法と民主主義2003年8・9月号【381号】(目次と記事)


法と民主主義8・9月号表紙
★特集★唯一超大国の軍事支配に抗して─世界とアジアと日本の平和を考える
◆特集にあたって……編集委員会
◆多国間主義の擁護のために……最上敏樹
◆イラクはどうなっているのか、どうなるのか……海保真人
◆市民・法律家の日韓連携を!……山本真一
◆東アジアの平和に日本はどう関与するべきか……池田眞規
◆北東アジア共同体への潮流と当面する戦争阻止の課題……根本孔衛
◆『北朝鮮』バッシングの影響について……杉尾健太郎
◆有事法制反対運動と今後のたたかい……内田妙子
◆ピースボートの活動を通して……゙美樹
◆横浜の憲法劇……岩橋宣隆
◆憲法のすそ野を広げるー憲法フェスティバル(東京)……下林秀人
◆報告と討論のまとめ/新たな「平和と自由のリンケッジ」を求めて……横田力

 
時評●今しかできない敗訴者負担反対運動!─勝てる試合を手抜きで負けることはできない

弁護士 辻 公雄

◆検討委のひどい発言
 天下の悪法作り、敗訴者負担導入問題が文字通り最終段階に入りました。九月一日にパブリックコメントが終了し、九月一九日と一〇月一〇日の司法アクセス検討会で最終骨子が作られようとしています。この間の検討委員の多くの発言は本当にひどいものでした。
 曰く、司法に期待していない。裁判はリスキー好みの人がする。裁判は当事者の意欲と弁護士の能力でする。片面的敗訴者負担は違法だ。消費者を甘やかすな。公害加害者の弁護士も社会改革に貢献している。組合と会社は対等だ。裁判でどちらを勝たせるか悩むことはまずない。
 これら一見脈絡のない発言の根底に共通するのは自分達は正しく強い存在であり、一般市民のことなど真剣に考える必要はないという本性です。そして司法については、紛争解決機能や人権救済機能、法創造機能を全く理解せず、司法を蔑視する考えに至っているのです。
◆逃げ切り図る座長
 去る七月二三日の司法アクセス検討会は中間の区切りとなりました。
 それまでの会議では、行政、労働、人事、薬害、公害、消費者問題について大まかな議論が行われ、七月二三日には個人や中小企業間など一般民事裁判についての議論が行われるべきでしたが、これらの問題については議論もできず逃げられたという感じでした。
 日弁や消費者委員等が個人や中小企業間の訴訟には敗訴者負担を導入すべきでないと主張しても議論もされず無視されました。また、消費者出身委員から、敗訴者負担を導入すれば司法アクセスが促進される事例は何かと二回にわたって問題提起がされましたが、全く反応がありませんでした。
 多くの委員は、敗訴者負担が司法アクセスを制約するものであることを承知のうえで導入しようとしているのです。これほどの反市民的な人間がいるでしょうか。
 このような人間の言うことが、権力機関で官僚を握っているというだけでまかり通ろうとしているのです。
◆世論の包囲で阻止でき
 司法アクセス委員がどれほど自己の意見を通そうとしても限界はあります。圧倒的多数の国民が反対し、誰もが支持しない政策をどうしてとることができるでしょうか。我々は、敗訴者負担反対の署名運動をし、既に八月三〇日現在で一〇〇万筆が集まっています。今回のパブリックコメントについてもそれなりの成果を確信しています。このようにどれだけ多くの人が敗訴者反対の意見を表明できるかが分岐点であり、それは十分見通しがあります。勝てる試合を手抜きで負けるわけにはゆきません。
◆議員と自治体への働きかけ
 法案は司法アクセス検討委員会の事務局が議員と連絡をとりながら作ってゆきます。
 野党議員はもとより、公明党議員も協力的であり、自民党議員にも理解をしてもらえる人々がいます。この議員の輪をどれだけ大きく強くしてゆくかが鍵となります。
 各党の担当者や地元議員を訪問し、理解を求める運動が必要です。今秋は選挙もあるということであり、いろいろ工夫して下さい。
 北海道議会のように議会で敗訴者負担反対決議がしてもらえることは大変有効なことになります。地方議会や行政への働きかけもお願いします。
◆歴史に胸を張って
 敗訴者負担問題は文字通り歴史的審判を受ける事項です。我々は歴史に堂々と胸を張れるような行動をとりたいと思います。敗訴者負担反対の世論を盛り上げるためのあらゆることをしたいと思います。
 日弁連でもこの一〇月二三日大集会を企画中ですので、面白いアイディアをお寄せ下さい。歴史的事件に遭遇したことの重要さと責任そしてやりがいを認識し、あと数ヶ月しかない期間を全力投球してゆきましょう。各種のイベントを実行して下さい。今しかできる時がないのです。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

