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 法と民主主義2010年11月号【453号】(目次と記事)


法と民主主義2010年11月号表紙
特集★政治活動の自由と民主主義の現在
特集にあたって………編集委員会・小沢隆一
◆公安警察の暴走と脅かされる言論社会──立川自衛隊宿舎イラク反戦ビラ入れ事件………内田雅敏
◆葛飾ビラ配布弾圧事件のたたかいと到達点………西田 穣
◆ビラ配布による言論・表現の自由の意義………久保木亮介
◆「集合住宅時代」の自由と民主主義──葛飾事件が提起するもの………小沢隆一
◆裁判闘争の5年とこれからのたたかい………荒川庸生
◆国公法事件上告審で何が問われるか──最高裁猿払事件判決の呪縛を解くために………大久保史郎
◆国家公務員の政治的行為禁止の違憲性………長岡 徹
◆二つの高裁判決(国家公務員法違反事件)の分岐点と、今日の刑事司法が置かれている状況………石井逸郎
◆言論・表現の自由と公務員の市民的権利の確立を………堀越明男
◆“偏向”しているのは裁判官ではないのか………宇治橋眞一
◆資料・4事件の概要と裁判の経緯
■インタビュー・安倍晴彦元裁判官に聞く 戸別訪問禁止違憲判決を担当して………聴き手・米倉洋子
■特別報告・比例定数削減問題と選挙制度改革の展望………小松 浩


 
★政治活動の自由と民主主義の現在

特集にあたって
 葛飾ビラ配布事件の最高裁判決(二〇〇九年一一月三〇日)からほぼ一年が経過した。この事件を含む本特集で取り上げる四つの事件(立川自衛隊宿舎イラク反戦ビラ入れ事件/葛飾ビラ配布弾圧事件/世田谷国公法弾圧事件/国公法弾圧堀越事件)は、各論文や事件の当事者のメッセージがこもごも指摘しているように、二〇〇〇年以来憲法調査会が活動する中、二〇〇三年のイラク戦争開始と自衛隊の派遣などを契機として九条改憲への動きが強まる一方で、これを批判・監視し、またこれに反対・抵抗する運動も大きく広がったことから、その抑圧を狙って警察と検察によって刑事事件化されたもの、いわば「ねつ造」された事件であるといえる。

 警察と検察の「事件ねつ造体質」は、最近の大阪地検特捜部の検察官による証拠改ざん事件や布川事件や足利事件など数々のえん罪事件が如実に示すものであり、それが人権に対する大きな脅威であることについては、いまや広く知れ渡り国民的関心事になりつつある。これに関しては、次号一二月号が特集を組んで解明する予定である。
 こうした問題を克服する決め手は、証拠改ざんの被害を受けた村木元被告が語るように「問題の根底的解明」であり、そのための国民的監視の強化である。それは、国民の政治活動の自由の保障なくして成し遂げられない。そうであるならば、市民の政治活動に対する刑事事件化による弾圧的「ねつ造」もまた、自由と民主主義に対する重大な脅威として、ゆゆしき問題であることを、広く世に問う努力を継続的に進めていくことが必要である。

 本特集では、すでに裁判事件としては終了したもの(立川事件と葛飾事件)と、現に裁判所で係争中のもの(二つの国公法事件)を取り上げているが、前の二つの事件については、その裁判における判決の問題性と、運動の取り組みの成果や今後の課題を明らかにする。

 今なお最高裁の場で争われている二つの国公法・政治活動禁止事件は、今年の三月二九日と五月一三日に、一方は(適用違憲)無罪、他方は有罪という対極的な判決が東京高裁で下されたことを踏まえて、最高裁でどのような判断をさせるのか、とりわけ大法廷に回付させ、国公法の違憲性をどのように裁かせるかが、当面する重大な争点となっている。この問題は、公務員に限らず、この国における政治活動の自由保障のバロメーターとしての意義を持ち、四事件のたたかいは、日本の民主主義を切り拓く視座をすえるものといえる。

 また、こうした市民社会における政治活動の自由をめぐる問題は、自由な選挙運動や議会制民主主義の問題に連結する。おりしも、民主党政権の下で、「国会改革」や衆院比例定数削減の動きなど、国民の声を国政から遠ざける策動が始まりつつあり、自由な政治活動による世論形成の意義がますます高まってきている。

