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 法と民主主義2008年10月号【432号】(目次と記事)


法と民主主義2008年10月号表紙
特集★「社会の崩壊」とどう闘うか
新自由主義が日本社会を壊した──問題提起に変えて……丸山重威
◆どん底からの出発──派遣労働者の闘い……鎌田 慧
◆税制の再分配機能と所得税、法人税、消費税……浦野広明
◆農業の崩壊と新自由主義……大野和興
◆格差社会の最先端・夕張から──机上の空論、人権侵害の再建計画の違憲・違法性……本田雅和
◆教育に見る「社会崩壊」……俵 義文
◆子供の変化──進化と退化の混在……中澤正夫

 
★「社会の崩壊」とどう闘うか

新自由主義が日本社会を壊した──問題提起に変えて

■続発する衝撃的な事件

 最近、社会を震撼させる事件が相次いで起きている。
 ことしに入って、一月に東京・品川の商店街で高校二年生の少年が刃物で五人を傷つけた「通り魔事件」、三月には茨城県土浦市で男が包丁で八人を刺し一人を死亡させた事件、六月には東京・秋葉原で、自動車工場の派遣工の青年が、歩行者天国に車で突っ込み通行人をなぎ倒し、ナイフで七人を殺害、一〇人を傷つけた事件が発生。七月にも、東京・八王子の駅ビルの書店で青年が女性二人を刺し、アルバイトの女子学生を死亡させた。
 また、九月一八日には、「繊維筋痛症」という難病のため重度の身障者だった母親が特別支援学級に通う小学一年生の息子を殺害する事件が起きた。一五人を死亡させた一〇月一日の大阪の個室ビデオ店の火災は、四六歳の男性による放火だったことが判明した。
 定職に就けないまま孤独と絶望に苛まれ、ネットに自分の心情を書き続けたが、誰も止められなかった秋葉原事件の青年のように、「相手は誰でもよかった」という多くの「通り魔事件」の犯人たち。そして「生活保護費をギャンブルで浪費する自分が嫌だった」という個室ビデオ店放火の犯人…。いずれも改めて考えてみなければならない問題が潜んでいる。
 一体いつから、私たちの社会はこんなに危険で、落ち着きがなく、息苦しく、閉鎖的なものになってしまったのだろうか。

■犯罪の原因と背景を考える

 ここで犯罪学や刑事政策について論じるつもりはない。また、犯罪の原因を「社会」にだけ求めるのも明らかに間違いだろう。
 しかし「犯罪の発生原因を考える場合にも、犯罪者・非行者の特徴を見れば足りるものではない。犯罪発生の社会的状況に注目しなければならない」「犯罪者・非行少年の多くが正常な通常人であるのならば、犯罪の原因は個人の資質ではなく、個人を取り囲む社会的環境に求めなければならないであろう」(木村裕三、平田紳共著「刑事政策概論・第四版」成文堂)とも指摘されている。
 とすれば、いま起きている多くの犯罪事件について、単に私たちが「住んでいる社会の安心・安全をどう守るか」という観点だけからではなく、事件を起こした人物の生育歴や環境に、同時代人として思いを寄せ、「何が彼をして事件を起こさせたか」を究明し、根本原因に遡って問題点を摘出していかなければならないはずだ。
 特に最近の犯罪は、件数そのものは減っているにも拘わらず、犯人自身も周辺も、はっきりした動機が説明できず、一見衝動的だが、実は深い精神的な歪みの中で、重大犯罪を起こしてしまっているケースが目立つ。そして背後には、現代日本社会の「貧困」や「格差」「社会的援助の欠如」といった問題が横たわっている。
 もしかしたら、もっと平和で安全だった社会がいつの間にか変質し、そうした事件を生み出しやすいものになってしまったのではないか。
 自由と平等、人権の尊重と、世界の平和と人類の幸福を目指した戦後民主主義と日本国憲法の思想に支えられてきた私たちの社会が、経済的不平等を是認する「新自由主義」の下で破壊され、崩壊させられ、今なおそれが進行しているのではないか。そしてそれが、これまでになかった犯罪を生み、「安全・安心」のための装置を肥大化させても、なお留め切れない結果を生んでいるのではないか。

