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 法と民主主義2011年12月号【464号】(目次と記事)


法と民主主義2011年12月号表紙
特集★復興の課題 いま何が問題なのか──東日本大震災から10カ月を経て
特集にあたって………編集委員会・丸山重威
◆東日本大震災からの復興をめぐる対抗軸──生存権を最優先した「人間の復興」を………岡田知弘
◆ 阪神・淡路大震災の教訓と東日本大震災の復興──住宅復興とまちづくり………塩崎賢明
◆復興基本法から復興特区法──復興法制をめぐる対抗………田中 隆
◆被災者抜きの復興構想を告発する──今何が狙われているのか………菊地 修
◆いま緊急に必要なこと──農業・漁業・水産業・中小企業を中心に………綱島不二雄
◆被災者本位の復興を!──「救援・復興岩手県民会議」がめざすもの………鈴木露通
◆被災地宮城の子どもたちの現状と課題………瀬成田実
◆被災者に対する税務行政等に関する提言………本川國雄
◆被災者の生活再建には、「返済猶予」ではなく「債務の免除」を………本多良男
◆資料


 
特集★復興の課題 いま何が問題なのか──東日本大震災から10カ月を経て

特集にあたって
 東日本大震災から九カ月を過ぎて、被災の現地には再び冬が巡ってきました。しかし、原発事故の陰に隠れて、大きく取り上げられにくい被災地の状況は、目立った変化を見せていません。政府や自治体の復興への取り組みは、さまざまな問題を含んで遅れている一方で、復興を目指す人々の地道な努力は、全国の応援を得て、広がっています。
 この復興の遅れや、取り組みの混迷の最大の問題は、地元の被災者たちが、どうやって以前の集落やコミュニティ、豊かな自然の中での生活を取り戻したらいいか、と真剣に考えるのに対して、大企業や財界が、より一層の効率化と、収益を求め、新自由主義的構造改革路線をさらに進めようとし、それに政治が荷担しかねない状況であることです。
 政府の復興構想会議は「復興構想七原則」で、「追悼と鎮魂」や「被災地域の復興なくして日本経済の再生はない」「大震災からの復興と日本再生の同時進行」などをうたいながら、「被災者の救援」についてはひとことも言及せず、憲法二五条の「生存権」よりも、旧来型の効率と市場主義万能の経済発展の方向を示しています。宮城県と岩手、福島両県の復興への姿勢の違いは、このことを如実に表しています。
例えば、宮城県は、東日本大震災で被災した県内全一四二漁港のうち、六〇漁港を拠点漁港として二〇一三年度までに優先的に復旧し、水産加工や流通の機能を集約する方針を決め、一二月八日に、県漁業協同組合に伝えています。ここでは、これまで各漁港で担っていた水産加工などは拠点漁港に集約することになっています。
 岩手県は既に、県内一一一漁港のうち、津波で被災した一〇八漁港全漁港を復旧する方針で進められています。県は、「県管理の三一漁港は公共施設として災害復旧が原則であり、中小規模の市町村管理の八〇漁港も、沿岸の集落形成上、住民生活にとって重要な施設だ」としており、「脱原発」を表明した福島県とも併せ、際だった対比を見せています。
 また、こうした中で、米国の要求そのままに、原則としてすべての関税を廃止し、日本の産業から人々の生活まで破壊しかねないTPP(環太平洋経済連携協定)の締結と、「税と社会保障の一体改革」の名による年金の支給年齢切り下げ、復興を理由とした増税計画が進められています。
 大震災は、国民みんなに大きな衝撃を与えたと同時に、人と人との「絆」の大切さが改めて思い起こされ、現代の日本社会でともすれば失われてしまいがちな友情や善意に基づく行動がさまざまな形で広がりました。しかし一方で、そのことをよいことに、本来、政治や行政がしなければならないこと、社会がしなければならないことを、被災の傷が癒えない現場任せにしたり、ボランティアに委ねて責任を放棄してしまう傾向もなしとしません。
 憲法二五条は「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しています。「平和的生存権」にまで広がっているこの考え方は、災害復興においても例外ではないどころか、災害復興であればなおのこと、意識され、検討されなければなりません。
 問題は「生活権」です。豊かな人情を育む美しい自然と、ふるさとが取り戻され、人々に笑顔が戻ってくること。これまで通りの生活が戻ってくること。それが憲法二五条が目指しているものでしょう。
 TPP問題を聞いた地元の漁師さんが「何も外国と競争するために魚を獲るわけじゃない。生きのいい魚を皆さんに食べてもらうのが仕事。外国に売って儲ける必要なんかない」と話しています。そんな「生活の原点」に戻ること。そのために、声を上げていかなければなりません。今号では、こうした状況を改めて明らかにし、あくまで被災者救援を基礎にした復旧・復興を検討したいと考えました。被災者との「連帯」をこめて!