 そこで、戦後の日本の政治史・憲法史のなかで「選挙運動の自由」の焦点となり続けてきた公選法の「戸別訪問禁止」規定について、一九六八年三月一二日に妙寺簡裁において違憲判決を下した安倍晴彦元裁判官(弁護士)に、当時を振り返りつつ、今日的問題状況も含めて縦横に語っていただいた。また、この間の「衆院比例定数削減」問題について旺盛に論陣を張っておられる小松浩立命館大学教授には、九月二五日に本協会の憲法委員会の学習会にて報告いただいた「比例定数削減と選挙制度改革の展望」と同じタイトルでご寄稿いただいた。特集と合わせてお読みいただきたい。

(「法と民主主義」編集委員会 小沢隆一)


 
時評●日の丸・君が代の強制、「歴史教科書」問題の闘いに寄せて

(弁護士)増本一彦

 (一) 神奈川県では、公立学校の教師たちが、いま、日の丸の掲揚と君が代の斉唱に対して県教育委員会から起立を強要されて、この強要にしたがう義務はないと、「心の自由裁判」を闘っている。
 横浜市の教育委員会は自由社の「歴史教科書」を採用して市立高校に強制し、教師たちはこの「歴史教科書」の誤りを正すための副読本を教材として作成したところ、教育委員会から差し止めを強要されて、組合と父母が闘いに立ち上がっている。
 公教育の現場は、日本型ファシズムを最大限に利用して、教師の自由権も学問の真理も押さえつけ、「格差と貧困」の故に荒れる子供たちの頭脳に、日の丸・君が代型愛国心と侵略戦争肯定史観を植え付けようとしているのである。

 (二) そこで、公立学校に学ぶ孫たちのことを考えると、日本国憲法のもとで育った七十台半ばになる私たちにとっても「これは天下の一大事」であり、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という、かっての天皇制軍国主義による侵略戦争と人権蹂躙の責任追及を志す運動をしている者としてもゆるがせにできないということになった。当時の「教育勅語」による教育に反対し、抵抗した教師たちの闘いを調べ始めると、あるわ、あるわ、一九三〇年代の初めだけでも、「新興教育運動」に参加した教師たちは、「長野県教員赤化事件」と呼ばれた検挙総数六百人余り、うち教師一三八人が弾圧された事件を筆頭に、北は樺太、北海道から南は鹿児島、沖縄まで、たくさんの教師たちが治安維持法による弾圧と懲戒免職、教師免許状ち奪(剥奪)の攻撃に屈することなく闘った歴史があった。植民地支配下の朝鮮でも、上甲米太郎などの抵抗運動もあった。しかも、この闘いを現代につなげるために、日本福祉大学の柿沼 肇教授を先頭に「新興教育運動研究会」が組織されて、営々と活動をされているのであった。

 (三) 「わたしたちは、なぜ、貧しく、天皇や財閥、大地主たちは、なぜ、大金持ちなのか」「なぜ、父や兄たちは戦争に行かされ、死んで帰らねばならないのか」といった新興教育の原点は、現代の私たちにとっても基本的な問題である。父や兄、姉が、ワーキングプアといわれる階層や失業者の身に置かれ、母もパートの働き口を探しまわり、自分は給食費も学校に持って行けない現実のなかで、子供たちに世の中の仕組みの真実を教え、世の中を少しでも良くする方向を示すことが教育の核心であろう。神奈川でも、京浜工業地帯の軍需産業の拠点であり、横須賀鎮守府をはじめとする軍部の中心のあったなかで、各地の尋常高等小学校の教師たちが、子供たちに世の中の仕組みの真実を教え、世の中を良くするためにどうすべきかを共に考える教育の実践をしていた。そして、彼らは、その故に弾圧された。
 新興教育運動に職と生命さえ賭して闘った教師たちの姿勢は、現代の闘う教師たちに多くの事柄を伝えるであろう。そのためにも、新興教育運動時代の教師たちの闘いの資料・証言が全日本教職員組合(全教)等の取り組みによって、容易に入手できるようになってほしいものである。

