ひろば 2018年12月

 年の瀬に、「法」と「民主主義」を考えてみました。


◆本号特集の司法制度研究集会は、「国策に加担する司法を問う」とのテーマでした。ここで言う「国策」の「国」は、主として行政府を指すものだと思います。「行政府が採る政策に加担する司法府」は、既に、正犯たる行政府の加担犯に過ぎず、独立して存在しているとも言い難いものだと思います。
◆12月10日に第197臨時国会が閉会しました。この国会では、入管法、水道法、漁業法の改「正」法など、内閣提出法案13本全部が成立したそうです。行政府が採る政策の遂行機関としての立法府。
 戦争法違憲訴訟など法律の合憲性を問う訴訟が提起されていますが、現代日本の司法府は、ひょっとすると、立法府にも加担しているのかも知れません。それとも、政権の下部機関に堕している現代日本の立法府の実体からは、これもやはり行政府への加担と言うべきでしょうか。
◆日本国の法律は、国民や少数派議員の反対にも拘わらず、あの多数派国会議員達により作り上げられます。選挙を経て、議席数の多を獲得して法律案を可決する手続過程は方法論としての民主主義に沿うように一見すると思われます。そうとすると、「悪」法律制定の反対を唱えたり、制定された法律の廃止を訴える国民や少数派議員の行動は、民主主義に反するのでしょうか。また、立法府が制定した法律を司法府が否定することは、民主主義に反するのでしょうか。
 この点については、小選挙区制・投票価値の不平等下での選挙であり、国会でのルールも国民からの批判をも無視して不十分な審理を経て成立したに過ぎない法律は、その制定過程において民主主義のルールを無視しているから、その法律に反対することは民主主義に反しない、と、法律制定の手続過程の誤りを突く議論が可能でしょう。
 ただ、法律には、制定手続きの過程とは別に、内容の誤りから、廃されるべきものがあります。先に挙げた入管法、水道法、漁業法、戦争法などは、その内容も批判されるべきものでしょう。
◆ソクラテスが言ったと言われる「悪法も法なり」は、内容が「悪」である法律であっても遵守すべきである、との趣旨でしょう。ここで、当該法律(1次ルール)の内容が「善」であるか「悪」であるかを判断する基準(2次ルール)は、法段階説的には最高法規である憲法でしょう。憲法規範の理念を体現した内容の法律が「善」であり、これに反する法律が「悪」です。
 もっとも、法律の目的たる政策や内容が「善」であるか「悪」であるかを、憲法規範に照らすか否かとは別のレベルで問うことは、当然にあり得ます。この際に「善」「悪」を判断する基準は、法が社会的基準である以上、その社会における道理としての「法」であり、(方法論・制度論としてのみではなく)思想としての「民主主義」ではないでしょうか。立法府が制定した法律は、現代の日本社会の道義に適っているか、現代の日本社会で人権保障に資するか、との問いに照らしても、「善」と言えるものでなければなりません。私たちが制定された法律や制定される法律案を批判する際に依って立つ基盤は、また、司法府が法律や法令に基づく行政行為を判断する基準の大本も、道理としての「法」と思想としての「民主主義」であるべきでしょう。
◆そうとすると、道理としての「法」の内容、思想としての「民主主義」の内容が問われます。道理や思想は、客観的に存在するものでもなく万人不変のものでもあり得ないのであって、各人の人格と結び付いて語られるものでしょう。道理としての「法」と思想としての「民主主義」を重んじようとするものは、その内容を自己の言葉で他者に語るしかありません。この語り合いは人格と人格との関わり合いですから、信頼関係なくしてはなり立ち得ないものでしょう。そしてその関係作りは、真摯さが必要で、それでも一朝一夕にはとてもできないものでしょう。なにせ、エネルギーと時間と手間暇(と、現代においてはいくらかのお金)が係るものです。日々の生活を考えると、これはちょっとした悩みどころです。
◆この悩みは、「法」や「民主主義」と「法律」との間に矛盾がなければ生じないのですが、あの行政府とこれに追随する司法府・立法府を擁してしまっている現代の国民としては、致し方ありません。
 年の改まりに合わせて気持ちも割り切って、明年も、「法」と「民主主義」を基盤に、変革へ向けて微力を尽くす一員でありたいと思います。

(弁護士 町田伸一)


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