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■特集にあたって
一九二八年八月二七日、「戦争放棄に関する条約(不戦条約)」がパリで署名されました。効力発生は一九二九年七月二四日です。日本政府も同日、批准書を寄託して、翌二五日に公布しました。当事国は六〇カ国であり、これは当時の主要な国家のほとんどすべてを含んでいました。
不戦条約は、「其ノ人民間ニ現存スル平和及ヒ友好ノ関係ヲ永久ナラシメンガ為、国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ率直ニ放棄スベキ時機ノ到来セルコトヲ確信」して「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ノ共同放棄ニ世界ノ文明諸国ヲ結合」するために、締結されました。条約第一条は戦争放棄、第二条は紛争の平和的解決、第三条は批准・加入の手続きを定めています。わずか三か条の短い条約ですが、それまで正戦論や無差別戦争観に縛られていた国際法上の戦争観念を全面的に転換させるものでありました。
不戦条約は、その後の第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争をはじめとする数々の戦争による挑戦を受けてきました。科学技術の発達による兵器の「進歩」は、戦争の惨禍をいっそう深刻・悲惨なものとし、人類全滅をも招きかねない核兵器がいまなお地上に一万発もあると推定されています。
他方で、不戦条約の世界構想は、国連憲章第一条、第二条における紛争の平和的解決と、武力不行使の原則によって継承・発展してきました。個別の国家においても日本国憲法第九条やコスタリカ憲法第一二条が、現代平和憲法の道を切り拓いてきました。
「テロとの戦い」「大量破壊兵器拡散の抑止」「民主主義の輸出」を口実にした戦争がいまなお後を絶たない二一世紀の今日、国際社会は不戦条約の精神に立ち返って、国際社会の平和と安全を平和的手段で実現する国際安全保障体制を再構築する必要があると考えます。
不戦条約は国家間の条約でありますが、その背景には一九二〇年代アメリカにおける〈戦争の違法化〉運動があり、民間のNGOの運動が国家を動かして不戦条約を実現させたのです。平和運動は二一世紀のいまこそ不戦条約の内容実現のために力を結集するべきではないでしょうか。
不戦条約八〇周年にあたり、非武装平和主義の意義を再確認し、日本国憲法第九条の歴史的意義をも確認しながら、武力によらない平和を構築していくために、地域で、国家レベルで、そして国際レベルで、さまざまに取り組まれてきた運動に学び、「平和な日本構築のためのグランドデザイン」を描くとともに、その実践のために、力を出し合おうではありませんか。
今特集は、四月五日に、「法と民主主義」編集委員会が主催した公開シンポジゥムでの、各報告・会場発言を第一部に編集。第二部には、お二人の方に『平和のための私の描く「グランドデザイン」』をご執筆いただきました。
今特集が、「平和を創り出す」活動への励みになれば幸いです。
■〇八年二月二日、五六回続けて開催されてきた日教組教育研究全国集会全体会が中止に追い込まれた。プリンスホテルが、右翼の街宣車来襲による近隣受験生への影響などを理由に、警察と何の協議も経ないまま突如会場使用契約を解除、さらに三度にわたる仮処分審決定を無視したためであった。地域の中核に位置することの多い六二のホテルを全国に有し業界への影響も大きい大企業体が、契約も裁判所の決定も守らないと大々的に公言したのである。私は、その甚大な「波及効果」への恐れから、「決して前例にしてはならない」と、二月三日からプリンスホテルに謝罪と償いを求めるネット署名を開始。重いひと言を付した五〇〇名の署名を、呼びかけに応えた市民とともに手渡した五度目の訪問で、ホテル側責任者との七〇分にわたる交渉が実現。そこで「対立者」の生の声に初めて接し、ホテル側は一度はその姿勢を再検討するかのような口ぶりを示し、実際その直後に、客室使用拒否が旅館業法に違反する点についてはその非を認めた。
■恐れたその「波及効果」は、大手「東映」直系のシネコン「新宿バルト9」が右翼来襲の恐れを理由として、映画「靖国 YASUKUNI」の上映を取りやめたことから始まった。稲田朋美・有村治子両自民党議員による干渉・介入もあり、四月上映を決めていた五つの映画館すべてで上映中止となった。これ自体由々しき事態であるが、幸い五月以降全国二五以上の映画館での上映が決まった。「騒ぎ」にならなければ、これだけ多くの上映は難しかったかも知れない。ここにも、国民の闘いと良識が反映している。それにしても、犯罪行為を種々重ねる右翼の妄動と、これを許し、一方でビラ配布を大捜査網を敷いて弾圧する、「元凶としての警察」の有り様が問われなければならない。
