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 法と民主主義2012年4月号【467号】(目次と記事)


法と民主主義2012年4月号表紙
特集★総批判「社会保障と税の一体改革」
特集にあたって………丸山重威
◆対談「社会保障と税の一体改革」の政治・経済学………二宮厚美/渡辺 治 聞き手・丸山重威
◆社会保障と税の一体改革の基本的性格と特徴………熊澤通夫
◆所得の再配分機能と累進課税による増収………浦野広明
◆なぜ消費税でなければならないのか………阿部徳幸
◆「一体改革」と大企業の負担──大企業の内部留保課税の提案………菅 隆徳
◆老後保障の「空洞化」・年金「改革」の実相………公文昭夫
◆「子ども・子育て新システム」の落とし穴と保育制度拡充の構想………浅井春夫
◆社会保障・税一体改革にみる医療制度改革と医療保障の課題………伊藤周平
◆「一体改革」のねらう介護保険改革と介護保障のありかた………岡ア祐司
◆「一体改革」のめざす「貧困・格差対策」の問題点………相野谷安孝
◆共通番号制度の狙いは何か──社会保障改革をめぐって………K田 充


 
総批判「社会保障と税の一体改革」

特集にあたって
 二月一七日に「社会保障と税の一体改革・大綱」の閣議決定後、民主党内外でずっともめ続けていた「消費税増税法案」が、三月三〇日閣議決定され、国会に提出されました。
 今回の「一体改革」は、法人税引き下げと消費税引き上げなど税制構造をさらに大企業負担の軽減を図る方向に改変するとともに、もう一方で、公約の「社会保障充実」どころか、社会保障費の抑制のため、国の責任を回避する方向へ限りなく傾斜し、新たな削減に踏み切ろうとするものです。
 ところが、大手メディアは、破壊されてきている社会保障の実態や、消費税増税に隠れた大企業優遇の税制やその構造を書くのではなく、「消費税を引き上げないと財政は破綻する、ギリシャのようになる」という類の言説をふりまくか、政界再編や解散の行方など「政局報道」に終始しています。大メディアが数年前から「消費税増税支持」の方向であることは、周知の事実です。
 「超高齢化社会・日本では消費税引き上げなくして社会保障を維持する財政はもたない」「社会保障と消費税増税はセットでなければ実現できない」というキャンペーンは、基本的な問題を回避し、「一体改革」推進の思考に、国民を追い込もうとするものです。しかも、この消費税増税と社会保障削減は、四月九日に発表された自民党の「次期衆院選マニフェスト原案」にも明確に書き込まれ、政策面での大連立は既に成立しつつあります。
 本誌では、このような「一体改革」の危険性に正面から挑むとともに、消費税引き上げと社会保障の構造改革を両面からの「総批判」を試みました。
 野田内閣流の「社会保障と税の一体改革」の呪縛から脱却することなくして日本経済の再生は図れないと、私たちは考えます。この特集が、「一体改革」への基本的な認識と具体的な実態を知り、運動を広げようとするすべての人々に読まれることを期待します。

