日民協事務局通信KAZE 2003年5月

 日民協の現実と可能性

(和光大学 清水雅彦)

 弁護士はいい加減である。某法律家団体(日民協ではない)の支部活動を通じて、弁護士の無断欠席、事前連絡なしの遅刻、会議の集まりの悪さ、諸連絡の不徹底、ニュース原稿提出の大幅な遅れ、役職者のサボタージュなどなど、いろいろなことを経験した。これらのことについて何度となく改善を求めた結果、以前よりは状況がよくなった部分もあるが、ほとんど変わらない部分も多々ある。困ったものである。しまいには弁護士の間で、陰では私のことを「定刻主義者」と言われる始末。
 そんな経験を経て、乗り込んだ日民協。前号では、私の企画案を採用していただき、「生活安全条例」の特集を組むことができた。推進側を除けば初の本格的な特集となり、編集委員会の決断には大変感謝している。研究者・弁護士のいろいろな原稿が集まり、いい特集になった。しかし、出来上がった誌面を見る限り、うまくいったかに見える特集だが、実際には弁護士サイトにいくつか問題があった(具体的なことは省略するが、結果論で済ませてはならない)。「弁護士はいい加減である」ということを、日民協でも再認識した次第である。
 では、研究者はどうか。前号では研究者サイドにも問題があった。さらに、日民協に結集するような弁護士と比較すると、民主主義科学者協会法律部会に結集するような研究者でさえ運動面に関しては腰の重い人が多い。学界の多数派は運動をしないばかりか、運動する研究者を蔑視する傾向さえある。一度専任になれば、よほどのことがない限り職を追われない状況に安住し、社会との関わりをなるべく避ける人も多い。研究者が歴史を動かすわけではないが、歴史を動かす一つの歯車にもなろうとしないその態度に、怒りさえ覚えることもある。
 そういう意味で、日民協は青年法律家協会などと共に、貴重な団体と言える。弁護士または研究者だけの団体ではなく、両者が共に会員となれるからである(さらに、日民協は税理士・司法書士・法律事務所職員など裾野が広い)。それぞれマイナス面があるかもしれないが、お互いを批判しているだけではマイナスはさらにマイナスにしかならない。しかし、同時に掛け合わせてプラスにする可能性もいくらでもある。その一つの成果が、前号の特集ではないであろうか。
 今や権力者による悪法と蛮行が次々と出てくる時代。これらの問題に日民協が取り組む中で、研究者は弁護士の機敏な取り組みに、弁護士は研究者の理論的営みにそれぞれ刺激を受け、お互いの不足部分を補いあいながら、「無法者」に対抗していかなければならない。完璧な人間はそういないし、一人では力不足でも、それぞれの持ち味を掛け合わせると、単にプラスした以上の力を発揮できるのではないだろうか。そんな可能性を信じて、日民協の活動が二一世紀こそ「戦争の世紀」と言わせない社会の実現につながればと思う。


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