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■特集にあたって
経済発展至上主義の犠牲となったアスベスト被害者、拙速な新薬開発と販売の犠牲となった抗がん剤イレッサの被害者など、経済成長や利益優先政策の「犠牲」について、被害防止のための加害企業に対する規制を怠った国家の責任を免罪する判決が相次いでいる。
このような中、人権の砦たる司法が、その役割を放棄し、真実の究明と救済に目をつぶる司法消極主義をリードするかのような論文が、『判例タイムズ』(2011年12/1・1356号/1359号)に発表された。現役の訟務検事による、係属中の泉南アスベスト及びイレッサの国賠訴訟について、国の規制権限不行使の法的責任を否定する論文を載せている。論文の最後に、「現時点における財政事情」を持ち出して、規制緩和社会→国の規制権の否定→国による法的救済の否定という明確な考えを披瀝している。
国策の犠牲となった公害や薬害の被害者の救済、大震災と原発事故の被災者への救済は基を同じくする。司法は、今こそ、いのちと人権にその役割を果たすべきだと考える。
本号特集は、 アスベスト推進政策をとった国の責任とそれを容認した司法への批判を森裕之教授の論考と、各国賠訴訟の弁護団から判決分析と法廷内外の闘いについての報告を受け、いくつも政策形成訴訟を手がけてきた小野寺利孝弁護士を司会に、医療過誤事件から薬害行政に詳しい鈴木利廣弁護士、大阪・泉南アスベスト訴訟を手がけている公害弁連の村松昭夫弁護士、薬害オンブズパースンの事務局長であり、薬害イレッサ訴訟弁護団副団長の水口真寿美弁護士による座談会という構成でお送りする。読者とともに、司法の役割を改めて問いたい。
とりわけ最近、日本政治の無責任さに怒りを超えて呆れかえらざるを得ない。
「先進国」とも言われる日本国がどうしてこうなのか、あらためて考えてしまう。それは、アジア諸国で一千万人とも二千万人ともいわれる被害者をだし、日本の国民にも三〇〇万人以上もの犠牲者をだした無謀な侵略戦争について、その責任者を自主的に追及できなかったことが大きく尾を引いているものと痛感する。実際、ヒトラー下のドイツに劣らない残虐行為をやったのに、慰安婦事件や生体解剖・毒ガス実験、強制連行・強制労働、南京虐殺等の非道行為について、日本国は真摯な反省も謝罪もなく、逆にA級戦犯を総理大臣にしたり、閣僚が靖国神社に参拝したりする。ドイツが戦時中の残虐行為を幾度も謝罪し賠償をし、「時効の壁」なく戦後六七年経過した今でも「ナチス犯罪追及センター」が約二〇人のスタッフのもとでナチス戦犯を追及し処罰していること(一〇月一一日付朝日新聞)に比べてもその差は対照的である。
大きくいえば、戦後の冷戦のもとで、占領国アメリカによって共産圏への防波堤とされ、民主主義の発達が抑圧されたことにも原因がある。教育の分野でも、近・現代史の教育がおろそかにされ、侵略戦争の事実も原因も責任も、曖昧にされた。多くの若者には戦争中の侵略の意味も悲惨さも、その責任者も知らされない。経済大国になったことに眼を奪われ、威張り散らし、人間の生命の尊さ、民主主義、自然や環境保全が下位に置かれた。
経済至上主義、新自由主義のもとで、人間を人間と思わない差別と貧困が公然と放置される。
したがって、深刻な公害事件を起こしても、同じ事件を発生させないと約束しても、形だけの謝罪をしても、基本的に同じやり方で同じ公害を繰り返す。
そして、企業と経済の発展が第一とばかりに被害弁償はできる限り少なく抑えこみ切り捨てて、さらなる利潤拡大に向けて邁進する。それも公害企業だけではなく、国が共に進めるのだからタチが悪い。無責任・無反省の連鎖としか言いようがない。
この無責任については、水俣病問題と原発問題で、いやというほど思い知らされた。
水俣病問題では、国のリードのもとで、加害企業が最大限の利潤追及に走り、十万人を超える被害者を出したのに、@「認定基準の大改悪」により、A「九五年政治解決」に基づく救済は早期に締め切り、Bそしてまた多くの潜在患者の被害者がいるのを目前にしながらの今回の「特措法救済窓口の締め切り」により、幾度も被害者を裏切り切り捨ててきた。幾度となく「謝罪」を繰り返しながらである。実際には、自分が加害者であることを知りながら、加害者としての責任をとろうとしない、公然たる無責任の表明をしてはばからないことに等しい。
このたびの福島原発問題も、水俣病の場合と同じく、国も企業とともに、共同歩調をとり、大災害をもたらした。特に東京電力は、福島原発では定期検査の妨害、二〇〇回にわたるデータ改ざん等により運転停止処分を受け、新潟の柏崎刈羽原発では重大なトラブル隠しによって〇二年に社長ら五人の役員が辞任させられ、〇七年の中越沖地震では火災発生、放射能水漏れ事件等のトラブルを発生しながら、福島原発において地震事故対策をとらないまま稼働を続け、国もこれを容認してきた。国民の生命をかえりみない無責任国家というべきである。
いまの国と公害企業は、過去から何も学ばず、利潤優先のためには人間の生命と暮らしを繰り返し踏みにじるものであることが歴史的事実となった。
この無責任の連鎖を断ち切るのは、結局、これまで示されてきたように、公害反対の国民の大行動によって監視し要求し行動することでしかないと、あらためて再確認した次第である。
©日本民主法律家協会