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■特集にあたって
「税金の無駄」報道のない日はない。
現職閣僚の数名は、政治資金収支報告に、家賃がただの議員会館に政治団体の「主たる事務所」を置きながら、巨額の「事務所費」を政治資金収支報告に計上していた。巨額の「事務所費」は何に使われたのか。疑惑解明に背を向け、使途不明であれば、国税庁は、政治家個人の所得として課税すべきである。また知事が談合・汚職で立て続けに三人逮捕された。談合により税金は無駄に使われ、知事やその選挙資金に還流されていた。都知事においては、海外視察・飲食・身内重用と庶民感覚から程遠い公金の使途だ。
しかし安倍政権・自民党は、国・地方レベルいずれにおいても、これらの与党であり、また擁護している。いままでの保守政権と比べても、改革の自浄能力を持たない。これを財界が政策目的実現のため、財政・組織面で支えている。財界の政策目的は、政治改革ではなく、自身の富の蓄積である。現在、財界主導の税制改革が進行しつつあり、その被害・矛盾はより深刻になってきている。
本特集では、財界の狙いとその実態、またこれが推進されたらどうなるか明らかにしたいと思う。そして財界の政策・主張に対し、勤労市民・庶民が批判していく声を上げていかなければいけない。
まず最初に、今の危機的状況、米軍基地移転費用の負担など国民生活に使われない財政の状況、格差社会を助長、など異常な税財政政策について、北野弘久氏より、憲法の観点からの批判を。
そして、所得課税・法人税については、浦野広明氏より、投資取引の軽課・分離課税などを温存しながら勤労性所得に対する重課、さらに法人税では、中小企業に重課する一方で、大企業には徹底した軽課などの実態とともに、財界が国際比較などで、日本の法人税はまだ重いとする主張のうそを解明していただく。
また、消費税については、湖東京至氏より、現在安倍内閣が、参議院選挙・地方選挙を目前にして、消費税隠しをしているが、なぜ財界が消費税引上げに執着するのかということと、増税が行われた場合の影響、過去現在の政府の消費税に関するうその主張・論理などを反論を。
最後に、勤労者・年金生活者に襲いかかる所得税・住民税の増税の影響と第二の税金である国民健康保険料などの公的負担の増加の動きを佐伯正隆氏に具体的数値で説明していただいた。
本特集が、政権と財界の一心同体ぶりに「ノー」を突きつけるための闘いに活用されることを期待してやまない。
日米の両政権が勇ましさ≠競いあっている。
安倍内閣は、任期六年中に憲法を「改正」すると宣言。そのために、今年の五月三日までに国民投票法(改憲手続法)案を成立させるという。憲法施行六〇周年の日を目標にするとは、国民と憲法に対するあからさまな挑戦であって許せない。
中間選挙で惨敗したブッシュ政権は、イラク政策を見直すといいながら、なんのことはない、二万人強の兵力増派だという。この程度の増派では、軍事的効果はほとんど期待できない。際限のない軍事拡大(エスカレーション)に陥る危険性をはらんでいる。それ以上に重大なのは、ブッシュ政権がひきつづき、イラク問題の解決を軍事力に求めると宣言したことである。
しかしいまやイラク情勢は、複雑にからみあった諸勢力間の内戦状態になっていて、軍事力による解決など不可能である。ベトナム戦争や旧ソ連によるアフガニスタン侵略と同じ様に、アメリカは敗北への途を確実にたどりつつあるようだ。
ところで今日の改憲策動の出発点は、アメリカの強力な対日圧力であった。集団自衛権行使を解禁させ、海外での日米共同作戦をめざしたのである(アーミテージ報告)。
しかしアメリカがいまの軍事路線を維持すれば、三〜五年後にはイラクで敗北を喫することになるだろう。〇八年一一月の大統領選挙で民主党が勝利すれば、アメリカ軍の撤退は早まるかもしれない。いずれであっても、その後二〇〜三〇年間は、アメリカが海外で戦争をすることはできなくなる。アメリカの国民が許さないからだ。
そうなると憲法を「改正」してまで、日本が「海外で戦争をする国」になることに、なんの意味があるのだろうか。負け戦をしているアメリカに加担してイラクに陸上兵力を再派遣するのか(これほど愚かなことはない)、日本単独で侵略戦争をするのか(世界中の非難が集中する)―。つまりは、改憲論の基盤が崩壊しつつある、というべきである。