■日本社会と新自由主義

 アジアで二〇〇〇万、日本だけで三〇〇万の人命を失い、国中を焼け野原にした戦争の後、私たちの先輩は、軍備を持たず戦争を放棄し、基本的人権を尊重する新しい国造りを決める憲法を制定した。
 そこでは、まず前文で国際社会を「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている」と捉え、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した。そして、二五条では、国民に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障し、国に「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」への努力を求めた。
 憲法二五条は、「ナショナル・ミニマム」を実現し「福祉国家」を目指す宣言だったようにも読める。
 しかし、六〇年代の輸出産業による高度成長期に形造られた「開発主義国家」の流れは、「福祉国家」を完成させないまま「新自由主義」に傾斜していった。
 「自由な市場で競い合うことによって、全体が向上する」という「新自由主義」の考え方は、八〇年代には「サッチャー・レーガン・中曽根路線」と呼ばれる「小さな政府」「金融・貿易自由化」「民営化」「規制緩和」の政策として、世界に広がり、日本にも持ち込まれた。
 一九八二年一一月から五年間続いた中曽根康弘政権は「戦後総決算」を掲げ、「日本は不沈空母」と公言、日米安保を世界規模に広げる布石を打ちながら、国鉄・電電の民営化、国立病院の統廃合などの「臨調・行革路線」を進めた。
 八五年には労働者派遣法が成立、翌年施行され、「労働戦線の統一」論が唱えられる中で、労働運動が解体の道を歩んだ。竹下登政権は消費税を導入、税制でも「富の再配分機能」を低下させた。

■「構造改革」と格差、貧

 「プラザ合意」以後、急激な円高が進んだ結果、米国での「日本たたき」が広がった。八〇年代末からは、東欧革命、ソ連の崩壊など、それまでの東西対立の枠組みが崩れると、貿易自由化、海外投資の自由化、国営企業の民営化など「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれる米国の「戦略」が打ち出され、日米構造協議が始まった。
 一九九三年七月の宮沢・クリントン会談を経て、翌年からは「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(年次改革要望書)が出され、米国から日本には、米国型社会への変換を迫る要求が露骨に表明された。
 現実に、構造計算など審査の民営化で問題化した建築基準法の改正をはじめ、独禁法の強化、商法改正、郵政民営化などが米国の要求で実現し、いまも「ホワイトカラー・エグゼンプション」や医療制度改革などが要求されている。
 一方で日経連は一九九五年「新時代の日本的経営」を発表、労働者の選別と一層の効率化を進める雇用対策を打ち出した。翌年発足した橋本龍太郎政権は、行政、財政構造、社会保障構造、経済構造、金融システム、教育の「六つの改革」を掲げ、これが「小泉構造改革」につながった。
 その結果、戦後民主主義を基盤とした運動と政治が積み上げてきた地域産業への配慮や、そこでの人々の連帯までも失わせ、かつての日本社会とは全く違う状況を地域に生みだしたように思う。日米の軍事複合体制の進展も、そうした流れと無関係ではない。
 つまり、市場主義を万能とし、あらゆる場所で「競争原理」を貫徹し、大量の「負け組」を排出し、排除する社会は、長い時間を掛けて醸成され、「小泉構造改革」は、歯止めがないまま進み、格差の拡大と貧困の増大を生んだ、ということができる。
いま起きている国民生活の危機と社会の崩壊は、戦後、日本人たちが考え、貧しくてもみんなが幸せに暮らす自由な国を求めてきた国造りの理念がいつの間にか忘れられ、人々の願いとは全く違う方向に歩んだ結果、もたらされているものではないだろうか。

■世界経済危機とは何か

 九月一五日、一五〇年余の歴史を持つ米国の投資銀行・リーマンブラザーズが破綻した。
 日米欧各国の金融当局は協調して資金供給を図り、米国も「金融救済法」での不良資産の買い取りに踏み切ったが、ニューヨーク株式は一〇月六日にはダウ平均一万ドルを割り込み、一〇日には八〇〇〇ドル割れを記録。日本でも同日、日経平均株価は八〇〇〇円台まで急落。不動産投信のニューシティ・レジデンス、大和生命などが破綻した。
 一〇月一〇日、急遽開かれた先進七カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)は、「金融安定のために公的資金注入を含むあらゆる手段を活用する」との行動計画を発表したが、実体経済を離れて金融が肥大化し、利益の追求のため暴走した現在の資本主義の誤りを正していくための処方箋も、その先のシステムをどう変えていくのかの処方箋も見られない。
 「アングロサクソン型モデルが崩壊」「金融危機後の新時代が来る」と題した米誌「ニューズウィーク」日本版一〇月一五日号は、「実体経済とかけ離れ、リスクの高い取引の横行を許した金融ビジネスモデルは崩壊した。市場万能主義に基づく自由化の流れは止まり、グローバルな規制強化の時代が始まろうとしている」と書き、サルコジ仏大統領の「資本主義を再検討する」という言葉や、ヘッジ・ファンドで知られたジョージ・ソロスの「グローバル化と規制緩和のモデルは破裂した」という言葉を紹介。一〇日付「ワシントンポスト」も「米国型資本主義の終焉?」と題する分析を掲げた。
 「新自由主義的市場原理主義は、常にある特定の利益に奉仕する政治的学説。それは経済理論に裏付けられたものではない」というスティグリッツ教授の言葉を引くまでもなく、「カジノ資本主義」とまで言われる「現代資本主義の到着点」を示していることは、改めて繰り返すまでもないだろう。
 最初から危険をはらんでいた新自由主義は、債権を次々と売る投機によって利益を増やすというシステムの破綻によって、発展途上国の国民だけでなく、私たちの生活が大きな影響を受けることも避けられない状況だ。

