日民協事務局通信KAZE 2007年2・3月

 不採用訴訟の法廷で


 一月は行って、二月は逃げた。さっさと三月である。
 季節の移ろいはあまりにも早い。今日から、卒業式シーズンの幕開け。華やぎの雰囲気はなく、また憂鬱な春を迎える。

 本日(三月二日)午後は不採用裁判の原告本人尋問。四人の方が、素晴らしい証言をされた。自分の半生を振り返って、職業生活を総括するような内容。
 自分は何を目指して教師となり、どんな教育理念をもって生徒と接してきたか。その自分の理念や教育実践に照らして「日の丸・君が代」強制をどう受けとめたか。なぜ起てないのか。個性と迫力に満ちた証言であり、法廷は、一昨日のピアノ訴訟判決にめげない明るさだった。

 左陪席から社会科の先生に、学者証人に対するような質問がなされた。
 「君が代・不起立について思想良心の自由と言われますが、不起立によって式が混乱したとして違和感を覚える人もいるのではありませんか。そのような人の感覚についてはどう考えればよいのでしょうか」
 憲法で、もっとも大切なものは人権である。人権を制約するものがあるとすれば人権以外にはあり得ない。つまりは、人権と人権が衝突する局面においてその調整の必要が生じ、結果としてある人権が制約されることになる。しかし、人権以外の何ものも、人権を制約することはできない。
 思想・良心の自由は、人が人であるために自分が自分であるために不可欠な、人権の中の人権である。その思想良心の自由と対向して、調整を要する価値とはいったい何であろうか。卒業式の秩序や厳粛な雰囲気などは、人権ではない。
 考えられるとすれば、憲法二六条に基づく、子どもの教育を受ける権利であろう。教師の不起立が、生徒・子どもの権利を侵害することが明白であれば‥のことであるが。秩序好みの参列者の不快感回避の権利など、思想・良心の自由と対向する人権として考慮する必要はない。

 また、裁判長が、これまた異なことを。
 「皆さんは、教育に強制はなじまないとおっしゃる。しかし、自分の受けた教育を思い起こせば強制ばかりだった。強制なくして教育はなりたたないのではありませんか。まずは、教室にはいりなさいという強制から」
 ごまかしではなく、指導と強制は本質において異なる。教育に指導は不可欠であるが、体罰や恫喝で強制に至れば教育の敗北である。指導と強制の境界。それは生徒から内発的なものを引き出すのか、制裁を科すことによって従わざるを得ない状況を作るのか。前者は教育を受けるものの自発性を促し、後者は面従腹背を招く。
 教育が教師と生徒との全人格的な接触による営みというのは、教師の人格と専門性の高い技術によらずしては教育はなりたたないからである。強制では教育にはならないからである。
 これが、私の理解する教育論。

(「澤藤統一郎の憲法日記」から)


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