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■特集にあたって
東日本大地震と福島第一原発事故から、ちょうど一年が経過した。
野田総理大臣は、昨年一二月一六日、「原子炉は冷温停止状態に達した」として事故の収束宣言をしたが、相変わらず不安定な状態にあり、史上最悪のレベル7とされた原発事故の影響はなおも甚大な被害をもたらしつつある。
本誌は、未曾有の取り返しのつかない災害をもたらした原発事故に鑑み、「原発災害を絶対に繰りかえさせないために」という共通表題の下に、昨年六月号で「各地のこれまでの取組みと司法・行政の責任」を、また七月号で「原発被害の実相と今後の課題」を特集したが、本号はそのパートVとして「脱原発と被害回復に向けた法律家の取組み」に焦点をあて、特集を企画した。
冒頭、法律家としてこの問題に取り組むにあたっての基本的な考えないしは姿勢はどうあるべきかについて、広渡教授に「『脱原発』と日本国憲法──ドイツの経験と日本の展望」を論じていただいた。福島原発を契機にドイツがすばやい対応を示した原因や背景が紹介され、今こそ平和主義と生存権に基づいて「脱原発」への取組みの重要性が指摘されている。日本国憲法との関係で原発問題をどう考えるべきかについては、名古屋学院大学の飯島講師から早くに「投稿」を寄せられていたので、これも本号に掲載した。
本号では、特に深刻な実態を前にさまざまな取組みがある中で、弁護士など法律家が裁判所を利用し、あるいは現地に入って、市民と共に現に何をし、これから何をしようとしているかを中心に、その取り組み状況を報告してもらうことにした。超多忙であるにもかかわらず、それぞれ現状と今後の課題を纏めていただき、感謝にたえない。
とくに、電力不足や料金の値上げを理由に、ストレステストを梃子にして停止中の原発を再起動させようとしている電力会社と政府の動きが強まりつつあるだけに、福島原発事故を契機に発足した脱原発訴訟全国連絡会に結集し、各地で精力的に取り組まれている裁判については国民の関心も高く、その成り行きが注目されている。各地ではそれなりの報道がなされているであろうが、本誌によって脱原発弁護団全国連絡会の役割と今後の課題を紹介してもらうとともに、各地の弁護団から裁判所内外での最新の取組みの状況が報告されており、その意義は大きいと思われる。
次に、原発事故による被害をどうとらえ、これを早急にしかも全面的に如何に救済するかについて、日弁連の取組みに加え、現地に何度も足を運び精力的に取り組んでいる三弁護団からそれぞれ報告をいただいた。ほかにも多数の弁護士が現地を訪れ、あるいは緊急避難区域や計画的避難区域などから避難した方たちを対象に、各地の弁護士会などが相談会を開いたり、あるいは弁護団を結成して取組んでいる動きもあるが、紙面の関係で省略せざるを得なかったことを了解いただきたい。
さらに、最も放射線の被害を受ける子どもたちを護るために、いち早く郡山市を相手に「放射能から安全な場所で教育をせよ」を求める仮処分についての経過と結果、およびこれとは別に「子どもたちの権利を守る法律家ネット」の活動を報告してもらった。
また、原発事故で最も過酷な状況の中で懸命になって働かざるを得ない「原発労働者の実態」について労働弁護団から、さらに危険性を知りながら原子炉を稼動し続けたためにこのような悲惨な事態をもたらした東京電力の歴代経営者の責任を追及するための株主代表訴訟について河合弁護士から、それぞれ報告をいただいた。
日本民主法律家協会ではこれまで日本科学者会議と日本ジャーナリスト会議の協賛を得て、外の四法律家団体と共同で「福島原発災害連続講座」を五回にわたって開催してきた。またこの四月七日と八日には、福島大学を会場に、「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」を計画し、その成功が期待されている。
本特集が、福島第一原発事故の全面的な被害回復とともに、日本が脱原発に向けて大きな展望を開く一助となれば幸いである。
福島第一原子力発電所の爆発から一年が経つ。
この間で、私が学んだことは、あまりに多く、かつ重い。寸評をもって尽すことはもとより不可能である。
まして私は、父親が小高町(現在、南相馬市小高区)出身であり、親類縁者も多く、南相馬の桜井市長は私の従兄弟の子である。加えて、今から三六年前の福島原発設置認可取消訴訟(福島地裁昭和五〇年行ウ第一号事件)の弁護団長であったから、個人的体験や感情、つまりは“積もる思い”を抜きにして、今回の原発事故を簡潔に書くのは、とてもむずかしい。
私のツイッターをもって、時評にかえたい。
1 我国の為政者の“棄民思想”に呆れる
