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 法と民主主義2011年7月号【460号】(目次と記事)


法と民主主義2011年7月号表紙
特集★原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートU)──原発被害の実相と今後の課題
特集にあたって………編集委員会・高見澤昭治
◆いま、求められる安全思想の根本的転換──福島原発災害から考える………柳田邦男
◆原発規制のためのあるべき行政組織と手続………首藤重幸
◆原子力産業の実態と今後進めるべき緊急課………柳町秀一
◆原発被害はいかに賠償されるべきか──審査会指針とその問題点………秋元理匡
◆福島原発事故の損害賠償と税負担のあり方………浦野広明
◆放射線の人体への影響とその危険性………聞間 元
◆いかに原発労働者の健康を守るか………平野治和
■裁判報告
◆近隣住民の健康被害をめぐって………伊東良徳
◆原発作業員の被曝をめぐって………鈴木 篤
■現場報告
◆原発災害と地域社会──福島の現地から考える………真木實彦
◆原発作業員の業務内容と被曝実態………布施祐仁
◆避難住民の被害実態と今後に対する期待………中里範忠


 
★原発災害を絶対に繰りかえさせないために(パートT)──原発被害の実相と今後の課題

特集にあたって
 放射線が充満した過酷な環境の中で、必死になって作業にあたっている労働者の懸命の努力にもかかわらず、福島第一原子力発電所の事故は、四ヶ月経過した現在、未だに収束の目途がたたない状況にある。
 この間、作業にあたっている労働者をはじめ、多くの周辺住民が被曝し、広範囲の住民が避難を余儀なくされて生活を破壊されたばかりか、農業・漁業関係者など多数の生産者は仕事に就けず、中小企業の労働者も職場を失いつつある。さらに放射性物質が遠距離に拡散していることが徐々に明らかにされ、牛肉など食物を通じた内部被曝の危険性はとどまることを知らない。海洋に大量の放射能汚染水が放出されている影響から、さまざまな魚介類が大量に食物連鎖で濃縮されていることは間違いなく、今後、日本人の食生活に多大な影響を与えることも危惧されている。

 本特集は、前号に引き続き、現場からのなまなましい報告を基に福島第一原発の事故がどのような被害をもたらしているかを明らかにするとともに、原子力産業の実態をふまえて原発規制のための行政組織はどうあるべきか、いま行わなければならない緊急課題はなにか、さらに原発被害はどのような特殊性を有し、いかに賠償されるべきか、また損害賠償と税負担をどう考えるべきかについて、それぞれ専門家に論じていただいた。

 そして長年被曝問題に関わってきた二人の医師からは、内部被曝を含む放射線の人体への影響と、原発労働者の健康を護るにはどうしたらいいかを報告していただいた。

 前号に掲載された一四の原発を対象とする各地の裁判報告は、いずれも電力会社が御用学者を利用して法廷でも「安全神話」を振りまき、二件の下級審判決を除き、最高裁をはじめ裁判官がそれを鵜呑みにして、いかに原告らの危惧や思いを踏みにじってきたかを明らかにしたが、本号では実際に原発で被曝した労働者や住民が、裁判でどのような扱いを受けたかを代理人に報告してもらい、今後どう対処すべきかについて、考える素材を提供していただいた。

 それにしても、このような甚大で取り返しのつかない被害を生じさせてしまった根本原因はどこにあるのか。本協会の創立五〇周年にあたる総会において、「いま、求められる安全思想の根本的な転換──福島原発災害から考える」というテーマで柳田邦男氏に記念講演をお願いし、それを巻頭に掲載させていただいた。
 今や国を挙げて事態の収束と被害者が納得できる損害の賠償が一日も早く実現することに全力を注ぐ必要があるが、このような取り返しのつかない悲劇を二度と繰り返さないためには、「可能性があることは必ず起る」という柳田氏の指摘は特に重要であると思われる。