 (四) 対米従属の日本経済の構造そのものが、親と子の貧困を生み出し、拡大再生産をしている。政権交代で生まれた現政権も、行き詰まった日本経済を「新成長戦略」によって多国籍企業化した大企業が東アジア市場で優位に立ち、いっそうの資本の集積・集中を図ろうとしている。そのためには、これまでに集積した二百数十兆円の内部留保を振り向けるだけでは足りず、「法人税率の引き下げと消費税増税」をセットで強行しようとしている。
 法人税の負担の減税分と社会保障負担分の軽減分(これで、年間十数兆円になるであろう)を『資本』にして、国際競争力をさらに強化しようというのである。この企てを強行するために、日の丸・君が代の強制と「歴史教科書」採択の強制が必要なのだとしたら、神奈川の教師たちの闘いは、さらに大きな重みを持ってくる。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

フットワーク軽やかに

弁護士庭山英雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1995年8月10日夏。訪問教授として滞在中のブリストル大学の研究棟前で。

 庭山先生はここのところ何年も私を避けていた。弁護士会でお見かけすると柱の陰に隠れる。もちろんそんなことで取り逃がす私ではない。「先生。何逃げてんの」。このインタビューが嫌でたまらなかったらしい。「僕には語るべきことなどありませんから」などと言い訳する。
 あまりにお元気な様子に先生の年を忘れていました。年が明けると八二才になる。めでたい一月一日生まれ、名前は「英雄」。生まれは群馬県の伊勢崎市、大学は京都、大学院は一橋、中京大学の名古屋から香川大学に移り、定年後に埼玉県の狭山市に移り住む。都心から故郷の父母が暮らしていた桐生のちょうど真ん中に狭山がある。香川大学のあとに専修大学に招聘され、七〇才になるまで狭山から神保町まで通った。その後一九九三年に弁護士登録をして一九九九年、公設弁護人研究所兼庭山法律事務所を渋谷に開く。今でも渋谷まで片道一時間四〇分かけて通っている。「私も来年は八二才、仕事も辞めようと思っている」と言うが元気そのものである。七〇才まではジョギングを欠かさず、東弁の運動会シニアの部で優勝したくらいである。今は散歩を欠かさない。小さい頃から運動が大得意で向かうところ敵無しだった。
 季刊刑事弁護のインタビューで「どこの土地の水が一番合いましたか」と質問された庭山先生「それぞれみな特徴があり、結構でございました」とローマの休日ヘップバーンの言葉を引用して答える。この映画、きっと愛妻洋子さんと見たにちがいない。
 先生は四人兄弟の次男、赤城山の麓の伊勢崎市で生まれた。父親は三流銀行に勤めるサラリーマンだった。一九二九年生まれだから戦争の時代に育った。運動の得意な少年英雄君は旧制桐生中に進学。勉強派の前橋中学と桐中は犬猿の仲。桐生駅裏で野球で遠征の前中生とケンカなどしていた。運動会では実行委員で鉄棒から走ることまで何でも一番、「近所の女学生が見に来て人気だった」。当時は軍国主義の時代で陸士や海兵に進学を勧め、志願して軍人になることも奨励された。英雄君は「人を殺すことは絶対に嫌」。断ると天皇崇拝の国漢の教師から職員室で倒れるまで殴られた。それでも軍隊に行くのは嫌だった。桐生に疎開していた庭山家は空襲で元の家は失ったが無事に終戦を迎える。英雄君は旧制中学四年一六才だった。
 英雄君は卒業後旧制学習院高等科に進学する。学習院時代も運動ばかりやっていた。途中、家が破産し、あらゆる職業(たとえばバーテン)を経験してから京都大学へ。つぶしがきくと法学部に進学したが、大学の授業には心惹かれなかった。しかし、学び続けたいと言う気持ちはふつふつと沸く。そんなとき一橋にいた植松正先生の経歴が目にとまった。小学校卒業後働きながら日大の夜学を卒業、日大の助教授をしながら、東北大学法文学部を卒業したという。英雄君は即一橋の大学院に進学することにする。大学院では刑事法・心理学を学んだ。奨学金をもらいながらアルバイトで食いつなぐ日々だった。
