明治大学の土屋恵一郎教授をお招きしての予防訴訟弁護団学習会。氏は、法哲学者として、明治大学法学部で教鞭を執っておられる。
予防訴訟の準備書面(5)で、氏の『正義論/自由論−寛容の時代へ』(岩波現代文庫、2002年)から下記の引用をしている。
「多様な価値観が共存していることが、社会の豊かさと対話を可能にする、とリベラリズムは考える。社会が硬直して、特定の宗教や、宗教的イデオロギーそのものを排除しようとする動きが生まれるとき、その社会は、宗教だけではなく、他の異質なものを社会から排除することに、なんらの疑問をもたなくなる。
同質な社会を求めることは、いうまでもなく、リベラリズムが求めるものではない。それは、ファシズムの到来を意味している。ファシズムは、つねに、社会全体の利益のために、社会の異質なものをあぶりだして、それを追放しようとする」
「私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多様性によって成り立つことを求めるのだ」「国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげるものではない」「複数の思想、価値の存続を認めることは、自分の思想、価値の存続に意味を認めることと同じである。他者の自由は自分の自由とつながっている。‥そこには、正統も異端もありえない。そもそも、正統という観念が自由な社会には存在しないからである。‥どちらもが、相手の存続そのものを認めないとしたならば、その絶対的な対立のなかで、社会は崩壊する。イギリスにおけるアイルランド問題、ボスニアの民族戦争が、その典型である」
寛容とは、自分あるいは自分たちとは異質な思想を受け入れ共存する精神である。本日の氏の報告も、価値の多元性・多様性を認め合うこと、自分と異なる他者の差異性を否定的に評価しないことが寛容であると説かれた。社会的同調圧力や権力的統制がその対立物である。
さて、問題はここから始まる。何をもって、寛容の重要性を基礎づけるか。なにゆえに、寛容でなくてはならぬと論証するのか。寛容とは、権利性を認めることと対になる概念ではないのか。だとすれば、権利を主張することと、寛容を説くこととの差異はどこにあるのか。
端的に言えば、「日の丸・君が代強制拒否は憲法上の基本的権利である」と主張することと、「権力の側は、日の丸・君が代問題について寛容でなくてはならない」と説くこととの間に差異があるのか。いや、寛容論からのアプローチに、権利論からのアプローチを凌駕する積極的な意味があるのか、である。
個人の尊厳が、ものを考える出発点である。一人ひとりが、個性を持ったかけがえのない存在である。当然にそれぞれの思想良心の自由を持つ。その個性の尊重を、全体の利益から演繹することはできない。国家・社会にとっても、寛容は有用であり有益なのだ、と言うことは無意味な説示である。
そして、公理としての個人の尊厳を、基本権として構成する以上に、社会や権力の側に寛容を説くことの実益や優位性は、私には容易に見出しがたい。
寛容論。その位置づけは、私にとって、まだ定まらない。