「法と民主主義」編集委員会・丸山重威・関東学院大学教授


 
時評●民主主義と平和のための世論形成に力を!

(弁護士)澤藤統一郎

 二〇一一年もあと僅かとなってしまった。本当に、今年は激動の年であった。
 未曾有の被害をもたらした三月一一日のあの大震災、そして福島第一原発事故。
 財界と支配層は、消費税率の引き上げ、更なる規制緩和の推進、TPPへの参加等の新自由主義路線の諸課題を、大震災を奇貨として一気に推し進めようとしている。また、原発事故に対しても、この事故の原因の究明、その前提となる情報の公開すら未だにまともに行おうとせず、国と東電の責任を曖昧にしたまま、なし崩し的に原発推進政策の再開を進めようとしている。
 九月に菅政権から交代した野田政権は、〇九年総選挙時の民主党のマニフェストを、菅政権以上に徹底して放擲して、財界と支配層の前記の方針を忠実かつ強引に遂行しようとしている。
 また、野田政権は、辺野古埋め立ての前提となる環境アセスメントの影響調査書を年内に提出すると明言している。米国内においてすら、沖縄県内での基地移設を断念しオーストラリアへの移設をといった意見(ナイ論文)が出されるなど、状況の変化が見られるにもかかわらず、沖縄県民あげての反対を無視して、普天間基地の辺野古移設をひたすら強行突破しようとしている。
 更に今年は、一〇月に衆参両院とも憲法審査会の委員を選出し、二〇〇七年五月の国民投票法による設置以降塩漬けになっていた同審査会の会合が初めて開かれた。選挙制度をめぐる、比例定数削減の動きも極めて重大である。
 しかし、こうした財界・野田政権らの強行突破姿勢に対して、世論も反応している。野田政権の支持率は、九月の発足当時五六%であった(不支持一五%)が、一二月には三八%(不支持三四%)と急落している。ちなみに、消費税率の引き上げについては反対五四%(賛成四五%)(本年一二月)。TPP参加については、本年一一月の世論調査では、「交渉参加に賛成」三四%、「反対」二五%、「分からない」三九%であるが、昨年一一月の世論調査では「TPPに参加賛成」四八%、「反対」一三%、「分からない」三八%だったのであり、この一年間に大きく世論が動いている(以上いずれも毎日新聞調査)。また、前述のナイ論文も、「県内移設が沖縄の人々に受け入れられる余地はほとんどない」との状況認識が大きな根拠の一つとされている。
 他方、大阪のダブル選挙での橋下前知事派の大勝は、ファシズムはこのように選挙から生まれるのではないか、と思わせるものであった。 橋下前知事(現市長)ら「維新の会」が強行を図っている「大阪府教育基本条例案」は、戦後、憲法と教育基本法によって根底から転換された日本の教育理念、体制を、再度覆して上命下達の教育体制の下で格差教育・復古教育を推し進めようとする動きであり、極めて危険なものである。
 民主陣営は、「独裁反対」を掲げて闘ったが、そうしたアピールが選挙民の心を捉えるものであったのだろうか。同選挙後に発行された若者向け週刊誌の電車の吊り広告には、「橋下独裁で旧い政治をブッ壊せ」とのタイトルが踊っていた。
 格差はますます広がり、庶民の負担は更に増大し、福祉が切り捨てられる等々、国民、特に若者の中に、深く大きな不満が広がっている。そうしたときに、「独裁で旧い政治をブッ壊せ」といった誘惑は極めて強いものがある。その誘惑の危険を押し返すためには、こうした社会の行き詰まりの原因は何であるのかを広く訴えること、その解決の方策を提起すること、それに基づいた世論を形成していくべく地道な活動を拡げること、それしか方法がないのではないか。
 新しい年も、民主主義と平和のための世論の形成に力を尽くしたいものである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

