No.16の記事

裁判を「復讐ショー」にしていいのか

 「マネキンの右足の赤黒い切断面がディスプレーに映し出された瞬間、傍聴していた遺族の女性が悲鳴を上げて泣き出し、裁判所職員に抱きかかえられるように退廷した。検察側は、被告が描いた絵も使い、遺体を切り離していった方法や順序、感触などを約3時間半かけて被告に質問。星島被告も動揺した様子で『絶対に死刑だと思います』と突然叫ぶなど、法廷は一時、騒然となった。…」(朝日新聞1月14日付)
 東京・江東区のマンションで昨年4月、当時23歳の女性会社員が、同じ階に住む34歳の男性に殺されバラバラにされて捨てられた事件の公判は、1月13日からわずか2週間の間に論告求刑まで進むという新方式の審理が行われ、星島貴徳被告に死刑の求刑が行われた。
 裁判で検察側は、裁判員制度を意識して、法定内に大型モニターを設置、証拠品や犯行状況を再現した画像を映し出しながら、冒頭陳述や被告人質問を行い、バラバラにされた被害者の骨などを提示し、「被告は被害者を自らの『性奴隷』にするために襲った。自分を守るために邪魔な『物』として無惨に解体した。まさに鬼畜の所行だ」と被告の残酷さを糾弾したという。
 MSN産経ニュースの「法廷ライブ」によると、弁護団は最終弁論で、「法廷では、検察官が視覚に訴える立証活動を行い、成功しているように思えるが、プロフェッショナルの裁判官が、冷静に分析し、理屈に従って判断していただきたい」と述べた。そして「今回の裁判では、反省している被告に、公開の法廷で、遺族やマスコミ、一般傍聴人の前で、すべてを再度供述させることに疑問を覚えていたが、被告はその質問すべてに答え続けた。これは反省の情を物語るものだが、その状況は遺族が求める『公開処刑』とまでは言わないまでも、『市中引き回し』に等しい扱いであったと言っても過言ではない」とも述べたという。
 裁判を傍聴したのでもなければ、映像を実際に見た訳ではない私としては、その当否について判断する材料を十分持っているとは言えないが、「メディアと法」を考えてきた私としては、やはり弁護団同様、公判廷への映像の安易な導入には疑問を持たざるを得ない。
 映像による説明は、文章によるよりもわかりやすく、臨場感があることは言うまでもない。このことは、映像は人の感情に訴える要素が強い、ということをも意味している。このことを抜きに、「肉片」とか「骨片」とか、「再現映像」を「証拠」として大型画面に映し出し、被告を糾弾する材料とすることが、果たして「近代的な裁判」と呼べるのだろうか、と単純に思うのだ。

  ▼「一般庶民感覚」と「プロフェショナル」
 良く知られていることだが、新聞や放送は、死体や残虐な写真を掲載することについてはかなり慎重だ。その慎重さのために、ときには、戦争の悲惨さが隠されたり、問題の深刻さが伝わらないことが問題にされるほどだ。
 もちろん、メディアはその事実を知っており、報じることができる場合も多い。しかしメディアは、それをどう扱うか、の判断に責任を持たなければならない。だから、ひとつ一つ議論をし、掲載の是非も決める。それが「情報のプロ」としての仕事だからだ。
 裁判も同じだっただろうと思う。「実体的真実」の発見と、「社会的な公平性」を保ち、罪を犯した本人の情状も見詰めて量刑を決める。それが、プロの法律家の仕事であり、裁判はそのために、開廷前には起訴状を見るだけで、一切予断を持たない裁判官によって裁かれていく、というのがルールだったのだと思う。
 従って、そこに「演出」が入る余地はないはずだし、常に「一般庶民感情」とは必ずしも同じではない「法律的な論理」で動いていた。「証拠」は動かないものであり、ひとつ一つ、取り上げるかどうか、その価値がどれほどのものかが検討され、裁判官が冷静に判断する。法廷で写真が撮れないなど、メディアの取材も制約を受けてきた。それは、この「冷静さ」を担保するためでもあったはずである。
 しかし、「裁判員制度」が語られ、具体的に動き出してきた結果、そうした刑事裁判の原則が危うくなってきているのではないか。それを論じるのは、ここの主題ではないが、「市民参加」の名の下に、「わかりやすさ」や「早さ」が要求され、結論だけが性急に求められる。その結果が、今回の映像による裁判であり、集中審理だったとすれば、相当に問題は大きいと思われる。
 しかも、その「わかりやすさ」や「早さ」を作ることができるのは検察側だけで、弁護側は対応のしようがない。例えば、被告の生い立ちや事情について、「情状の再現映像」を作ることなど、できるはずもないだろう。
 この事件について、さすがに多くの新聞報道は、この方式について、疑問を提示している。ネットで「法廷ライブ」を報じた産経新聞も、紙面は「モニターなど工夫 視覚化へ課題も 目を背ける『生々しい映像』」(1月14日付)「”裁判員”意識 検察強い意志」(同27日)と、映像使用の問題点を指摘した。
 私はさまざまな問題を抱える「裁判員制度」自体、まず実施を延期して検討をしたらどうか、と既に提言したが、この映像を使った立証が、公判前証拠整理で同意され、実施に移されているだろうと考えると、やはり「刑事裁判の原則」が危うくなっていると感じざるを得ないのだ。