「法と民主主義」編集委員会 丸山重威


 
時評●裁判所は国策の番人か

(弁護士)重 哲郎

 今から二二年前(平成二年)の事である。高松の自然食品会社のちろりん村は原発バイバイCMを瀬戸内海放送で放映していた。映像は、地球とその上に咲く花や動物や人間をデザインした可愛らしい図柄であり、「私たちにできること」「地球が元気になるように」「原発バイバイ」の文字が入っていた。
 ところが、突然、瀬戸内海放送は、このCМの放映を打ち切ったのである。瀬戸内海放送の打ち切りの理由は、「民放連の放送基準では、係争中の問題に関する一方的主張又は通信・通知のたぐいは取り扱わないとなっている。原発バイバイCМは、この民法連の放送基準に反すると判断したから、契約を解除する」との事である。
 この様な、瀬戸内海放送の一方的な原発バイバイのCМの打ち切りに対し、ちろりん村は、とても納得できなかった。
 テレビでは毎日のように、「明日を支えるエネルギー原子力発電」「電気の四〇パーセントは原子力です。原子力発電は安全を第一に取り組んでいます」等、原発で働いている人達の笑顔の映像を流し、原発の安全性、必要性を宣伝しているのである。
 なぜ電力会社のこの様なCМが許されて、ちろりん村の図柄の中に、ささやかな「原発バイバイ」という文字が入っているだけのCМが許されないのか。
 ちろりん村は、瀬戸内海放送が、電力会社の原発推進のCМは毎日の様に放映しながら、「原発バイバイ」のCМの放映契約を一方的に解除したのは、憲法一四条(法の下の平等)、憲法二一条(表現の自由)に反し、公序良俗(民法九〇条)に反するものであり、放映契約の解除こそ、放送法に反し、無効であるとして、原発バイバイCМの再開を求めて提訴した。提訴した事がマスコミで報道されると、朝日新聞のかたえくぼには、「原発バイバイ放送基準に抵触。漢字で「原発倍々」なら問題なかった。瀬戸内海放送」という投稿が掲載された。また評論家の天野祐吉さんは、CМ天気図というコラム欄で、「原発は明日を支えるエネルギー」のCМが許されるなら、原発バイバイの文字を「原発は明日をおびやかすエネルギー」と書き換えたらいいではないかと評した。
 ちろりん村は、これらの記事や、全国で流されている電力会社の原発推進のCМ等を証拠として提出し、高松地裁、高松高裁、最高裁判所と争ったが、残念ながらことごとく敗訴し、ちろりん村の原発バイバイCМの再開はかなえられなかった。
 裁判所は、「原発バイバイ」のCМは、原子力発電所の必要性を断定的に否定した表現であり、民放連の放送基準に反する。一方、電力会社の「原子力発電は安全第一に取り組んでいます」のCМは、四国電力が、原発の安全性保持を企業の最重要課題として取り組んでいるとの企業姿勢を端的に表現したものにすぎない。「明日を支えるエネルギー原子力発電」とのコマーシャルは原子力発電所の必要性を断定的に肯定した表現ではなく、四国の電力の四〇%が原子力発電によりまかなわれている既成の事実を踏まえた将来の展望をいささか修辞的に表現したものと受け取れるから、いずれも民放連の放送基準に反しない」と判断した。
 地裁、高裁、最高裁は当時の国策である原発推進のCМを擁護し、国策に反する「原発バイバイ」のCМを排除したのである。
 本件に携わった弁護士として感じた事は、裁判所は憲法の番人、法の番人ではなく、国策の番人であるとの思いであった。福島原発の大事故があっても、未だに原発の廃絶は国策になっているとは思えない。福島原発の大事故こそ、原発の危険性の明白な証拠である。裁判所には、これからの公正な裁判を期待するものである。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

