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富田メモをめぐって

日経20日朝刊の一面トップが、富田メモの公表。
「A級戦犯靖国合祀 昭和天皇が不快感」。「大スクープ」と言わんばかりの大見出しである。記事発表は絶妙のタイミングを狙ったものであろう。
「富田朝彦・元宮内庁長官(故人)のメモを日経が入手した。そのメモのなかに、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことが記されている」という。
天皇がA級戦犯に不快感を有していたという事実は、極右にとって相当の打撃ではあろう。二一日早朝に、日経本社に火炎瓶が投げつけられてもいる。
靖国は天皇の神社である。天皇への忠死ゆえに戦没した者を神として祀ることが建前。その忠誠の対象である天皇が、「A級戦犯合祀に不快感」なのだから、右翼にとって怒りや当惑は当然であろう。
「大東亜戦争正戦論」の立場からは、もともと戦争犯罪人などあるはずもない。A級戦犯とは勝者の貼ったレッテルに過ぎず、本来は愛国者であり「忠臣」なのだということになる。従って、昭和殉難者を護国の神として靖国神社に合祀することは当然のこととなる。A級戦犯合祀は、過去の侵略戦争を正当化し国家主義を肯定する最大の証しなのである。
しかし、日本の保守の立場においても、この極右的合祀肯定論には賛意を表しがたい。再び日本を孤立させ、前車の轍を踏みかねない危険が明らかなのだから。
小泉首相の五回目の靖国参拝がささやかれている八月一五日を目前に、絶妙のタイミングで公表された富田メモは、極右への打撃となり、A級戦犯分祀派への追い風となっている。あるいは、火の消えかかった国立戦没者追悼施設建設への追い風。
だが、冷静に考えなければならない。
問題は二点。
第一点は、靖国問題をA級戦犯問題に矮小化してはならない。A級戦犯分祀で靖国問題が片づくものではない、ということ。
最悪のシナリオは、「分祀が実現すれば近隣諸国の外圧もなくなる。心おきなく、天皇も首相も、靖国神社参拝が可能になる」というものである。
A級戦犯問題は、靖国神社の好戦性、過去の戦争への無反省をよく表すものではあるが、その本質ではない。靖国問題の本質は、国民精神を戦争へ動員するにあたっての宗教感情の利用そのものにある。
首相参拝が靖国を参拝してはならないのは、外圧があるからではなく、過去の大戦の痛恨の反省から憲法上の原則として確立された政教分離に違反するからである。そのことは、A級戦犯の分が実現しても変わりはない。
だから、分祀実現のあとなら天皇や首相の参拝オーケーとはならない。
第二点。保守中道派が、天皇への敬愛を当然とし、「平和を愛した昭和天皇の思いを受けとめよう」としていることの危険性である。分祀や国立追悼施設建設の推進に有利とみた明らかな天皇の政治利用である。見逃せないのは、「平和愛好天皇」「リベラル天皇」像を政治利用に有利とみていること。
国家神道とは「天皇教」にほかならない。靖国神社とは天皇の神社である。天皇への盲目的服従精神の涵養が軍国主義的国民精神の支柱となった。
天皇の政治利用の極致として靖国のシステムがあった。いま、靖国を考えるときに、天皇の「心」だの「思い」を受けとめようなどとは、けっして口にしてはならない。
天皇制の危険は、それが政治シンボルとして特定政派に利用されるところにある。富田メモの公表は、極右勢力への打撃とはなったが、同時に今なお、天皇制というもの危険性を示すものともなった。
私たちには、平和愛好の天皇も、リベラルな天皇も要らない。天皇そのものが本来不要であり、危険なものであることを再確認しよう。
象徴天皇制下では、天皇は憲法上の存在とは言え、その言動に、いささかも政治的影響をもたせてはならないのだ。