■国民の闘いと良識が反映したこの間の最たるものが、四月一七日の名古屋高裁イラク派兵違憲判決であることに異論はあるまい。名古屋地裁だけで全国から三二六八名の原告、全国一二の裁判所で六〇〇〇名近い原告と一〇〇〇名を超える弁護士が結集し、連携を固めつつ闘った。「泥沼の戦争状態にあるバグダッドでの航空自衛隊による多国籍軍空輸は、従来の政府見解に立っても、違憲違法である」とする手堅い判決であり、現実的影響を与える可能性がある。恒久派兵法に対する急制動にもなりうる。平和的生存権についても、基底的複合的具体的権利であり、その侵害に対し法的救済を求めることができると明示した。とは言っても、地裁の裁判官は、申請証人を全く採用しないまま、忌避申立も無視し、「聞こえない声で」結審、問答無用の判決を下したのであり、ここに至る道は険しかった。名古屋弁護団の活躍は、例えば同旨のものを除いても準備書面が九〇通に達するなど、獅子奮迅たるものであった。私は、代理人を務めたイラク山梨訴訟で、裁判官からいわば「足蹴」にされた怒りから名古屋の原告に志願し、弁護団の動きを「傍観」できたため、そのことがよく分かる。歴史に残る判決は、後世に残る闘いによって切り開かれるのである。その弁護団から優しく扱っていただけたため、私は、「裁判官として、『根深い侵略主義』からどう決別すべきか」と迫り「弁護士原告だからこそ言えた大切なこと」とのお声をいただくなど、五回口頭陳述できた。
■この判決は、平和的生存権について、基本的人権が平和なしには存立し得ないことから、「すべての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利」であり、単に精神や理念を表明したに留まるものではない、と明言した。表現の自由も、集会や言論活動が保障され市民が適切な情報が得られて始めて他の基本的人権を適切に行使できるという関係にあり、まさに基底的権利である。ほんの少しではあるが、この二つの権利の発展に係わることができ幸いである。
安倍晴彦さんは飯能に住んで二九年になる。池袋から西武線特急ちちぶ号でも四〇分、奥武蔵の玄関口のこの町は山と緑が多い。秩父行きの電車はここで何故かスイッチバックして先へ進む。安倍さんの家は飯能駅から歩くと二〇分、本町の住宅地にある。数軒先に秩父に向かうこの西武線が通っている。玄関には「日本の青空」の映画上演会のポスターが張られ、玄関前の自転車は買い物かごと子ども補助イスが立派なママチャリである。「ばあちゃんがいないので」とお茶の準備をする安倍さん。このみどりさん、飯能では安倍さんよりずっと有名である。可愛いお孫さんのところにお出かけで不在。「いろいろと忙しい人だから」。みどりさんの夫として地域デビューした安倍さんもこの頃は弁護士一〇年、「犬になれなかった裁判官の安倍さん」として認知度が高まっているんだって。
安倍さんの書斎は玄関脇の部屋である。先生の本だけでなく子どもさん達の本も置かれ、安倍家の図書館。座るところ以外は資料と本でいっぱいである。安倍さんの机は五〇前の学習机。私が小学生の頃こんなのを使っていた。「裁判官の官舎が小さいのでこれがいいのです」。FAXは床においてある。小さな応接セットに座ろうとすると「こっちに座って」と安倍さんの指示が。安倍さんが座った側の椅子はお孫さんがその上で大暴れをして座面の板を踏み破ったらしく座っているとクッションが落ちてしまう。安倍さんは慣れた様子でインタビューの間何度も落ち込むクッションを引っ張り上げる。庭には蕗がわさわさと生い茂って、自由に枝を伸ばしている木々には、ばさばさ音をたてて鳥が来る。「ばーちゃんだと名前が分かるんだけど」安倍さんはくるくるした目でちょっと困った顔をする。学習机の横に写真とはがきがピンクのファイルに入ってつるしてある。「わが家の記念写真」としてずーとかざってあります」。
一九七二年三月、安倍さん三九才。再任期を迎える青法協会員裁判官だった。任地は福井地家「毎晩遅くまで多忙であったが、毎朝一歳の子を抱き、五歳の子の手を引いて近くの幼稚園に送っていくのが私の至福の日課であった」。前年の七一年三月宮本康昭裁判官の再任拒否、「司法反動」の激流は安倍さんを飲み込もうとしていた。新聞には安倍さんの再任拒否の予想記事が載り「連日多数の報道陣が裁判所や自宅に詰めかけ、異様な雰囲気となる。当日朝、玄関のドアを開けて一歩外に出たところを、カメラの放列が待ち構えていた」。よーく見ると玄関には見送るみどりさんが写っている。「決戦を覚悟した一家の姿である」。幼稚園カバンで白タイツ、体も大きくてしっかり者の長女七重ちゃん顔には余裕のほほえみ。優しい弟の長男立ちゃんはびっくり顔。安倍さんは通勤はいつも電車か徒歩で。職員と同じ時間に裁判所へ行き五時まできちんと勤務。送迎車は使わないことにしていた。