下町の風に吹かれて

作家早乙女勝元さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

1983年8月.家族そろってのヨーロッパ旅行。アムステルダムのミープさん(当時74才)の家にて。

 早乙女勝元さんは今年傘寿八〇歳を迎えた。一九三二年足立区柳原生まれである。トレードマークだったベレー帽は「目立つので」ハンチングに替えたという。改札口に五分前についた私より早く待っていてくれた。線路の枕木で作ったあの有名な自宅は、足立区のはずれにある。最寄り駅は竹ノ塚。歩いて二〇分、早乙女さんは一仕事終えると運動がてら駅まで散歩する。駅近くの喫茶店でコーヒーを飲むのが日課である。帰りも歩くといい運動になる。打ち合わせやインタビューもここで受けることにしている。
 二〇〇八年に人生の伴侶直枝さんを亡くした。「音楽の研究会に出ていて虚血性心不全で倒れて」突然の別れだった。七歳年下の直枝さんはまだ六八歳。小学校の音楽教師だった直枝さんは学生時代に、葛飾区内の小さなバラックに住む早乙女さんと出会った。失業中のうえに、地元の小学校の講堂建設強制寄付反対運動の中心だった。「ビラまきを手伝ってくれた庶民的な娘が、いつの間にかガラクタピアノ一台をもってころがりこんで来、それから、ぼくの泣き笑いの道は、今日まで続くことになる。惜しいことをした。ほんの一足ちがいで、この町のたたかいを書いた小説『小麦色の仲間たち』を映画化したい、と吉永小百合嬢がうるわしい微笑で、ぼくの前に登場したというのに」一九六五年のことである。直枝さんは、長男輝君(今では小学校の音楽の教師)、次男民君(クラッシックバレエから絵書きに)、長女愛ちゃん(ビデオジャーナリスト)を育て、教師の仕事を続けた。早乙女さんがたくさんの名作、子育て奮戦記を書けたのは、この家族を持ってこそである。「一日も寝こむことなく逝ってしまった」「直枝の楽しい歌声が応援歌として今も聞こえます」。
 早乙女さんは山田洋次監督の一年下。「二〇代のある時期を、早乙女さんとぼくは、仕事を通じてともに過ごしたことを、誇らしく思い出す。柴又帝釈天の参道を肩を並べて歩いたのもあの頃だった。ぼくたちは、若くて無名で貧しかった。そして早乙女さんが日本のゴーリキーのようなすごい作家になることなど、あの頃のぼくは予想もしなかった」。
 早乙女さんの作家デビューは早かった。一九五二年、二〇歳で『下町の故郷』を出版していた。「まず自分史を書こう」と決心したのは一八歳の時である。「私が生きてきた十数年の生い立ちには、目もくらむばかりの貧窮と生きるか死ぬかの戦争がありました。そんじょそこいらの並みの体験ではないはず。死んだ友に代わってでも、書き残さなければならないのです」旧制都立七中夜学部に通っている一四歳の頃から「私は欠かさず一日三〇分以上か、さもなければ一〇〇ページ以上の読書に精を出し、日記帳と感想ノートに、読後の感想やら一日の出来事をせっせと書きつらねてきました。もう何冊もたまっている。そこには断片的ではあるにせよ、自分史の素材になりそうな、私の生い立ちに関するエピソードが、たっぷりメモしてあります」「どれもこれも、やたら悲しくて寂しい思い出に、手足が震え出すような飢えと寒気とが重なっている」「作家は第一作にその人のすべてが出るんですよね」宇都宮健児さんは「学生時代に」この本を読んで「たいへん感動した」んだって。
 早乙女さんは高等小学校卒である。戦争の時代に体も弱く体力もなく、「わが家の貧窮ぶりは普通ではなく、」「四人兄姉の末っ子だった私の少年期は弁当も持てず、昼食は一度家に帰っていた。」「先生もまた、そんな私を疎ましく思ったのか、名前も呼んでくれなければ、指もさしてくれません。たまに廊下ですれちがうと、おもしろくなさそうな顔で『なんだ、負元か』には、失望より激しい憎悪を感じました」「『お前みたいな腰抜けは、軍人にはなれん。恥を知れ、恥を』と往復ビンタ」。一九四四年に高等科に進学し、一学期だけで後は勤労動員で鉄工場へいった。一九四五年三月一〇日の未明、東京大空襲にあう。「私とかかわりのあった町も、学校も、動員先の工場も、何もかもが焼き尽くされて、一〇〇万人が家を焼け出され、約一〇万人もの尊い命が失われてしまいました。私たち一家はどうにか助かりました」。
 「私自身かろうじて生きのびたのが不思議なくらいです」一九四六年やっとの思いで進学。働きながら通った旧制の夜間中学では権威主義に反発して一人退学せざるを得なかった。この時早乙女さんはまだ一六歳だった。
 青春小説、東京大空襲や平和問題に関連するルポルタージュの作品群、子育て本など六〇年間に書いた早乙女さんの作品は幅広い。「名作でなくて迷作ばかりですよ」とご本人は言う。私は早乙女さんは自分が生きたその時代を自分で感じ、書く人だと思う。どの作品にもリアルな現実とそこに生きる人が活写されている。早乙女さんと一緒にその場に立っているような気持ちになる。何を書くかは早乙女さんが何を見るかで決まる。そして平易でわかりやすく伝える文章は読者を引き込む。辛く厳しく悲しい現実なのに。涙がこぼれるのに。どこかに飄々とした救いがあるのはなぜだろうか。インタビューに答える早乙女さんは率直で優しい。「ここのコーヒーは安いでしょう」。いつも穏やかな親戚のおじさんとお茶をしているようである。威圧感や自慢がない。話していて私の疑問が解けた。すべての作品の中に早乙女さんがいてくれるから救われるんだ。
 早乙女さんはご存じの通り二〇〇二年に開館された「東京大空襲・戦災資料センター」の館長である。一九七〇年に「東京空襲を記録する会」を呼びかけてから三〇年、二〇〇〇年に建設募金を開始した。「たとえ、どんなに小さくてもいい。東京都から見放された資料の公開と活用を基本にしたセンターを、民間で作りたい」。江東区北砂に土地の寄贈を受け、一億円を集めきった。二〇〇二年三月にオープンしたセンターは二〇〇七年には増築し、一〇年目の今年三月一〇日には来館者が一〇万人を超えた。研究、展示の充実も進んでいる。「3・10東京大空襲の戦災死者とほぼ同数の人に、大空襲惨禍を承継したことになる」。
 早乙女さんの近著はこの三月に刊行された『ハロランの東京大空襲││B29捕虜の消せない記憶』、B29のパイロットとの交流を書いたものである。実におもしろい。筆力も記憶力も充実している早乙女さんは、自分史をふまえた小説の続編を完成させたい。そしてセンターをなんとしても維持したい。早乙女さんは「もうひとふんばり」するつもりである。

早乙女勝元(さおとめ かつもと)
1932年東京生まれ。12歳で東京大空襲を経験。働きながら文学を志し、18歳の自分史『下町の故郷』が20歳で刊行される。『ハモニカ工場』発表後はフリーに。2002年、「東京大空襲・戦災資料センター」初代館長に就任。主な作品『東京が燃えた日』、『図説・東京大空襲』、『空襲被災者の一分』、『下町っ子戦争物語』など。


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