この国の勇ましい$ュ権が改憲手続法(国民投票法)案の成立をめざす目的は何か。いうまでもなく「戦争をする美しい国」の実現である。そのためには九条二項の削除を中心とする憲法「改正」が必要。それには改憲手続法案を成立させなければならない、という理屈になる。平和主義の堅持を求める勢力がこれに反対するのは当然であろう。だが、そもそも「アメリカとともに戦う」状態など、まぼろしにすぎないことは、すでに述べたとおりである。なんのための改憲か、なぜいま改憲手続法を成立させなければならないのか。その説明責任は安倍政権にある。「戦後レジームからの脱却」だけでは、なぜ脱却しなければならないのか、を説明していないのである。
五〇〇万人の公務員、教育者を憲法「改正」運動から排除し、二〇%強の賛成でも成立する「改正」憲法が、どれほどの正統性を主張できるのか。これも大問題である。
それ以上に問題なのは、投票日前一四日のほかは、すべての有料広告が野放しになることである。視聴者に、そんなCMがあったかな、と意識させる程度のTV・CMには四〜五億円かかるという。消費者金融のCMが激減している広告業界では、改憲CMに、五〇〇億から一〇〇〇億円を期待しているといわれる。しかしそんな資金を投入できるのは、憲法「改正」を主張する自民党、信者から巨額の寄附を集める創価学会・公明党および日本経団連をはじめとする財界だけである。改憲反対勢力は手も足も出ないことになるだろう。すなわち「憲法が金で買われる」のである。
このような改憲手続法案の実態が国民の知るところとなれば、改憲反対勢力だけではなく、改憲に賛成する人びとだって「ルール違反」と考えるであろう。
いっせい地方選挙と参院選挙のなかで闘われる今国会で、われわれが勝利する条件は十分にある、と私は思う。
土曜日の弁護士会館はひっそりとしていた。根本先生との待ち合わせは東弁の弁護士控え室前だった。その日が土曜日だったことを失念していた私は先生が心配で早めに来て、暗い廊下で待っていた。五分前に先生はエレベーターで上がっていらした。痩身で長身、ひょうひょうと歩かれる。その日は自由法曹団の常幹会議が午後にあるのでインタビューはその前に東弁でとなった。「日弁のロビーに行こう」勝手知ったる弁護士会館、先生と私は明るい日差しが入る吹き抜けのロビーで向かい合った。亡くなった井田恵子先生が会館に残したフラワーアレンジメントが飾られている。先生の声は大きい。笑われると笑顔とともに吹き抜けのロビーに共鳴する。「僕耳が遠くて失礼するかもしれないので」「四、五年前に当番弁護士を止めました。接見室で僕が聞こえないもんだから何度も大きな声で聞き返す。相手も大声になって。外に聞こえるんじゃないかと被疑者が不安になってしまうんで」先生は八二才。年齢をうかがってびっくりした。当番やってらしたんだ。
根本孔衛先生は一九二五年三月生まれ。その年日本では普通選挙法と治安維持法が抱き合わせで成立、NHKが放送を開始した。括弧付きの「近代日本」、それは戦争の時代の始まりであった。千葉県市原市五井町が先生の故郷である。父文吉は雑貨屋に商品を卸す商売をしていた。昭和恐慌の中、掛けを回収できずに倒産。「父は商売がうまくなかったのです」。
一九三一年満州事変が起きた年に根本先生は小学校に入学する。父は一九三二年に母せいは一九三五年に病気で亡くなる。残された根本先生と弟はそれぞれ親戚に預けられることになる。小学校卒業後、根本先生は近くの宮実業学校に進む。商業と農業を学んだ。一九三七年には日中戦争が起こる。学校は軍国教育まっただ中だった。なのに根本先生は「兵隊嫌い」だったせいか学校の教育のどこかに胡散臭さもを感じていた。
一九四二年三月学校を卒業した根本先生は日本橋の協栄生命に就職する。統計の仕事で、海軍機の爆弾道計算の手伝いもした。そして根本先生は、明治大学専門部商科に通う夜学生でもあった。一九四四年、一年繰上げて徴兵検査、第一乙種合格。入営の通知が来たのは一年四ヶ月後の一九四五年七月。これで戦地にいかなくてすんだ。配属は磐田の航空地上部隊の通信部。入営生活は、体は大きいが「不器用で、機敏ではない」その上どこかに「兵隊嫌い」が見え隠れするせいか古兵にいじめられた。皮のスリッパで殴られ左の奥歯が欠けてしまった。