 不確実なストレステストなどを行って、停止中の原発を再稼動させ、運転を継続させようとする動きがあるが、日本のような地震国ではいつ同じことが起らないとも限らない。ドイツ・イタリア・スイスなどと同じように脱原発こそが日本が選択すべき道であり、それを一刻も早く実現することこそが、緊急かつ最大の課題と言っていいであろう。
 子供をもつ女性をはじめ、自覚ある市民などが中心になって、各地で反対運動が急速に盛り上がりつつある。
 「脱原発弁護団全国連絡会」が結成され、活動を開始したが、その期待に応えることが今日の法律家に課された重大な任務であり、使命であると言って過言ではないと考える。本誌がそれに少しでも役立つことができれば幸いである。

「法と民主主義」編集委員会 高見澤昭治


 
時評●原発震災の教訓と脱原発の闘い

(弁護士)小野寺利孝

 福島原発事故は、瞬時に一〇万人を超える人々から日々の労働と生活の場を奪い、子どもたちの学びと遊びの場を破壊した。国・自治体と東電は、四ヶ月経った今日なお、これらの人々に先の見えない避難生活を強いている。私は、福島県いわき市出身であるだけに福島原発は身近な存在だった。しかし、この間、スリーマイルやチェルノブイリの過酷な事故を知っても、いわゆる「安全神話」に毒されていたこともあって、日本での原発事故の危険を意識することはなく、ましてやふるさとでの原発過酷事故を想像することは全くなかった。
 それだけに、福島原発事故が、地震・津波に伴って惹起した「人災」であることが明らかになるにつれ、国・東電等への怒りが強まっていく。しかしその反面、永年核兵器廃絶を求める市民運動に参加しながら、危険な「核」を原発で管理使用できるものと思い込んできた自分の無知を恥じるだけでなく、ふるさとでの福島原発差止訴訟にも、その危険性を追及する住民運動にも一切関与しなかったことについて自責の念を禁じえないものがある。
 七月一三日付東京新聞(朝刊)の一面トップニュースによると、一八年前(一九九三年)原子力安全委員会WGが、「長時間の全電交流電源喪失(SBO)について、炉心損傷等の重大な結果に至る可能性がある」と指摘したにもかかわらず、最終的にはこれを「考慮する必要がない」とした国の安全指針を追認していたことが判ったという。米国や仏が、SBOが炉心損傷につながる恐れを認めて国が対策を求めていることを踏まえて原子力の専門家たちが東電からの協力者たちとともに検討した結果、福島第一原発と同様の事故が起きる恐れを言及していた。にもかかわらず、安全委は、SBOは日本では起こりえないとしてこの指摘を無視したばかりか、WGの報告書を「お蔵入り」にして今日まで公表しなかった。
 私は、先日、埼玉県加須市旧騎西高校を訪ね、双葉町ぐるみで非難してきた悲惨な状況を見ている。町民の八割が原発と関係する仕事に就き、「原発さん」と呼ぶ東電と共生してきた。それだけに、生活と人生までも根底から破壊された今も住民たちが東電へ怒りを現すことはしないという。町としても、ひたすら国に早く復興策をお願いする以外ないという。
 私は、この報道に接したとき、被災者の心身ともに疲れきった姿と複雑な心情をおもい、怒りで身体が震えた。3・11以降原発事故の戦犯と指弾されている班目氏でさえ、「SBOを考えなくてもよいと書いたのは最悪」と認めたうえで「前から安全規制をやっていれば事故は防げた」と述べている。この一事だけで今回の福島原発事故を防げたか否かはともかく、少なくとも一八年前3・11過酷事故を予見しながらこれを放置し続けた国と東電の政治的・社会的責任は言うに及ばず、その法的責任も重大である。
 今や原発推進政策の破綻は明白である。にもかかわらず、「原子力村」は、未だに「安全神話」にしがみつき、電力不足キャンペーンと日本経済破綻の脅しをテコに国策である原発推進政策のほころびをとりつくろい、脱原発を求める国内外の強大な世論に抗し原発の延命をはかろうとしている。
 このような状況を踏まえ、日民協はじめ法律家五団体共催の「福島原発災害連続講座」が開催され、私も含めてこれまで原発問題に関わることのなかった弁護士・学者たちの中から知を力とする新たな活動が生まれる気配がある。また七月一六日には、脱原発の一点で団結し、全国的に協力協同して闘おうとする「脱原発弁護団」が結成される。
 今私たち法律家に求められるのは、福島原発被害者の権利回復の闘いと原発被害根絶をめざす全国民的な脱原発の闘いに自主的に参加することであり、その中でこれまで多様な裁判闘争で蓄積してきた理論と実践を生かし勝利に貢献することであろう。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