  ▼大事なのは「事件そのもの」か「処刑」なのか
 私たちはこれまで、刑事裁判とは、犯罪に対して「復讐」や「リンチ」しかなかった世界から、「罪を憎んで人を憎まず」とはいかないまでも、単に被害者感情で罰が加えられるようなことがないように、「罪刑法定主義」を定め、「感情」ではなく、「理性」で問題を解決しようと生まれたものだ、と教えられてきた。
 刑罰をどう考えるかについては、応報刑主義も教育刑主義も、どちらにも主張がある。しかし、あくまで冷静に、証拠によって、全体的な状況を把握し、真実を発見しようという精神は失われてはいないはずだ。
 英国の犯罪報道の歴史をたどった村上直之著「近代ジャーナリズムの誕生」(岩波書店、1995年)によると、英国では、古くからブロードサイド・バラッドと呼ばれる絵入りの読み物が売られていたが、その中で、最もよく読まれたのは「絞首台のバラッド」と呼ばれる犯罪事件を内容としたもので、しかも「事件そのもの」よりも「処刑」を扱ったものだった、という。同書によれば、1827年、村娘が恋人に殺された「赤い納屋の殺人」と呼ばれた事件は、犯人の告白の形で脚色され、人形芝居になったり犯人の似顔絵が売られたりしたらしい。公開処刑が行われており、彼を処刑した状況のブロードサイド・バラッドは、116万6000部を売るほどだった、という。
 著者は、こうした歴史を、当時行われていた「公開処刑」による「絞首台上の改悛劇」との関わりで明らかにし、「16〜18世紀の裁判資料を見ても、事件の個別性とその原因、犯罪者の性格特性などについての記述はほとんど皆無であり、まるで関心さえ抱かれていない」「当時の人びとの関心が犯罪の発生よりは裁判に、そして裁判よりは刑の執行にあったことは、これらの事件のブロードサイドの発行部数が明瞭に語っている」などと指摘している。
 著者は、これについて、いまでは「なぜそうした犯罪が起きたのか」が問題にされるようになっているとして、「まるで今日の私たちの関心の方向と逆なのである」と書いているが、いま、「劇場型犯罪」が語られ、その裁判までが、まるで劇場のように「演出」され、まさに、「判決という結論が死刑を選択するのかどうか」だけに集約されてしまうとしたら、この時代と一体どこが違うのだろうか。
 
 今回の裁判で弁護人は、被告が子供のころ、誤って熱湯の風呂に落ち、両足にケロイドを伴うやけどを負ったことで悩み、それに気付かなかった両親とは音信を絶っていたことなどを明らかにし、「弁護人はこれまで数々の刑事事件に関与してきたが、星島貴徳被告ほど真摯に反省している犯罪者を見たことはない」と断言した、ともいう。
 彼の罪が重く、被害者の悲しみが容易に癒されないことは言うまでもない。しかし、繰り返すが、「感情」で人を裁いても、病理は解決しない。
 もともと、死刑については、とりあえず中止すべきだ、という国連決議さえある時代だ。たまたま、裁判員制度の「導入期」にあったから、短時間の裁判が行われ、本人が改悛の情から死刑しかない、というならそれで構わない、ということであれば、裁判は要らなくなるだろう。私が裁判員だったら、やはり死刑を選択することには反対である。
2009/1/29