川向こうの浜松が空襲をうける、通信機械に竹竿を通して天竜川の崖の横穴に運ぶといったドタバタのうちに八月一五日を迎える。営庭で玉音放送を聞き、「これで助かったと思ったが、敗戦は悔しかった」。その一〇日後の二五日には先生は焼跡の東京に帰って来ていた。短い兵隊生活だった。
先生は協栄生命に戻る。当時この会社は戦争保険の元締のような仕事で大変な忙しさだった。今秋田で弁護士をしている金野和子さんが東京女子大数学科を卒業して入社してきた。根本先生の二歳下か。こんなところで二人は出会っていたのである。一九四九年、忙しいのと食糧不足がたたって根本先生は結核に罹患する。千葉の療養所に二年、養い親のおばさんの所に二年、四年間仕事に戻れなかった。この四年間会社は根本先生の厚生年金保険料を支払い続けてくれていた。「だから僕は年金がもらえているんです」。
体に自信がなくなった根本先生は独学で司法試験をめざす。一九五六年に合格、三一才だった。同期一一期は坂本修、同福子、宇賀神直先生など多士多彩である。松川、メーデー事件など騒然とした時代に修習。修習中に坂本修先生とメーデー事件弁護団にたのまれて東弁図書館や法務図書館に入り込んで騒擾罪の調査をしていたという。一九五九年四月から第一事務所で弁護士の仕事を開始。東京に九年。六〇年代の様々な事件に関わることとなる。「労働運動の高揚期で全国をかけめぐる。とくに東北の国有林労働事件にはかかわりが深く、その関係者とのつきあいはその後四〇年以上になる今に及ぶ。
一九六八年先生は川崎合同法律事務所を作る。労働事件から一般民事、社会的な事件、地元のあらゆる法的な紛争に対応できる地域の拠点事務所である。そこに踏ん張って四〇年になる。「合同事務所では、互いに人の長所を認め合い、相手の仕事に尊敬の気持ちを持つことが大事でしょう」開拓事務所の経営は楽ではなかったが、機動力をもつため給料制を基本にしてきた。「一度も遅配欠配したことがないな」また先生の大きな笑い声がロビーに響く。「事務所会議で本音を言える」これが事務所団結の基なんですって。川崎合同の個性的な面々の顔が目に浮かんだ。
根本先生の仕事は、弁護士会での沖縄問題、戦後補償問題の取り組み、反核法協、国法協、などでの法律家運動、そして自由法曹団の活動など幅広い。広いだけでなくそれぞれが息が長い。「僕は書く文章がいつも長くなる」先生は書きたいことが多くて、と頭を抱えているのである。その上原稿は手書き。打ち上げてもらったものを訂正してはまた打ってもらう。私も数年前まで手書き派でした。単なるキーボード恐怖症なのに「弁護士は口で勝負するんだから」とうそぶき顰蹙を買っていた。その私がつい先生に意見をしてしまった。「先生、メールとワープロはおやりになった方が」「むずかしいことは必要ありませんから」先生は「ほうそうか」という顔で聞いていらした。「どなたかについていただいてやればできますから」。それは自分のことでした。私の無駄口と先生の文章の価値は比べものになりません。説教たれたことを反省します。根本先生にはそんなことを言ってもいいような気さくさがある。
先生は昨年左膝を痛めて七月から一〇月まで歩けなくなってしまった。「人間には寿命がある。オレもいよいよか」と先生は思った。「僕は消極的健康法でやってきたからな」。つまりもともと嫌いな酒たばこはやらない。あとは何もしない。運動もしない。体は丈夫な方ではなかったが特に健康に気を遣ったこともない。そして八二才。膝も治ってお元気である。
「仕残しの仕事をしたい」これが先生の今の気持ちである。時間を取って文献も調べ、これまでに係った事についてまとめたいと言う。先生わかりましたが、そうはいきません。風雲急を告げる今、年は関係ありませんから。戦後六〇年の宿題をやらないと元も子もなくなるんです。大声でラッパを吹いてください。
・根本孔衛(ねもと こうえい)
1925年、千葉件市原市で誕生。
1942年、宮実業学校卒業と同時に協栄生命に就職。
1959年、弁護士登録 東京第一法律事務所に所属。
1968年、川崎合同法律事務所設立に参加、現在に至る。数多くの労働事件、基地訴訟など関与。