「ひめしゃら」のように

弁護士杉井静子先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1972年。青法協運動会会場にて。静子先生と厳一先生。メガネの二人である。

 立川からモノレールに乗って杉井静子先生の事務所を訪ねた。歩いても楽しい道のりだがモノレールもウキウキする。たった一駅の空中散歩である。冬の青空、左に富士山が丹沢山地の山並みのむこうにくっきりと見える。モノレールの脇には空き地が広がり、ススキが揺れている。道路のむこうには、昭和記念公園の紅葉が広がっている。もと米軍立川基地は砂川基地闘争、自衛隊移駐反対運動で市民の手に取り戻された。その一角に明るくモダンな東京地裁立川支部が建てられた。最寄り駅は「高松」。
 その「高松」駅。駅から一分、ビルの一階に杉井先生の事務所がある。立川支部まで徒歩五分、立川支部から一番近い法律事務所である。二階には東京三弁護士会多摩支部がある。正面玄関の右側、ガラス張りの一角に「ひめしゃら法律事務所」の文字が。キャフェか店舗の立地である。ドアを開けると受付の空間。左端には飲み物の自動抽出機。コーヒーからお茶まで自由に選べる。事務局の人がマイカップでコーヒーを取りに来ていた。右には水とお湯の給水機。窓口の壁に作り付けのベンチはアールの木製。「ひめしゃら法律事務所」のロゴは木で作られている。耳を澄ますとクラシックのBGMが流れている。暖かくて心地よいすてきな事務所である。
 ずんずんと事務所に入っていくと事務局スペースの奥に弁護士が机を並べている。宮本康昭先生がなにやら立ち上がって電話している。あれ、杉井厳一先生もいる。一番手前は「立川支部に一番近い弁護士」と自慢している伊吹勝美弁護士。アールを多用し木製にこだわった事務所はどこまでも自然でほっとする。窓のない応接室も拘束感がない。そこかしこに花が生けてある。右側の大きなガラスから庭が見える。その先は公園である。
 二〇〇九年四月、杉井先生は、厳一先生、宮本康昭、杉野公彦、伊吹勝美、岸敦子弁護士らと「ひめしゃら法律事務所」をこの地に開設した。静子先生六四才、厳一先生六五才、国立にあった杉井法律事務所を畳んでの出発だった。そこは国立の住宅地にあるしもた屋。みどりの木々に囲まれ、厳一先生が丹精した花々が咲く家だった。玄関脇のシンボルツリー「ひめしゃら」も生き生きと四季を楽しませてくれていた。
 静子先生は、三多摩事務所に三一年、厳一先生も川崎合同に三一年。同期二一期。その頃厳一先生は体調を崩していた。夫婦で支え合いながら仕事をしようと国立に二人で独立する。厳一先生は体をいたわりながら、事件活動と日弁連活動を続け、静子先生は家事事件やジェンダー問題、革新懇運動などこれまでどおりにフル回転の日々送っていた。
 そして八年、「なぜ新しい共同事務所を」。「次の世代の若い弁護士を育てることを最後の仕事にしようと思ったの」。「私は長い間庶民の相談を受け続けた町弁なの。でも町弁って何か。どんな弁護士か。確立されてないように思う」。事務所は全弁護士が法テラスの仕事を引き受け、スタッフ弁護士の養成に取り組んできた。法律相談のロールプレイングも事務所の課題としている。任期を終えたスタッフ弁護士も戻り、今では弁護士の数は九名、過疎地でがんばる弁護士は二名となった。杉井、宮本の世代からその子ども世代へ、熱い思いが伝わる。