二人の父が育てし娘−女の政治に恋して

日本婦人有権者同盟会長:紀平悌子さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

 紀平悌子さんには父が二人いる。まずは生みの父佐々弘雄。悌子さんは父から「反権力と闘争心」の遺伝子を受け継いだ。佐々弘雄は天皇機関説の美濃部達吉と民本主義の吉野作造の薫陶を受けた俊英の政治学者。祖先はあの佐々成政、祖父友房も一八九〇年の第一回総選挙から衆議院に連続九回当選した国会議員だった。父弘雄は九州帝国大学で政治学を教えていたが「九大事件」で「アカ」のレッテルを貼られて追放。一九二八年、悌子さんが産まれてまもなくだった。「一家で上京、新聞社に職を得るまで十年近く浪人生活。売れない反全体主義の政治評論を書いて細々と暮らしました」「家の前庭は都立第三高女(現駒場高校)と地続きでしたが、その校庭に桜の巨木が十数本あり、その陰にになって家の中は、実際にも暗かったのです。それが桜の咲いているときだけ、ほんのりと明るくなった」悌子さんの上には長男、下に弟と妹、五人の子どもである。小学校に入った年に2・26事件。右翼から左翼、特高刑事も来るこの家、時代の政治が茶の間にある家庭のなかで、悌子さんは育った。父は「芯からの自由主義者」、悌子さんは子ども心に個人や言論をねじ伏せる力に強い嫌悪感を持った。しかし「自由主義者の父も母縫子には厳しく、絵かきか医者になりたかった才女の母に『侍の家では遊芸はしない』と筆を持つことさえ禁じました。悔しさを胸にしまい、黙って貧しい家を守る母を見て『どうして女だと、したいことが出来ないの』と不条理を恨みに感じました」悌子さんの政治と婦人運動の原点はここにある。
 地続きの都立第三高女に「体力で」入学した悌子さんは、始業の鐘が鳴ってから地境の垣根の穴から通学し、高女四年で聖心女学院に飛び級で入学。戦時下の「窮屈な軍国主義教育よりは、カソリックのほうが、まだまし」父の判断だった。一九四五年に敗戦。四七年の総選挙で父弘雄が参議院全国区で出馬当選するが一年後に病死する。悌子さんはその半年後に新聞記者だった紀平行雄氏と二一歳で結婚。結婚してすぐに夫が肺結核で倒れ、そして失業。悌子さんは新制聖心女子大歴史学科二年生。治療費や生活費をどう稼ぐかこのままでは路頭に迷うしかない。
 一九四九年、悌子さんは困り果て、父が婦人参政権運動家として誉めていた市川房枝さんを訪ねた。なぜかこの人しかいないとその時思ったのである。初対面であった。悌子さんは当時演劇志望で婦人運動には特に興味がなかったのに。代々木二丁目の住まい、「冷たい雨だれが濡れ縁ではね、畳をしめられるような粗末なお家、半白の髪を肩までたらし男もののズボンといういでたちの先生は、私の話を聞き終わるやいなや『あなたのことはよく知らないが、貴女のお父様はよく知っています。お世話しましょう』といい切られました」市川房枝さんは公職追放中。悌子さんは亡き「父の信用状」で二番目の父と出会うことになる。
 押しかけ門下生の悌子さん二一歳、市川房枝は五五歳。このときから一九八一年に先生を八七歳で送るときまで三二年間、悌子さんは市川門下で育ち、最後まで市川先生の愛弟子であった。婦人運動家として市川先生は悌子さんを徹底的に育てた。運動の進め方、人の集め方、手紙の書き方、人間の心のつかみ方、電話のかけ方、切り方、鉛筆の削り方まで。ついに「友達から、論文みたいな手紙をよこす」「恋文の書き方さえ忘れたという人生に入り込んでしまった」
