日民協事務局通信KAZE 2009年11月

 「チェンジの時代」に


 マスメディアの世界で三〇数年過ごしたあと、「法とメディア」の研究者として九年。もともと法律の専門家ではないから、専門家と一般社会との仲介役になれれば…、と思っているが、ろくに論議されないまま、法改正が進み、新法が生まれ、細分化され技術的になり、膨大化する「法律の世界」に、正直驚いている。もしかしたら、専門家の先生たちは、その「専門の海」に溺れてしまっていないか、とも思う。
 「編集委員会に入ってよ」と林さんに言われ、議論に加わったのも、そんな思いがあったからだ。
 「『法律』イコール『法』ではないはず…」などと改めて言うのはいささか気恥ずかしいが、いま日本の法律の決め方、運用、在り方は、どれをとっても、やっぱり「政治の侍女」となり、「人民支配の道具」になっているのではないか。そんな思いが強いのだ。だから、日民協や青法協や自由法曹団などの法律家運動は、法の専門家の運動としてますます重要だ、とも思う。
 朝日新聞によると、平野官房長官は一一月四日、記者会見で「現時点では過去に解釈されたことを踏襲する」としながら、「これまでの法制局長官の憲法解釈に内閣は縛られないのか」と聞かれ、「もちろんそういうこと」、「政治主導だから、政治判断で解釈していく」と発言。鳩山首相も「法制局長官の考え方を金科玉条にするのはおかしい」と述べた。朝日は「今回の発言は憲法解釈も政治主導で行う原則を示したとみられるが、時の政権の都合で憲法解釈が安易に変更される恐れもある」と書いたが、憲法に限らず、法学者や法律家はもっとこの「政権の都合による解釈」に、敏感であっていい。
 「状況の変化」とか「法の発展」とか理屈はあるが、一般の法律は「政治の都合」で改正し、憲法は変えられないから、解釈を無理やり変えて、なし崩しの「現実」に合わせる…。これは、どう見ても、普遍的な「法」を求める原理とは隔たっている。
 「六法全書を丸暗記する奴がいるが、六法全書は使いこなすもので、食べるものじゃない」―。五〇年近く前、法学部一年生の「法学」の授業で、こう話したのは、刑法の斎藤金作教授だった。「法学部ならつぶしが利く」と説得されて入学した私にとって、その言葉はちょっとした救いだった。
 特殊な事情はあるだろうが、いま私の大学では、「将来の希望は?」と聞くと「警察官」と答える学生が多いのに驚く。「つぶしが利く」どころか、「法の世界」の具体的なイメージは、「警察」らしいのだ。
 「法律」は「国家権力の支配の道具」から、「人間の生存と思想を支える論理の表現」にどうしたら変わるのか? 「チェンジの時代」にそれを考える。
 …そういえば「法学者は依然として法の意義を論じている」といった大先生もいた。日、暮れかけて道遠し。

(関東学院大学 丸山重威)


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