やさしき「青年将校」

東京都立大学名誉教授江藤价泰先生 
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1989年11月。フランスの裁判官ピエール・リヨン=カーンご夫妻と京都で。

 江藤先生は四谷の司法書士会館一階ロビーに約束の時間前から座っていた。私があたふたと駆けつけると「定刻主義者だな」と一声。「はいっ」と返事したくなる。司法書士会館の夏の光の中で江藤先生は待っていてくれた。今は亡き大親友清水誠先生と二人で「このインタビューは断固辞退する」と同盟を結んでいた。「語ることなどない」。そうこうしているうちに清水先生は逝ってしまった。照れ屋ではあるがやさしい江藤先生はついに陥落。司法書士制度に造詣深い江藤先生とここで会えるなんて。
 江藤先生は今は家事全般をこなしている主夫である。体調を崩している奥様をいたわって暮らしている。一九二八年一月一日生まれだから八三才である。ほんとうは前年の一二月生まれ。「たいへんじゃないですか」と聞くと「別にどってことないよ。ご飯は直ぐ炊けるし、洗濯だって洗濯機。買い物も楽しいし」とにこにこしている。杉並の自宅隣にはフランス憲法研究者の息子江藤英樹さん家族が住む。携帯もFAXも持たない。もちろんメールも使わない。「うるさくて」。テレビもあまり見ない。満身創痍とおっしゃるがきびきびとして、どう見ても一〇才以上若く見える。
江藤先生と言えばフランス民事訴訟法であるが、フランス語に出会ったのも研究者になったのも「まあ、偶然だな」。
 江藤先生は東京杉並生まれ、四兄弟の長男で法学研究者、二男は東京銀行、三男は東映動画と、四男は東京芸大の鋳金科、芸術家(福岡教育大学名誉教授)である。「先生は絵とか歌とかどうですか」と聞くと「僕は全然ダメ」。実は「飲んで陽気、歌うは軍歌」と言われている。父は熊本出身で会社員(柔道四段)だった。母は水戸の生まれ、どこかで出会い東京で所帯を持った。二八年から三七年まで四人の男子が生まれ、戦後全員大学に行き無事に成人した。
 長男价泰君にはいろんな試練がふりかかった。まずは小四の一〇才の六月、五才から通う町道場の柔道練習中に倒れて背中を強打、風邪気味から高熱、急性肺炎、乾性助膜炎、二ヵ月間絶対安静の重症になる。小六の時、結膜炎になる。目薬の調合を間違われて両眼の結膜が糜爛、瞳孔拡大、視力低下しかもまぶしくて目をあけていられない。転院して名医の治療で失明は免れる。歩いていける日大二中に進学、怪しい「黒メガネ少年」を中二の二月までやっていた。今から考えると、この当時が一番きつかった。その頃、府立四中に進学した友達に会う。進度の差がありすぎるのに仰天。英数国漢等、受験参考書を一揃い買ってきてもらい、价泰君は自学自習。勉強は自分でするもの、という良い癖がつく。中三、今度は肺内リンパ線で三ヶ月休む。どうということなし。中四、体調を考えて受験せず、中五の時、陸士を受験する。一六才の少年にとっては軍人になることは当然の選択だった。
 八月初め、学科試験合格者のみ「短期入校」して身体検査、航空適性検査を受ける。なぜか胸の影は問題にならず、両方にパス。四四年一一月一日、陸軍予科士官学校入校(六一期甲)、四月初旬、朝霞は空爆を受け、五月初め、八高線沿線六ヶ所に同期一五〇〇名は疎開、八月一五日、敗戦を毛呂でむかえる。价泰君は一七才。