中国残留孤児問題などで、政府の棄民思想がいわれたが、原発事故でも、“緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)”を地元民に公表せず(アメリカ軍にだけは速報したとのこと)、そのため多くの避難者は、放射線量の高い地方へと逃げ、再三の流浪を余儀なくされた。沖縄県民に対する扱いも、この棄民思想が根っ子にあると思われる。
2 遅れをとった被害者の組織化
被害者が損害賠償を請求すると、その内容は当然のことながら東電の一手に集約される。被害者の住所・氏名・家族構成・職業・過去の収入状態など、すべての情報が集中し、東電は、これを分析して悠々と作戦計画を練ることができる。
ところが被害者側はバラバラで、隣人や同業者がどんな請求をしているのか、どんなことが問題で請求が認められないのか(又は認められたのか)マスコミ・口コミによる情報しかない。そこで同業者の団体や東電の窓口に行くと、過去三年間の所得が計算基準だといわれたりして、あたかも過去三年間に発生した損害を請求するような錯覚に陥っている人がいる。私が“爆発直前の収益力が基本で、放射能のためにその収益力が実現できなかったのが損害と考えるべきではないか、損害額の計算にあたって、過去の実績を参考にするのが合理的な場合もあり、そうでない場合もある”というと、「それで税務署が通りますかネ」と疑わしそうにいう。まるで、東電に対する請求を税務申告と混同しているようだ。
過去三年間の申告所得の平均が合理的であると、自他ともに認める人は弁護士のところに相談に来ないから、右のケースでは、この後にいろいろな問答が続くのだが、ことほど左様に、被害者は、相当因果関係だの過去三年の平均値だの損益相殺だのと、もっともらしい話をされて、出て来た金額が、原発爆発前の生活実感とかけ放れていることに納得できずにいるのである。
初期段階で被害者の組織化が実現していたら、もっと違った状況になっていたと悔やまれる。
3 生業をかえせ弁護団のこと
爆発直後から五月ころまでは、地元縁故関係等の弁護士が個々に駈けつける状態だったが、その後、弁護団が次々と結成され、遂には、県弁護士会が会員に対して、弁護団加入状況のアンケートまで実施する状況になった。そういうなかで、福島市で開かれた一万人集会で結成された弁護団は、原発事故前の状態に戻すことを極限まで追求する目的で、名前も「生業(なりわい)を返せ弁護団」とした。元に戻すということは、被害者各人の個々の損害項目の積算に止まらず、生活の質の回復を求めるものであり、また、地域環境などの回復をも求めるものであるから、従来の不法行為分野における相当因果関係論や互換性論など諸々の理屈を、どう理論的・実践的に克服するかが問われるし、被害者(被害者の範囲も広がる)の会と弁護団・研究者の共同が不可欠である。
原発爆発から一年、長い闘いは、はじまったばかりだ。
杉原先生は日野市に住んで三二年になる。中央線豊田駅から歩いて五分。自宅と書斎がすぐ近くにある。改札口まで迎えに来ていただいた。豊田駅に初めて降りた。八王子の一つ手前の駅。駅は崖線に沿って作られている。下車すると右手は武蔵野台地が切土され、左手には低い家屋が並ぶ。ずっとむこうには丘陵が見える。電車が発車すると「垣根の垣根の曲がり角 たき火だたき火だ落ち葉たき」のメロディーが流れる。つい歌ってしまった。作詞した巽聖歌が戦後日野市旭が丘に住んでいたことが縁だという。台地側の北口駅前も見晴らしがきく。駅舎が低いので屋根越しに多摩丘陵が見渡せる。武蔵野台地の下には浅川が流れ、向こう岸遠く多摩丘陵の麓を京王線が走っている。
先生は約束の五分前に改札口に現れた。小さな買い物袋をぶら下げている。何かお買い物でも。「お待たせしまして」。とんでもない。改札口からエスカレーターを南口に降りると、さっき見た町並みの駅前に出る。タクシー乗り場とバス乗り場があり、すぐに住宅地である。「いいとこですね」と言うと「前は駅から家まで麦畑だったんです」。もうすぐ駅前整備が始まるという。駅から住宅地の中をずんずん歩くと所々に空き地がある。「まだ戸建て住宅が買えますよ」と先生。
二階建ての家の前に着く。「娘の家なんですが。僕が書斎に使っているんです」。前庭にイチゴやブルーベリーが植えられている。ヤマモモもあるんだって。よく日が当たる南向きの庭である。先生の書斎は玄関の隣、広い部屋にはグランドピアノが。「先生ピアノをひくんですか」。「僕はだめ。娘が」。「この部屋は防音になっているんでドアを閉めていると眠くなるんです」酸欠なんだ。先生はいそいそと台所へ。「頭が疲れると甘いものとお茶なんです」。さっき持っていた袋から草餅を二個取り出した。これだったんだ。有田のお茶碗でお茶をいただく。