■「連帯」と「共生」の思想

 そう考えてくると、いま私たちの周辺に起きている多くの社会問題を解決していくには、それぞれの分野での現実を直視し、具体的な問題をひとつずつ改革していくと同時に、それを「国の在り方」の中で考えることが求められていると思う。
 つまり、戦後日本の社会構造を破壊し、競争と弱肉強食型の世界をよしとしてきた「新自由主義的政策」を転換し、憲法が目指した「福祉国家」の方向に政治を変えていかなければならないのではないか。同時に、「競争」に勝つことを求めた私たち自身の「生活やものの考え方」をも問い直すことが必要なのではないだろうか。
そこでのキーワードは、「共生」と「連帯」ではないだろうか。
 いま、私たちは、地球環境の危機に直面し、人類と自然との「共生」が問われ、異なる民族の「連帯」が課題になっている。
 このことは、国内でも同じである。いま私たちは、立場や職業や思想や、経済的事情の違いを超え、同時代、同じ列島に生きる人間として、優しさと思いやりをもって、「連帯」を広げていくことが求められているのだと思う。あらゆる物事にその姿勢で対処する努力が求められているのではないだろうか。
この特集のそれぞれの分野で指摘されている問題は、どれも複雑で、容易に解決できるものではないかもしれない。しかし、私たちはまず、こうした課題を共有し、その根本に遡った解決を目指すことから始めなければならないのではないだろうか。
 みんな、いまを生きている生身の人間の話なのである。

(文責・丸山重威(関東学院大学))


 
時評●人権の保障に徹した司法を

(弁護士)澤藤統一郎


▼東京都の知事が学校での「日の丸・君が代」強制に躍起になっている。大阪府の知事は、「くそ教育委員会」とまで発言して学力テストの結果公表に固執している。傲慢で反憲法的な両知事の姿勢は、「民意」に支えられている。
 政権与党による米軍への基地提供も、自衛隊海外派遣策も、積極・消極の「民意」が実現してきた。格差社会を産み出した「構造改革」も、小泉政権を支持した選挙民の選択の結果にほかならない。
多数決原理はかくも危うい。四七年教育基本法の前文が述べるとおり、「憲法に示された理想の実現は根本において教育の力にまつべきもの」であろう。教育の力が顕現するまでの相当な期間、選挙に表れた民意と憲法価値との乖離とは現実であり続ける。思想的・政治的少数派にとって、民主主義原理は味方ではないというにとどまらない。切り結ぶべき相手方の武器となっている現実がある。

▼だからこそ、人権という理念の重要性が強調されなければならない。いかなる民意も人権を侵害することはできない。民主主義という手続き的価値には、人権という実体的価値に譲らざるを得ない限界がある。民主主義ではなく、人権こそが至高の価値である。このことは、もっと語られてよい。
 たとえ、社会の圧倒的多数が「学校行事で国旗を掲げ国歌を斉唱することが教育上望ましい」と望んだにせよ、自己の尊厳をかけて「日の丸に対して起立し、君が代を歌う」ことを拒否する人に強制することは許されない。それが、憲法の精神的自由条項の冒頭に人権としての思想・良心の自由を定めた意味である。
 「多数が起つとも、我は起たず」「多数が歌うとも、我は歌わず」は、基本的人権保障の名の下に認められなければならない。