 八月末、自宅に帰る。家族は全員無事、家も残った。一一月頃か、東京高等学校理科の転編入試験を受けるが不合格。英語がまるでできなかった。奮起して英語の受験勉強をして三月、今度は文科乙(ドイツ語)を受ける。無事に合格。四六年九月やっと授業が始まった。第一日の一時限目、担任から「君らは文科丙類生であり、フランス語を第一外国語、英語を第二外国語として勉強することになっている」と言い渡された。GHQが、学園に軍国主義的勢力が蔓延するのを防ぐため、復員学徒の数を全学徒数の一割にするよう指令した。学校が文部省と折衝し、この指令通りにすれば不合格となる復員学徒を入れるために、戦争中に廃止された文科丙を復活させ、合格にした。軟弱なフランス語など学ぶ気が起こらず、江藤君はさぼりまくった。大学受験はフランス語と論文、三年の夏休みから必死で勉強した。四九年四月めでたく東大法学部に入学した。
 騒然とした社会情勢、江藤君も入学すると自治会活動に参加、授業料値上げ反対闘争などをやった。授業にはほとんど出ずに単位も最低しかとらなかった。三年の五月祭の時、江藤君は高校の先輩潮見俊隆さんに偶然会う。「就職はどうするの」と聞かれ「早起きしないで済むところを探しています」。江藤君はひどい低血圧で朝はからっきし駄目だったのである。その時潮見さんは「研究者になるのが一番いい」と言ったという。そこで「研究者になろう」と思ってしまう江藤君。ちょうど法学部と社研で助手を募集していた。論文は労働法でと思ったが、当時労働争議が多発しており、判例が多く手に負えない。そこで誰もやっていないフランス民事訴訟なら、と。「フランス民事訴訟法に於ける第三者異議の訴え」と題する論文を努力して作成し、一九五一年九月、兼子一先生の研究室を「恐る恐る」訪ねた。論文はパスしたが取得していた単位が八単位しかなく「却下」されてしまう。「まあゆっくりやり給え」。そのうち兼子先生の推薦もあり都立大の助手の就職が決まる。兼子先生は「フランス民訴の指導は出来ないが、君が一本立ちすれば、明治以来、最初のフランス民訴研究者となるのだからしっかりやれ」と江藤君を励ました。軟弱なフランス語が身を助けたのである。
 研究者となった江藤先生は、気鋭の学者として、フランス民事訴訟法だけではなく司法問題にも広く目を向ける。歴史など広い分野に博識で、授業では脱線した話がめっぽう面白い。民科の中心的な存在でもあった。還暦記念に寄せられた各人の手書きの原稿をそのまま文集したものがある。八八年二月刊行。沼田稲次郎先生以下そうそうたる面々。「私と江藤先生」これがめっぽう面白い。六〇才の江藤先生が生き生きと描かれている。みんななんだか江藤先生が大好きなのである。「いつも余裕綽々として、ものに動ぜずににこにこしている江藤さん」「心やさしい毒舌家」。都立大の自由な学風づくりに参加し、定年後は大東文科大学で力を尽くした。様々な法律家の団体活動も担い、どこでも颯爽としてかっこいい。自己の存在を偽らないすてきな江藤先生。出番はまだまだあるんですからつれなくしないで下さい。

江藤价泰(えとう よしひろ)
1928年東京生まれ。1952年東京大学法学部法律学科卒業。
東京都立大学教授、大東文化大学教授を歴任。東京都立大学名誉教授。
著書「フランス民事訴訟法研究──当事者主義的民事訴訟法の一断面」(1988年、日本評論社)、渡辺・江藤・小田中「日本の裁判」(1995年、岩波書店)、「司法書士の羅針盤──多様化する現代社会を切り拓くために」(編著、同)など。


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