先生は一九三〇年生まれ、今年八二才になる。一〇年前の写真とまったく変わらない。元気はつらつ、ばりばりと講演をこなし、インタビューも受ける。昨年も「憲法と公教育」を出版し、法民の一月号に巻頭論文も書いていただいた。インタビューだけでもこのところ三件も続いているという。お電話すると必ず「一〇〇年に一度の危機」を説き、憲法の重要性を展開する。憲法学の研究者として五〇年を超える先生は「今なお自分の憲法学の方法や大系の習作中」。「未完の憲法学」をかかえている先生はなぜかうれしそうに見える。
杉原先生は伊豆の大仁で生まれた。修善寺の二つ手前、三島から各駅停車で三〇分。家は製材業だった。八人の兄弟姉妹。地元の小学校から旧制韮山中学校へ進学した。一九三七年小学校入学の年に「シナ事変」、戦争の時代に育った。一九四一年太平洋戦争がはじまったときは一一才、国民学校五年生だった。「『神国日本』の歴史的使命を受け入れる『少国民』に育ちました」。戦争する国に育ち徹底した軍国教育を受けたのである。杉原少年も「神国日本」のために死ぬ覚悟だった。中学に入ると杉原少年は選ばれてグライダーの操縦訓練を受けるようになった。いつかはそれに乗って戦うことになると思っていた。中学二年の三学期から軍需工場への動員がはじまった。
一九四五年八月一五日は動員先の軍需工場でむかえた。玉音放送の意味は分かった。杉原少年一五才、衝撃だった。「玉音放送の直後、その軍需工場の監督官が私たち中学三年生だけを集めて話した。海軍大尉でおそらく学生出身の人だった。」「竹槍ではB29には対抗できない。非科学は科学に対抗できない」その言葉は杉原少年の非合理的な精神主義に「とどめを刺した」。杉原少年は一九四八年旧制静岡高校に進学する。その前年杉原少年は「日本国憲法」出会った。この憲法を学び、理解し、実践していくことが杉原少年の生き方になった。
旧制高校に一年いるうちに、学校制度が変わり、次の年新制大学を受験できることになった。兄が東京に在学していた杉原家ではとても泰雄君を東京の大学に進学させる経済的余裕はなかった。泰雄君は働きながら大学に行くことを決め、東京薬科大学の事務の仕事に就く。専修大学の法学部夜間部に中途入学する。次の年安部能成が学長を務め多くの知性が集まり「真理と平和」教育を理念として掲げていた学習院大学政経学部二年に編入する。朝鮮特需で経済的に余裕が出てきた実家の仕送りも受けることができるようになっていた。杉原青年は憲法から平和問題談話会の「三たび平和について」やレーニンの帝国主義論まで、自由に幅広く学んだ。卒業後は教育の道を進もうと高校の教師になるが、学止みがたく、教師を辞め大学院に進学し研究者の道へ進むことになった。
一橋大学大学院に入学する。指導教官は田上穣治先生。田上先生は美濃部達吉先生の弟子で、学生の自主性を尊重する先生だった。杉原先生はそこで修士・博士課程と進み、五年間で博士号を取得。田上先生から「僕の後を」と言われ杉原先生はそのまま停年まで一橋で研究と教育を続けることになる。美濃部達吉、田上穣治から憲法講座を受け継いだ三代目である。先生の研究活動は解釈学にとどまらず「憲法の歴史研究にかなりの時間没頭した」。近年の課題は「軍拡と経済衰退」。常に社会に目を配り憲法を人類の歴史の中でとらえ直す。「日本国憲法に集められた叡智が問題解決の指針となる」。「ピンチはチャンス」と杉原先生。長い憲法の歴史のなかで見ても日本国憲法はその力を失っていない。それどころか「今こそ憲法に学ぶとき」と言う。
杉原先生の教え子は学内にとどまらない。すぐれた憲法研究者を育てたことはご承知の通り、もちろん多くの学生も。そして学外の市民。「憲法を支え守る人」の連帯がなければ平和国家、社会国家(文化国家を含む)、民主国家は実現しない。杉原先生が理事を務める地元、日野・市民自治研究所との関わりも深い。理事長は山本哲子弁護士。
二〇一一年一〇月、研究所の拠点ゆのした市民交流センターが新装となった。「私たちは、新しい学舎をえました。すばらしいことです。『居は気を移す』と言われます(孟子)。新しい学舎で学習・研究の意欲も新たにし、直面する危機の克服に取り組み、その成果を『つうしん』・年報・叢書として発信したいものです。この歴史的危機を克服する力は、市民の生活経験と学習・研究のうちにあると思うことです」通信一一〇号。次女が書いた今年の年賀状で、先生は竜になって空へこぎ出している。片手に憲法を持ち。
杉原泰雄(すぎはら やすお)
1930年静岡県生まれ。1961年一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。1972年より一橋大学教授。東京大、静岡大、名古屋大、熊本大などでも教鞭をとる。現在、一橋大学名誉教授、駿河台大学名誉教授。
著書『憲法と資本主義』(勁草書房、2008年)、『憲法と公教育──「教育権の独立」を求めて』(同、2011年)他多数。
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