大学の法学部を出て、ジャーナリストになり、現場を駆け回っていた30数年前、日本ジャーナリスト会議の事務局長だった三上正良氏の勧めで、日民協の会員になった。
当時、平賀書簡問題や青法協加入が問題にされた宮本康昭判事補(当時)問題があり、司法反動が大きな問題になっていた。右翼からは、「青法協・日教組・マスコミ」が問題にされ、メディアでは「朝日・共同・TBS」が攻撃された。「週刊朝日」をめぐる「朝日最高裁事件」もあった。
そんな時代からの会員だが、ペンネームで何本かの原稿を書いたことはあったものの、弁護士さんや学者先生の中ではやっぱり「お客さん」だった。直接関わってみよう、と思ったのは、大学の法学部でマスコミュニケーションやジャーナリズムを論じるようになり、メディアと法の在り方や、相互の関係を本格的に考えてみようと思ったからだ。
いま、「憲法」がベースだったはずの「法」の世界も、大きく動いている。技術的な理由で、基本的人権に関わる多くの問題が「改悪」され、「法」は道徳の分野にまで立ち入り始めている。何と、私たちの時代の「新憲法」だった日本国憲法は、首相にまで公然と無視され、「『新憲法』を作ろう」という話が出てきても、その『新憲法』という言葉を不思議と思わない人たちが増えている。
わずかに戦争の記憶を持つほとんど最後の世代であり、新憲法の下で教育されたほとんど最初の世代である私としては、ここで発言しなければ、世代の責任を果たせないのではないかと考える。「メディア」についても、「法」についても、語る責任があるのではないか。私たちは「法」の在り方について、もっと基本的なことで発言していかなければならないのではないか。
そんな意味で、メディアに関わりつつ、いまの法と法律家の在り方について、考えてみたい。