何故か再任拒否はなく、この写真が新聞に掲載されることはなかった。再任拒否を覚悟して暮らした福井の一年は「今から思うとこの時ほど家庭が円満で、楽しい毎日だったこともない。あの世があるならば、是非持って行きたい『思い出』である」。安倍さんはこの時弁護士への方向転換を「取りやめ」裁判官として生きる覚悟を決めた。
安倍晴彦さんは一九三三年長崎生まれ。父親は安倍恕裁判官である。伯父さんが哲学者の安倍能成氏。兄弟姉妹は六人。二人の姉と九才年上の兄、下に二人の弟がいる。晴坊と呼ばれていた。小学校は世田谷弦巻。一九四五年三月九日晴坊は集団疎開先から世田谷の自宅に戻った。次の夜の明け方が東京大空襲、それから連日夜の空襲。空腹と死の恐怖。晴坊は、八月一五日「玉音」放送を聞き「死ななくていい、自分や小さい弟はもう死ななくていい」「数人のあそび仲間を誘って歓声をあげて」多摩川に泳ぎに行った。戦争は終わったが母フミヱは結核で一九四六年一月に亡くなる。晴坊一二歳、その下の弟二人。家事万端を二人の姉が取り仕切ることになる。
安倍家の四兄弟は全員結核に罹患、晴坊は中二の秋に朝起きられなくなりそれから病気療養が第一の生活となる。当時特効薬はなく、死に至る病気と思われていた。晴彦君も長生きはできないと諦観していた。横浜、福岡と父の転勤のたびに転校して、高校は修猷館高校、文芸部に属していた。勉強はよくできたが、病気のため学校は行ったり行かなかったり自由気ままな生活だった。文学部に行こうと思っていたが、つぶしがきくかと思い一浪して東大の文一に入学。大学に入学したが、結核が悪化して休学命令が出て、二年間サナトリュウムに。ここで晴彦青年は社会のいろいろな人々に出会う。復学して北町セツルメントの活動に打ち込む。安倍さんの「弱きものと共に生きる」と言う原点はここで揺るがないものとなった。結核治療の急速な進歩で晴彦青年は命と健康を取り戻した。これが五年遅かったら「私のような者はとても生きのびられなかった」。大学に戻って二度目の挑戦で司法試験に合格一四期修習生となる。この時研修所の所長は父恕だった。安倍さんは二七才になっていた。そして結核の既往歴を考え「規則正しい生活が出来る」裁判官を選んだ。安倍さんはちょと遅れてはいたがエリート裁判官候補だったのである。
さてみどりさんは女子美で染色工芸を勉強する活発な女子大生だった。二人は新宿御苑でやった労働者と大学生の交流会、フォークダンスで出会っていた。裁判官になってから友人に紹介され一年間付き合って結婚した。みどりさんは向島の小さな紡績工場に勤めて集団就職で来た女工さんたちのよき相談相手の活動をしていた。みどりさんの職場近く向島のアパートが新居だった。
新任が東京地裁、次が和歌山、岐阜そして福井で再任時期を迎える。司法反動のなかで安倍さんは特別な裁判官として昇級と任地の差別を受け続けた。修習生も配属されず、他の裁判官と合議することからも遠ざけられた。裁判所では後輩の裁判官は安倍さんに近づかないようになった。所長に「君の場合、今後も、任地についても待遇についても、貴意に添えない。退官して弁護士になって活躍したらどうか」と言われていた。
安倍さんは青法協裁判官部会の機関誌篝火に「私たちは裁判を人間的なものにしたい。裁判の場では『よい人間』でない『よい裁判官』はありえない」と綴っている。安倍さんがその通り裁判官として生きた。そして「弁護士なって被告人・被疑者やその家族と親近感を持ち愛情を持って接することができることが、驚きであり、裁判官をしていては得られなかった収穫である」と言う。
私はこんな安倍さんちの隣に住みたい。
・安倍晴彦(あべはるひこ)
1933年長崎県生れ。62年判事補任官。東京地裁、福井地家裁、東京家裁八王子支部などを経て98年2月定年退官。現在、弁護士(東京弁護士会所属)。裁判官時代から青年法律家協会、裁判官懇話会活動に従事。担当した裁判に、公選法の個別訪問禁止規定を違憲とした妙寺簡裁判決(68年)。著書「犬になれなかった裁判官(NHK出版、2001年)。
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