▼ところで、国民多数が戦争を望んだ場合はどうだろうか。
 「国家が戦争をしても、我は参加せず」との命題は、ほとんど意味をなさない。国家が戦争という選択をした場合に、全国民に戦争の惨禍を逃れる術はないからである。したがって、国民が平和に生きる権利とは個人限りで実現する権利ではなく、国家に戦争をさせない権利と観念するしかない。
 いうまでもなく、憲法とは人権保障の体系である。人権を保障するために、立憲主義があり、権力の分立があり、司法の独立があり、制度的保障がある。
 信仰の自由という人権をより強固に保障するために政教分離という制度がある。学問の自由という人権擁護のために大学の自治がある。国民の教育を受ける権利の蹂躙を防止するために、権力による教育への支配が禁じられる。
 まったく同様に、国民一人ひとりの平和に生きる権利を保障するために、憲法は九条を定めて戦争を禁止し戦力を放棄した。平和的生存権を具体的な人権と考え、九条はその人権保障のための制度と考えるべきである。人権としての平和的生存権の具体的内容は、国家に対して九条を厳格に守らせ、戦争につながる一切の行為を避止させる権利でなければならない。

▼司法は、多数決原理を排して人権擁護に徹すべき場である。それが、何よりの司法の使命であり、存在意義である。思想・良心の自由、教育の自由などにとどまらず、平和的生存権についても、イラク派兵違憲判決に引き続き、これを確認し内実を豊かに発展する方向での積み重ねが実務法曹の責務と言えよう。
 総選挙実施に伴う、最高裁裁判官の国民審査が迫っている。改めて、最高裁のあり方を考えよう。現行秩序の維持や、強者・多数派の利益擁護に傾く裁判所であってはならない。最高裁の姿勢によって、確実に日本は変わり得るのだから。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