 当時英雄君はユマニテという合唱団に所属していた。実は英雄君は音楽も好きで、小さい頃挫折はしたがピアノをやっていたこともある。そこは津田の女子学生との混声合唱団だった。洋子さんが入団する。「変な声の人がいる」これが洋子さんの庭山君の第一印象だった。英雄君は友人からそのことを聞いたが、なぜか二人はつきあうことになる。結婚したのは一九六五年。英雄君が中京大学に職を得てからだった。洋子さんは大学を卒業後都立高校の英語の教師をしていた。
 名古屋での生活が始まる。先生が刑法学から刑事訴訟法へ軸足を移すのもこの頃である。ドイツ刑訴からアメリカ法へ、その背後にあるイギリス法へ、先生の興味が移っていく。官僚司法から「民衆司法──すなわち刑事司法の運営をできるだけ国民一般にまかせようとする」へと。
 一九七四年から一年間、先生は在外研究としてイギリス・ケンブリッジ大学に留学することになる。先生は四五才になっていた。家族を伴っての留学だった。妻も英語圏であれば不自由ない。留学の目的は「イギリス刑法改正委員会第一一報告書」をテーマにして「イギリス刑事司法の全手続きにつき理論と実際とを身につける」と言う壮大なものだった。そこから先生は「日本刑事司法批判」を目指していた。研究室でその研究計画をじっと聴いていたジーザスカレッジのグランヴィル・ウイリアムズ教授の第一声は「一体イギリスに何年いるのかね」だった。しかし自信はあった。「もっと率直に言おう。学界というところは、ある意味できわめて公平かつ過酷な世界である。つまり業績がなければ、それこそ『洟もひっかけられない』のである。現在第一線で活躍する刑訴学者はそれぞれ特色ある業績を持つ。しかし、私にはそれがなかった。したがって私にとってイギリス留学は、文字どおり『研究者としての浮沈』をかけた戦いであった」「言葉の障害などほとんど意識にのぼらなかった。まずなによりも、どうしてもやり遂げなければならないとの使命感があった」イギリスに着くと「連合王国全土の刑事法学者に手紙を書いた。報告書に関係する全機関に連絡を取った。会うというところへはどこでも飛んで行った。手紙で納得できない時は電話で確かめた。少しでも関連があると思われる学会、総会、研究会には欠かさず出席した」そしてこの留学が先生の研究者としての原点になった。「民衆司法」を日本で実現することが、庭山先生のその後四〇年近くの研究と実践活動の基軸となったのである。
 庭山先生は戸建ての家を新築して、名古屋に永住するつもりだった。「香川大学に法学部を新設するので先生に来てもらいたい」と口説かれる。断り切れずその家を手放し「海を渡る」。一九八三年当時四国は研究者として辺境の地だった。
 五四才、一家で香川に移ったのである。行くと四国には刑訴学者は先生一人、財田川事件再審が結審を迎えようとしていた。もちろん参加。日弁連とのつながりも深くなった。代用監獄廃止の理論と実践運動にもかかわる。イギリスに代用監獄などない。先生はこのことを論文にする。アメリカのシンシナティの警察には代用監獄がないどころか、留置場そのものがない。先生は「警察に潜り込みまして、一警察官として一〇日間ぐらい実習をした」。一九八九年五月にNHKが特集番組「ドキュメント冤罪──誤判はなくせるか・英米司法からの報告」を作る。これが大反響を呼びそれと弁護士会の動きがジョイントして各地に当番弁護士制度が生まれることになる。
 先生は一九九七〜九九年、日民協理事長の重責を担う。
 求められれば先生は決して嫌と言わない。どこへでも飛んで行く。それが、庭山流である。

庭山英雄(にわやま ひでお)
1929年群馬県生れ。中京大学法学部教授、香川大学法学部教授などを経て、95年専修大学法学研究所長。99年同大学定年退職。現在、公設弁護人研究所長、弁護士。著書「民衆刑事司法の動態」(成文堂、1978年)、「被告最高裁──司法体制を問う15の記録」(技術と人間、1995年)、「刑事弁護の手続と技法」(共著、青林書院、2006年)など多数。


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