。冤罪を防止することになるのか、助長するのか。重罰化とならないか。裁判批判が封じられるのではないか。疑問点は無数にあり、その評価は定まらない。
喧伝された「司法改革」による最大の制度改変が、刑事司法における裁判員制度の創設である。かつて司法反動へのたたかいをともにした人々の中で、裁判員制度の評価は大きく分かれている。一方で「刑事司法再生のチャンス」と積極評価され、他方でその「本質的危険」が指摘されている。この大きな落差の克服ないまま、制度開始の準備が進行している。
刑事司法は、もっとも直截に権力と人権とが対峙する場である。捜査機関の権力行使と切り結ぶ、人権の側の力量はまことに小さい。しかも、捜査権は謙抑の姿勢に乏しく、過剰に被疑者の身柄を勾留し自白を強要して、自白調書を作成する。「人質司法」「調書裁判」「口頭主義・直接主義の形骸化」がまかり通ってきた。職業裁判官は、「人質司法」「調書裁判」に無批判に、捜査機関の筋書きのとおりに判決を書いてきた。その結果が、異常な有罪率の高さとなり、冤罪の頻発を許してきた。
司法改革の気運が高まったとき、刑事司法への主たる批判は、「人質司法」「調書裁判」とそれを許してきた職業裁判官の事実認定能力や市民感覚の欠如に集中した。
その抜本的対策として在野の側から提唱された制度が陪審制であった。事実認定を市民の手に委ねることによって、口頭主義・直接主義の実質化を実現し、調書裁判を廃することで人質司法も改善できる。裁判と審理の主体を市民に変えることが、捜査の適正化にまで影響をもちうるとの提唱であった。
裁判員制度は、諸勢力の妥協の産物として生み出された。陪審制を求めた側は、裁判員制度を与えられた。磨けば光る金剛石を得たのだろうか。どうにもならない石塊を得たに過ぎないのだろうか。
今、この問題について、法律家は市民とともに考えなければならない。そもそも刑事司法が市民の人権に影響を及ぼすからというだけでなく、裁判員制度が市民を裁く側にも巻き込もうとしているのだから。
とりわけ熟考を要するのは、裁判員の便宜を口実にした弁護権の制約をどう防止しうるか、いかにして推定無罪の原則を貫きうるか、冤罪や重罰化を防止しうるか、である。このことを、市民と法律家でともに考える視点で本特集が編まれた。
本特集は三部構成である。
第一部は、市民代表と法律家との対談。「それでもボクはやってない」を制作以来、刑事司法に関心を寄せていらっしゃる周防正行監督と五十嵐二葉弁護士のお二人に、刑事司法と裁判員制度の問題点についてそれぞれの立場から縦横に語っていただいた。
第二部は、昨年一一月二七日に行われた、自由法曹団・青年法律家協会弁護士学者合同部会・日本民主法律家協会が共催したシンポジウム「市民と法律家で考える裁判員制度」の記録である。おそらく問題点はすべて尽くされていると思われる。
第三部は、裁判員制度に対して寄せられた市民の意見と、そして『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』の書評の形で裁判員制度への批判的検証を試みていただいた。刑事司法のあり方にかかわる市民運動に携わってこられた市民の声は紹介と傾聴に値する。
もちろん、いつまでも考えてばかりはいられない。行動の一致点を見出していく試みが求められている。その萌芽は、本特集から見えてくるのではないだろうか。
1 人類の崩壊が現実となりはじめている。
地球が生まれてから四五億年。地球の自然条件の変化に応じて様々な生き物の種が生まれそして絶滅という歴史を繰り返してきた。人の種が生まれて二〇〇万年位という。佐渡の「とき」と同様に、そのうちに人の種の絶滅の日が訪れるが、それはあと二〇〇万年位先だろうと言われていた。ところがここ数年来、人類の崩壊が現実の問題として論じられるようになった。大きく分けて三つ。第一は核戦争が起これば人の生存する地球社会は壊滅する、第二は地球温暖化で人が生存できる自然条件が消滅する、第三は新自由主義の世界的拡散で資本主義社会が崩壊する、である。これらの三つの危機は相互に絡み合って、世界と日本の政治、財政、金融、教育、犯罪、治安、文化にまで破壊、崩壊現象が浸透しはじめている。この事実は毎日のマスコミの報道で衆知のことである。しかし、日本政府、与党、マスコミに登場する有識者のうち数名を除けば、これ等の危機に対してまともな対応策を語る者は皆無に近い。
2 この危機に対応できないのは何故か。
この人類的危機に対応できない理由を検討してみよう。理由の第一はこの三つの人類の危機を作り出した直接の犯人は米国であることを確認しないままで、対策を考えるからである。対策を考えるには、まずソ連崩壊後、世界に君臨したと錯覚した驕れる大国・米国が、世界に撒き散らした罪悪の数々を検証しなければならない。検証の対象は、核兵器を六三年前に広島に投下した戦争犯罪行為の前科責任を明確にする、自らは厖大な核を保有しながら他国には保有を許さない身勝手、核兵器廃絶条約の締結を拒否、国連を無視した軍事優先の軍事優先外交、自国の資本の利益のために世界の国に資本の規制緩和の圧力をかける強欲主義、キリスト教原理主義に立った政治方針などが、世界の平和、経済、政治、教育の破壊をもたらした事実の検証が必要である。この検証なしには人類の危機への有効な対策を立てることなどできるはずもない。危機に対応できない第二の理由は、西洋文明の生み出した科学万能の思想である。西洋文明のその理念がもたらした最高の到達点が人類の滅亡をもたらす核兵器であった。それは人間を最も効率的に大量に残酷に無差別に殺戮する兵器である。この核兵器を許容する思想は、人間を物としてしか考えない思想である。この思想を維持したままで、現在の人類の危機を克服する有効な対策など考え出すことは不可能である。つまり人間の理性や知能のみに依存した従来の政治理念や科学の理念に欠けていたのは「人の命を生きる人間」を尊重する思想であった。三つの危機の共通点は「人の命を生きる人間」の尊厳を無視する思想である。だから、この危機を乗り越える闘いは、無視された人間性の回復の闘いである
3 人の種の絶滅から生き残る道とは。
三つの危機から人類が生き残る道を明確に「自己の体験で語ってくれる人」は、原爆の被爆者である。被爆者は、人間の尊厳を冒涜した原爆の攻撃により、この世の終わりの原爆地獄の受難を体験したかけがえのない人たちである。だから被爆者に人類が生き残る道を聞くことが一番間違いのない道である。被爆者は余りにもその被害が非人道的で残酷なので、原爆を落とした米国に対して「二度と人間に原爆を使うな、被爆者に謝罪せよ、核兵器を捨てよ」と、半世紀にわたり要求し続けている。「被爆者の言葉」は、高度に倫理的であり、自分の体験を語るのであり、最も信頼できる人類の宝ともいうべき言葉である。
以上の検討の結果、人類が生き残る道とは、今後、すべての国家権力の行使は「人の命を大事にする」という基本理念に基づくこと、核兵器は廃絶、紛争の解決に「殺し合い(戦争)」をしないこと、経済政策は崩壊してゆく資本主義的政策から社会主義的政策の方向に緩慢に転換を目指す。そうして、これらの政策は、人の「こころ」で支えられることによって実現されることになる。
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