法と民主主義2006年5月号【408号】(目次と記事)


法と民主主義5月号表紙
★特集 Tどう変わる? 刑事裁判─第38回司法制度研究集会から
第38回司法制度研究集会開会あいさつより……鳥生忠佑
◆基調報告・瀬戸際の刑事裁判……守屋克彦
◆構成劇・〈新宿御苑の杜殺人事件〉
・構成劇の主役を演じて……和田卓也
・「新宿御苑の杜殺人事件」の裁判員役に参加して……小澤祐子
◆特別報告・危惧される公判の儀式化 東京地裁「公判前整理手続」適用第1号事件から……竹村眞史
◆刑事事件の現場から
・世田谷国公法弾圧事件……小林容子
・堀越事件の経過と刑事裁判の問題点……加藤健次
・板橋高校事件の審理展開と刑事訴訟法改正……小沢年樹

★特集 U座談会・私たちの改憲阻止運動
出席者……川村俊夫/高橋建吉/猿田佐世

 
★特集T●どう変わる? 刑事裁判─第38回司法制度研究集会から

第三八回司法制度研究集会開会あいさつより
 今回も、会員をはじめ、内外から多数の御参加をいただいたことに、厚く御礼申し上げます。

 目本民主法律家協会は、これまで多年にわたり年一回、日民協がもつ法律関係の多岐にわたる構成を生かし、今日の司法の状況、なかんづくわが国の司法制度とその運用が、憲法のめざす人権擁護の観点に合致するか否かを検証し、問題のある制度と運用の民主的改革をめざして、司法制度研究集会を開催し、今回をもって三八回を数えます。



 ちょうど、今回開催のこの時期は、今次司法改革の制度設計とそのための法制度がほぼ終了し、その一部がすでに実施に移され、残りが実施を準備し、または協議中の時期に当たっています。このため、今次司法改革が掲げた理念と方針のあいまいさと問題点が現実化して投影し始めた時期でもあり、今次司法改革のうち評価できる、評価できない、の各問題点を混在させてきた矛盾をはっきりさせつつあると考えられます。



 もともと、司法改革は、今次のものを含めて、制度設計と法制度が成立したことで、終わったものでは必してありません。それは、運用の開始によって、運用に耐えられない、改悪である点が明らかになった点については、今後逆上って制度自体を改革していかなければなりません。日民協は、このことを常に指摘してきたのであり、その意味でも、今次の司法改革はこれからの運用の中で試され、今後正されていくことで、ようやくいま改革の端緒についたと考えています。



 したがって、今次の司法改革を検討するに当たっては、全体を一括して評価はできず、各分野ごとの評価が必要だと考えています。

 今回、司法改革のうち刑事手続に焦点をあてて検討するのもそのためです。

 ご承知のとおり、現在までのわが国の刑事司法には、拘留・保釈をはじめ捜査と裁判の中で多くの改革すべき問題が山積みしています。このなかにあって、新刑事訴訟手続はどのように改めようとしているのか、とくに裁判員制度の導入を前提にして、すでに始まっている「公判前準備手続」はどのような問題を内包しているのかなど、を集中的に検討したいと考え企画したものです。



 午前中第一部の報告では、元裁判官で東北学院大学教授の守屋克彦先生に冒頭の基調報告をお願いすることができました。

 それにつづき午後からの第二部「新宿御苑の杜殺人事件」の演劇では、劇団青年劇場と青年法律家協会の大きな御支援を得ることができました。

 そして、第三部は、実際に公判前準備手続がついた刑事事件を担当された担当者から各々その実情について生々しい報告をいただきます。

 以上の、本日の企画を各担当いただいた方々に、協会を代表して厚く御礼を申し上げます。

 本日の司研集会で浮かび上がった問題点が、今後の刑事手続きの改革に生かされるよう願って、理事長としてのあいさつとさせていただきます。

(日本民主法律家協会 理事長 鳥生忠佑)



 
時評●横浜事件から考える刑事司法

(弁護士) 竹澤哲夫

 一 横浜事件という特定の「事件」があった訳ではない。

 一九四二年から終戦直前にかけ、雑誌「改造」「中央公論」の編集者らマスコミ関係者約六〇人が「共産主義を広めようとした」などとして神奈川県警特高課に逮捕、拷問で獄死者が出るなどした上、拷問による「自白」を唯一の証拠に約三〇人を起訴、終戦間もなく、実質審理を欠いたまま有罪判決に至った治安維持法違反事件の総称として横浜事件とよばれている。

 再審にはその裁判記録・判決が必要不可欠であるが、横浜事件では、司法当局が故意に焼いてしまったのである。そんな中で第三次再審が闘われてきた。

      

