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家裁からの通信

(井上博道)
第0017回 (2004/06/05)
仙台で非行問題の親子会をつくる話8(理屈編)

そのためには過去に学ばなければなりません。
以前私は,調査官の組織においてケースワークが停滞したのは必然であったと述べました。
主にマンパワーの問題ですが,人数の問題ではありません。
家裁という組織もっている宿命は,家裁の組織が市民参加を前提として,フラットで軽いシステムでできているという点にあります。司法制度改革審議会で家裁が評価されるもととなったものです。重厚な組織と人員(あくまでも家裁に比較しての話です)をもつ地裁などとは全く根本的にことなる特徴です。
ケースワークそのものをやる能力はあったとしても(長い停滞の中ではこれも再度構築しなければならなくなっていますが),その全てが専門家たる調査官が担わなければならないとすれば,これは家裁の特質と矛盾します。そんなことをすれば調査官の人数は膨大になりますし,そもそも家裁はそんなことを考えたことはありません。
 あくまでも市民参加を前提にしたシステムが家庭裁判所なわけです。私が最近の調査官の論文を読んで不満なのはこの点にあります。調査官が仮に専門家だったとしても,社会的ニーズに応じたケースワーク機能を発揮することは,「一人で天を支えようとするもの」といえます。過去の家裁のケースワークの失敗の本質は,家裁の本質からはずれた「脱市民化」「専門職主義」にあったように思います。
 この時代における家裁のケースワークの再構築は,ケースワークの過程での市民参加のあり方にかかっていると思います。市民参加といった場合,家裁の手続きに直接コミットメントする部分と家裁と市民の連携のあり方として考える場合があると思います。
 今回の仙台での試みは,市民参加の形態をNPO型の法人組織とし,ケースワークを市民との連携とのかたちで模索しようとするものです。詳しい話は実践編に譲りたいと思いますが,この考え方そのものは家裁の本質である市民参加そのものといえると思うのです。
 最後に,ケースワークとカウンセリングは対立する概念ではありません。両方の技術はともに人を援助するためのものです。そして,この技術は権力の中から生まれたものではなく,市民なかから開発されたものと言ってよいでしょう。
 調査官は公務員で裁判所の職員であることは間違いない事実で,それを否定するものではありませんが,いわゆるお役人になるようなぶざまなまねはしたくないと思うのですが,どうでしょうか。調査官がもし専門家であろうとするならば,市民であることをとことん追求しなければならないと思います。
以上で,理論編を終えたいと思います。                          次回から実践編を書きはじめたいと思います。おやすみなさい。

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