 静子先生は一九四四年九月、青島で生まれた。父友作は中学校の漢文の教師だったが、徴兵されて不在。一九四五年一月、母良子は生後四カ月の静子を連れて帰国を決意する。朝鮮を経由してやっと船で日本についた。間一髪の判断だった。四五年八月には敗戦、「私は残留孤児か生きて帰れなかったと思う」。無事帰還した父は立川駐留軍で仕事をすることになる。教職には決して就こうとしなかった。静子さんが中三のとき父は整理解雇となる。下に妹が二人。父は工場など現場の仕事で家計を支えた。静子さんは立川高校に進学する。母は九人兄弟姉妹の上から二番目、三人の娘には「ちゃんと勉強して、手に職を持ちなさい」と言っていた。ところが静子さんが「私は法学部に行って弁護士になる」と宣言すると「なれるわけがない」と大反対だった。静子さんは中央大学の法学部に進学。母を見返すためにも「絶対に司法試験に受かってやろうと思った」。頑固な頑張り屋なのである。猛勉強して在四で合格、弁護士になった時はまだ二四才だった。小柄な静子さんはほんとうに若く見えたと思う。当時は女性弁護士も少なく、「弁護士として信用してもらえなかった」。ジェンダー問題は静子先生の実感だった。
 厳一先生とは青法協の活動で知り合い、一九七〇年に結婚、七一年に長女、七三年に次女と二人の娘を産む。産休明けから保育園に預け、自転車に乗って仕事と子育てを懸命にこなした。「若い女性弁護士に一〇年我慢しなさいっていつも言うのよ」。ところが、静子先生は長女が九才の時に長男を出産する。「お姉ちゃん達が面倒をみてくれて」。そこから一〇年、静子先生はまた子育ての山を乗り越えることになる。その長女は法学部卒業後医者をめざし勉強し直し医学部へ。今は消化器内科医になり松本の病院に勤務する。次女は養護学校の教師となり共働きを続けている。杉井宅の隣に住む次女一家には孫が三人と黒と茶のラブ二匹がいる。厳一先生は「育じぃ」状態でご機嫌だという。二匹のラブの散歩も杉井夫婦の仕事である。長男はテレビ業界で仕事をしている。
 そして静子先生のこのところの楽しみは「山菜料理なの」。蓼科をベースにして春になると山菜を採りまくるんだそうです。それを持ち帰りとびきり美味しい山菜料理にしてみんなに振る舞う。「天ぷらなんてありふれたものではないの。私の創作料理は」。家事として義務でやっていた時料理はちっとも楽しくなかったと言う。「それが今はもう楽しくて。ストレス解消よ」。次女の家の朝食も毎朝静子先生が作って届けるんだって。
 都留文科大学でジェンダー研究入門の授業があるときは朝七時に自宅を出発、授業は一時限目にしてもらい、午後一時の立川支部の事件に出るという。その授業成果は二〇〇八年に「格差社会を生きる」という本になった。「家事事件数では私は誰にも負けない」。相談の半分はカウンセリングだという事件をこなし、セクハラ、DVなど困難な事件を厭わず、女権、両性の平等に関わる弁護士会活動、弁護士会の副会長、関弁連の理事長まで引き受ける。今は日弁連の家事法制委員会委員長である。
 小柄な静子先生はリスのようにくるくると働く。古稀までに老後の「身の納まり」を付けたいんだって。

杉井静子(すぎい しずこ)
1969年弁護士登録(21期)。教科書裁判、日産家族手当男女差別裁判、ケンウッド子もち女性配転解雇裁判などに関与。日弁連女性の権利に関する委員会委員長、関東弁護士会連合会理事長、日弁連家事法制委員会委員長などを歴任。都留文科大学非常勤講師、全国革新懇代表世話人。著書「セクシャルハラスメント処方箋」(アドア出版)、「世界から見た日本の女性の人権」(明石書店、共著)等。


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