 二 第三次再審の経緯を振り返ると、第三次一審の再審開始決定が、再審理由として治安維持法はわが国がポツダム宣言を受諾したとき失効し、その時点で刑の廃止があったから免訴再審の理由があるとして再審開始を決定したのに対し、検察官の即時抗告を受けて、東京高裁は「拷問の事実を具体的に訴えた拷問被害者らの口述書の信用性を否定し難いとすれば、その自白を唯一の証拠とする確定判決の有罪認定は揺らぐ」、無罪を言渡すべき再審理由があるとして検察官の即時抗告を却けたのである(〇五・三・一〇)。

 死者まで出した残虐な拷問による自白を唯一の証拠とする横浜事件のねつ造こそ、再審裁判における核心であるが、その核心を受けとめて、抗告審は再審理由を認めたのである。

      

 三 この抗告審決定に対して検察官は不服申立ができる〈特別抗告〉が、これをしなかった結果、右趣旨、内容の再審開始が確定して再審公判に移行した。

 確定した再審開始決定における再審理由は、したがって上級審において修正変更された無罪再審であって、これと異なる免訴再審ではありえない(裁判所法四条、応急措置法二〇条、二一条、二条)。

      

 四 控訴審は、本件の場合は旧刑訴によるから「覆審」である。現行刑訴の「事後審」ではなく、民訴の場合の「続審」でもない。覆審とは「上訴審において原審と同じような審理をもう一度繰り返すこと」(有斐閣・新法律学辞典第三版)である。

 したがって、控訴趣意書の提出も要しない。旧刑訴下の再審事件の経験としては、吉田石松事件、加藤老事件、金森老事件等があるが、いずれも再審無罪は一審で確定している。

 上級審の判断を経て確定した再審開始決定に基づく再審公判の、元被告人側請求人の控訴による控訴審の覆審手続は、私の知る限り初めてのことと思われる。

 本件控訴審は東京高裁第八刑事部に係属することが決まった。手続き論にひきずられることなく、中身・実質のある無罪判決に向けて弁護団一同は心を新たにして、努力したいと思っている。



 五 私が弁護士になったのが一九五二一年、それから五五年、たくさんの事件や人にめぐりあってきた。弁護士をとりまく環境も仕事のスタイルもすっかり変わってきた。刑事司法が変質させられようとしている今、初めから刑事司法に縁の薄い弁護士の数が急激に増えている。

 長年のたたかいと経験に培われてきた弁護士の在野精神、気風、気骨も変質してしまっているのではないか。鉛筆・消しゴム世代の私たちの経験を次の世代に語り継ぎ、たすきを渡したい。その思いを込めて四月一日「戦後裁判史断章──弁護士の体験から─」を発刊した。

 超高齢者弁護団の横浜事件の闘いは最後に渡すたすきだと思っている。刑事司法の変質を許してはならないと身にしみているわれわれの世代は、今こそ半世紀の歴史を背負って司法制度の改悪に向かっていかなければならないと思う。


 
〈シリーズ〉とっておきの一枚

残驅は天の許すところ

弁護士:渡辺正雄先生
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)

2000年8月。タイの母の日に。タイのメラ難民キャンプ。

 一九八九年八月渡辺正雄先生は心筋梗塞で倒れた。左冠動脈の基幹部で血流がほとんど止まっていた。救命心臓手術を受け何とか一命をとりとめた。

 一九三〇年生まれの先生は五九歳。弁護士になって三二年、東京法律事務所を支え労働事件はもちろんのこと広く市民事件を抱えベテラン弁護士として還暦を迎えるところだった。当時のことを書いた「心臓病病棟風景」の先生の詩、冒頭に敬愛する茨木のり子の詩の一節「心臓のポンプが軋むほどの この忙しさはどこかひどく間違っている 間違っているのよ」

 どうあがいてもこの心臓と付き合って生きるしかない。仕事を離れていた回復期に先生は詩人になった。

 一九九二年晩夏、先生の詩集「風そよぐ十字路にて」がまとめられた。「三十数年にわたり、弁護士業務にたずさわってきた私は、思いがけず詩集などというものをつくってしまいました」それから一四年、先生の詩集はその一冊だけである。詩人は言葉の熟成を待っている。毎日身も心も軋むような弁護士稼業に片足をつけながらどこか違う風景の中で佇んでいる。

 私は病気で倒れる前の先生は知らない。先生のいる東京法律事務所のあるビルの前を私は日に何度も通る。仕事場から四谷駅に行く通りすがりに先生に出会う。四谷見附の大きな交差点ですれ違う。迎賓館に続くゆりの木の街路樹が新緑だったり、夏の緑だったり、黄色に色づいていたり、すっかり葉を落として冬のかたちになっていたり。先生はちょっとはにかんだような表情でいつも肩を少し斜めにして小さなバックを肩にかけ歩いている。目が合うともっとやさしく会釈する。話したこともない頃から先生のまわりに吹く風が見えた。

 先生は今年七六歳になる。生まれは東京。父親は拓務省の技師として鮪の調査で太平洋をまわっていた。父の実家は造り酒屋、「太平洋戦争のさなか、祖父が死に、故郷の酒屋にもどったあとの父親は、悲嘆に明け暮れ酩酊していた」先生は父親の故郷宮城県登米町、北上川のほとりのその家で育った。