 と言っている悌子さんだがそれは市川先生のことで悌子さんはちょっと違う。一九五八年には結婚九年目で長男太郎くんを産む。五三年市川先生は第1回理想選挙で参議院議員に当選。当時悌子さんは初代秘書の重責にあった。任期中の出産である。市川先生は太郎君を孫のように可愛がった。悌子さん三〇歳。子育ても容易ではなかったと思う。恋文などよりもっと強烈な女性としての選択をした。悌子さんは一九六七年婦人公論で「男の政治は権力で女の政治は生活、生きることだ。このジェンダーの境目を越えなければならないが、その道は遠いし、谷は深い」と書いている。
参議院所属法務委員会の自席にて。奇しくも真上で「父」市川房枝が見守る。 市川先生とともに政党や国会議員などの政治資金使途調査、ストップ・ザ・汚職議員キャンペーン、定数是正訴訟など政治活動。出たい人より出したいひとの「理想選挙」の普及。日本婦人有権者同盟の運動。悌子さんはきまじめに戦い続けた。国会議員候補になること三回、一九八九年から六年間は熊本選挙区選出の参議院議員となり、市民と女の理想選挙を実践した。無党派議員として二人の父の後を継いだ。議事堂本館三回第一九控え室、北向きの小さな無所属議員用の部屋に一人、悌子さんは居続け、委員会質問の周到な準備に没頭した。選出区からの陳情にはすべてレポートを書くなど膨大な量の仕事をひとときも休みことなく続ける。レポートを書きすぎて頸肩腕症に罹患する程だった。無駄な歳費は使わないと国会の車の貸与をことわり議員宿舎の使用もせず狛江の自宅から満員電車で通勤した。議員収支はすべて公開し六年間で七百万円を超える剰余金を出している。どんな場面でも平和、福祉、人権と政治の浄化という立場を守りきった。この徹底した実践ぶりは驚異的である。
 市川先生は「人に後継なし。運動に後継あり」と悌子さんに教えた。「仕事が緻密で、人をそらさない。この人をつかもうと思ったら、つかみに行く。くだらないと思ったことは、すぐに忘れる。関心をもたない」市川先生のこの流儀は「人に後継なし」その言葉とともに紀平悌子に伝わっている。
 悌子さんはおしゃれである。ホテルのサロンでお会いしたときはターコイスブルーの連になったネックレスにおそろいのイヤリング。束ね上げた髪はシルバーグレイが混じりとてもすてきである。七五歳なんて思えないぐらいに若い。「本当は私も悌子のように政治活動がしたかったの」。その母もいない。
 記憶が曖昧なところになると送ってきてくれた息子の太郎君に確認を求める。二人は政治家とその秘書のように座っている。時々太郎君が写真を撮る。太郎君は悌子さんを「尊敬はしていないが理解している」と言う。「この子は何でも一人で決めましたから」二人は父と子である。
 戦争の暗い時代に逆行する今の政治に「何で体制に順応するの、たなびくの」女達に向かって悌子さんの檄が飛ぶ。

紀平悌子
1948年 聖心女子大学に入学
1953年 市川房枝議員の初代秘書
1989年 参議院議員当選
現在  日本婦人有権者同盟会長


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