ずっとあなたに胸キュン

税理士:市吉澄枝先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

955.9.18自宅事務所にて。康浩39才、長女安子3才、澄枝32才。抱かれているのは長男伸行3ヶ月。

 市吉澄枝さんは一九二三年生まれ。亡夫市吉康浩の薦めで四二才で税理士に。税理士としての仕事はもちろん婦人税理士連盟活動など幅広く活躍し、八五才の今も現役、九条の会世話人である。七五才の時仕事は殆どリタイアしたのだったが「年配の方には同年代の税理士がいいのよ。相談されると気持ちがよく分かるの。書類が出てこない時は一緒に探すの」。そう言いながら澄枝さんはどんな質問にも明解に答える。「今イラク派兵違憲名古屋高裁判決の判例評を書いているのよ」。
 どう見ても一回りは若い。小柄でおしゃれ。趣味も広い。気さくでやさしい澄枝さんはすぐに人と心を通わせる。四五才の時最愛の夫を亡くした。それからもう四〇年。二人の子を育て仕事を続けてきた。今は中野区白鷺のマンションで一人暮らし。大学に通っている孫が時々ご飯を食べに来る。マンションの広い中庭にはサクラとヒマラヤ杉がうっそうと茂る。「花が咲くとほんとにきれいよ」生協の宅配が届く。確かで暖かい上質の暮らしがそこにある。私もこんな風に年を重ねられるだろうか。
 澄枝さんは人生をまっすぐに生きてきた。生まれは東京の麹町。学校は女子学習院。良妻賢母の教育のはずが澄枝さんは目覚めてしまった。「立派な図書室に入り浸り」「卒業近い頃は、図書室の奥の鍵のかかる書庫にも、殆ど出入り自由」。トルストイ、アンドレジイド、イプセン、そして「青鞜」。「らいちょうの言葉は胸を撃ち、女でも勉強をして、社会の役に立つ人にならなくては、と強く思いました」。
 そんな頃澄枝さんは運命の人に出会う。自宅で開かれていた社研読書会。母親は澄枝さんが一五才の時病気で亡くなっていた。父親は満州国新京に赴任していたため、東京の留守宅は六才年上の兄安江淳と澄枝さん、お手伝いさんの三人暮し。「我が家は兄の友人たちの格好の溜まり場に」。兄の成蹊高校の先輩で東大でも同じ経済学部、読書会の名チューター市吉康浩さんがその人である。「その時私は一七才、兄が余りに市吉を尊敬していましたので、私も一緒に尊敬しながらも何だかこわい人に思えて、とうとう一度も顔を出すことができず、襖ごしにドキドキしながら彼のチューターぶりに耳をそばだてていただけでした」。「明晰で論理的、博識」。澄枝さんは心奪われこの人こそと心に決めた。
 一九四〇年兄淳が突然特高に連行される。兄は二週間後に釈放。ところが市吉は東大民主化運動の指導部、二年近く巣鴨の拘置所に拘留後、治安維持法違反で懲役二年執行猶予四年の判決を受け釈放。検挙時、市吉は入社試験一席で朝日新聞に入り山形支局にいた。そして釈放一年後の一九四三年に招集となった。
 一九四一年、澄枝さんは唯一社会学科がある日本女子大に進む。が、本は貸し出し禁止、社会学らしい授業も余りない。澄枝さんは愛読していた婦人公論で「国民生活学院」の設立を知る。当時の超一級のリベラルで質の高い講師陣。澄枝さんは即決で入学を決め第一期生になる。卒業するまで「戦時下非常理の暗い時代に」「その頃の女子教育としては考えられないほどの知的環境を得られた」。講師が特高に検挙され三木清は終戦直前に獄死する。そんな学校だった。
 兄も市吉も戦地へ行った。高い志の有為の青年が次々いやおうなく死地へ赴く。その志を自分たちが受け継がねばとやむにやまれぬ気持ちで澄枝さんは同じ境遇にある岸本みつ子さんと×だらけの発禁の書物で二人だけの勉強会を始める。一九四四年国民生活学院を卒業。保健婦の実習を経て一〇月から岡崎の航空機工場へ。女子挺身隊の寮で寮母として働き始めた。翌四五年M7の三河大地震。
 その余震が治まらずに防空壕で寝起きしていた一月二七日「千葉警察から、特高が二人、私を連れにやってきた」。「何をされるか悲壮な決意でいましたが暫く放っておかれたあと、暗い密室の取り調べ室に呼ばれました。痩せた陰気な取調官の思想検事が意地悪そうに訊問を始めました」「怖い顔をして『痛い目に会いたいか』とナイフをちらつかせたり、鉛筆を指の間に挟む真似をして脅しました」。検事がおいていった取調調書の写しを見ると「岸本さんとの勉強会が既に逐一記されていました」。その後の取調は県警特高の警部が。遅々とした聞き取りが続けられ、澄枝さんは「忘れました」を連発した。しかし関連の調書があり、事実を「認めるしかありませんでした」。
 「留置場では、太い鉄格子のはまった板の間に一日中正座させられ、夜与えられる汚いせんべい布団は蚤と虱の巣窟でした。朝起きると服の縫い目にびっしりと血を吸った虱。死にそうに痒かったものです。食事は塗りの剥げた汚い木箱に、一握りの汁掛け豆飯におかず無し、先のことは予想もつかない状態で何ヶ月も経ちました」若い特高の巡査が同情して「そっとピーナツを渡してくれた」澄枝さんはそれで辛うじて栄養失調をまぬがれる。拘留されて五ヶ月、七月六日には千葉市にも空襲が。思想犯の澄枝さん一人を残して留置人は全員仮釈放。「私一人残され防空壕に。やがてそこにも焼夷弾が落ち始め私の係の若い特高巡査の機転で壕から出て、土地不案内の私を連れて逃げ惑い何とか火を浴びずに助かりました」。留置場が半焼したので千葉刑務所に未決として移監。澄枝さんは物音一つしない独房にいれられ「気が狂いそうな」日々を耐えた。八月一五日ラジオ玉音放送を聞く。刑務所内は不気味なほどの静寂だった。「占領軍が来る前に思想犯は闇から闇に葬られるだろう。自由を前にしていよいよ殺される」澄枝さんは思った。が、八月二四日澄枝さんは突然釈放される。刑務所の出口にはあの巡査が待っていてくれた。一九四六年二月、市吉が復員。一兵卒で思想犯、酷い喘息もあった。生きて帰れたのが奇跡である。二人は一九四六年三月末に「初めて会う」。「まるで一〇年の知己のように語り、共感し、熱をあげ、五月にはもう結婚式をあげてしまったのです。康浩三〇才私は二三才」
 市吉はすぐに共産党の活動に参加するが喘息の悪化で活動を中止。その後公認会計士となり中小企業診断員として各地の診断で大活躍したが栃木市で会議中心臓麻痺で倒れる。五二才だった。「彼の喘息とその苦しみだけは想像外でしたが、その他すべてにおいて彼は私の思った通りの人であり、最高の人でした」「彼は終始、愛情豊かなヒューマニストでした。そして人生クソ真面目であり続けたのです。これこそ彼の真骨頂であり、それがまた私の惚れ込んだところでした」澄枝さんそのものである。

・市吉澄枝(いちよし すみえ)
1923年東京生れ。1941年に日本女子大学へ入学するも、42年国民生活学院へ進み、44年卒業。
1965年税理士登録。
共著「配偶者控除なんかいらない!?」(日本評論社、1994年)、「女性のための老後の幸せ・安心ガイド」(生活思想社、1997年)等。


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