「北風は冬の町を凍らせ、東の風がたんぽぽを飛ばし、南の風はおおぞらに夏の雲を描き、秋は西風の歌が澄んだ空を吹きすぎていった。

月に映える川堤の盆踊り。収穫と秋祭りの賑わい」

「北上の水。北上の米。冬が近づくと、祖父の家は酒造りの日々に入る。朝まだきに、若衆が足をそろえて米を磨ぐ冷たさ。ひねり餅のかおり。蔵びとが、櫂をそろえてうたうもとすり唄」

 

 小学一年の正雄君はなぜか「菖蒲は散っても、まだ、わめいて登校拒否するワタ公」だった。家にいて女の子とママゴトをしているような子だった。旧制中学は一〇キロ離れた隣町。そのころにはワタ公は変身し、陸上部一五〇〇メートルの選手、走って中学に通うほどの健脚になっていた。

 終戦は学徒動員先の工廠で迎えた。

 

「少年の日々はヤスリで擦り潰され 戦争の終わった八月一五日 

あの蒼空のもとに立ち尽くす 大勢の坊主頭があった」



 仙台の旧制二高へ。文丙フランス語の選択であった。旧制東北大の法学部に進学。当時の東北大には清宮、中川、木村、斉藤などそうそうたる教授陣がいた。正雄青年は「ぼーっと大学にいた」、卒業後就職もせず実家に帰ってしまう。造り酒屋を継がねばならないと思っていた。

 将来の若旦那でも酒造りは素人、何の役にも立たない。高校の教師でもと考えるが法学部、司法試験をやろうと決心する。酒蔵の二階で大学時代の本などを読んで独学一年半。試験は仙台で受けた。

 合格して九期になる。裁判官志望だったが卒業後は黒田事務所にはいることになる。小島成一先生が番頭格だった。入所したその日から「ただ座っていてくれれば」といわれ労働事件がらみの刑事事件の公判に行かされることになる。

 労働事件、農地事件、怒濤の日々が始まった。ストライキがあればどこでも飛んでいく。妻順子さんとは王子製紙の争議で知り合った。苫小牧支部の組合員だった。父親に猛反対され事務所の兄貴分小島成一先生と松本善明先生がはるばる登米町まで説得に行ったという。善明さんは「うちのは年上で病気。比べていいお相手じゃないですか」と懸命に説得したという。このお二人が行っても説得は失敗する。が、二人はめでたく結婚。後に三人のお子さんと、造り酒屋を畳んで東京にでてきた正雄先生のご両親と練馬に居を構えることになる。

 妻順子さんは長女有理子さんに言わせると「父とは違って超行動派」。有里子さんが五歳の頃順子さんは自宅の五畳半で子ども文庫を始めた。有理子さんはたくさんの絵本に囲まれ豊かな子ども時代を過ごす。「私は国内外のさまざまな絵本から、多様な世界、人々、さらには普遍的な人間の喜怒哀楽や知恵を、思う存分謳歌した。時に主人公の気持ちに同化して泣き、自分の友人のように身の上を案じる。またあるときは奇想天外な発想にお腹を抱えて笑い続けた。私は絵本からもたらされる、ユニークなアイデアや冒険へのわくわくした気持ち、心の中がくすぐったくなるような愉快な思い。こうした感情を、心の中だけにとどめておくことが出来ない子どもだった。とにかく絵本を読んでもらったら、やってみたい!という気持ちがわき起こり、実行に移した」

 玄関脇にそびえる高い胡桃の木の上で両足をブラブラさせながら本を読んでいたそばかすだらけの女の子は、その思いのまま、二〇〇〇年九月から一〇九五日間、ビルマ難民キャンプで図書館作りをすることになる。成田の搭乗ゲート、見送りに行った渡辺先生はゲートに入る直前有理子さんに「小さく折り畳んだティッシュの塊を無理矢理手渡す」何でこんなゴミとムッとする有理子さん。「お守りだ」の一言。中には小さく折り畳まれた一万円札があった。ゲートを入ってそれを見る。「急に涙がポロポロと出てきた」なんにも言わなかった父の思い。

 インタビューの日、先生はまず有理子さんの今年発刊された「図書館への道」を差し出す。有理子さんのサイン付。照れたように笑いながら愛おしむように。それから私に催促されてご自分の詩集をそっと出す。私家版の詩集の発行所は「すずらん文庫」どちらもすてきな本でした。

 「仕方がない!しおれた花束は始末して、今日の時間に心臓の鼓動を合わせる」と綴った時から一七年。先生は許された時を楽しんで生きようと思っている。

・渡辺正雄
1930年東京都生まれ。
1957年 弁護士登録(東京弁護士会所属)
1957年 墨田(現東京法律事務所)に入所。現在に至る。
1992年 詩集「風そよぐ十字路にて」発行。


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