最近の日記

メディアの「権力批判」と政治家のパフォーマンス

       「世論」作りの動きをどう考えるか

 鳩山邦夫法務大臣が、連続幼児殺害事件の宮崎勤死刑囚ら3人の死刑を執行し、昨年8月、安倍改造内閣で就任、同9月の福田内閣発足で再任されて以来、13人の死刑を執行したことになった。これに対し、各方面から批判があったが、朝日の夕刊コラム「素粒子」もその中の一つだった。ところが、これに対して法相がかみつき、それに呼応するかのように、1000通以上の批判が朝日に殺到したという。一体これをどう考えるのか? 
 端的に言って、私はこの問題、死刑制度についてのまともな議論を逸らすための問題のすり替えと、これを利用して司法を厳罰主義的世論を大きくしようとする政治的な動き以外の何物でもないのではないか、と思う。
 法相は7月25日の記者会見では、「『死に神』は辞任しますから―」と述べ、福田首相が内閣改造を検討していることに関連し、自身の留任はないとの見通しを示した、という。自らもそう呼ぶのなら、何をかいわんや、だ。
 メディアの権力批判、それに怒ってみせる政治家、そこに呼応する民間の動き…。
問題は、書かれたコラムの内容の是非だけではなくなってしまう。
 私は、このコラムの表現を「うまい表現だ」という気はない。しかし、本来なら、せいぜい「ちょっとひどいんじゃないか」と言って終わりになる程度の話に、マイクが置かれた台をたたいて声を荒らげるパフォーマンスを見せた法相、これに乗って朝日に抗議した「犯罪被害者の会」の動きには、やっぱり同意できない。問題を整理してみよう。

   ▼クレームを付けられた夕刊コラム
 問題のコラムは、朝日の6月18日付夕刊「素粒子」。次のように書かれていた。
なお、この話、原稿自体が問題になっているものなので、そのまま全文を引用する。
 
   永世名人 羽生新名人。勝利目前、極限までの緊張と集中力からか、駒を持つ手が震え出す凄み。またの名、将棋の神様。
    ×    ×
   永世死刑執行人 鳩山法相。「自信と責任」に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神。
    ×    ×
   永世官製談合人 品川局長。官僚の、税金による、天下りのためのを繰り返して出世栄達。またの名、国民軽蔑の疫病神。

 これで全文。
 鳩山法相は、この「死に神」に食いついた。20日の閣議後の記者会見で、怒りをあらわにして抗議した。報道を総合すると、「苦しんだ揚げ句に死刑を執行した。彼らは『死に神』に連れて行かれたのか」「極刑を実施するんだから、心境は穏やかでないが、どんなにつらくても社会正義のためにやむを得ないと思ってきた」「軽率な文章には心から抗議したい」といったものだったらしい。
 これについて朝日は、21日付朝刊で「法相、『素粒子』を批判」と短く報じた。そこでは、「20日、電話やメールなどで約1130件の抗議が寄せられた」と報じ、「『素粒子』は世の中の様々な出来事を題材に、短い文章で辛口の批評をするコラムです。鳩山氏や関係者を中傷する意図は全くありません」という「朝日新聞社広報部の話」を付け説明した。
 この「抗議」があったからだろう。21日付の「素粒子」は、次のように「弁明」した。

   鳩山法相の件で千件超の抗議をいただく。「法相は職務を全うしているだけ」「死に神とはふざけすぎ」との内容でした。
    ×    ×
   法相のご苦労や、被害者遺族の思いは十分認識しています。それでも、死刑執行の数の多さをチクリと刺したつもりです。
    ×    ×
   風刺コラムはつくづく難しいと思う、法相らを中傷する意図はまったくありません。表現の方法や技量をもっと磨かねば。

 これで本来、問題は終わりである。
 法相の「怒り」も、毎日7月4日付夕刊によれば、「『批判、中傷は慣れとる』。だから『死に神』と書かれたときの最初の反応は『ふーん、よく言うわ』だった。だが『待てよ、これはいかんわ、絶対いかん』と思い直した」というのだ。
まさに「語るに落つ」の「怒り」だった。

   ▼「被害者の会」の主張をどうみるか
 しかし問題は、25日、「全国犯罪被害者の会」(あすの会)が記者会見し、「犯罪被害者は、死刑囚の死刑執行の一日も早いことを願っている。被害者遺族も『死に神』ということになり、我々に対する侮辱でもある」と抗議したことで、新たな段階を迎えた。朝日の「権力批判」が、「被害者への侮辱」といわれたのだ。
 率直に言って、私はこの抗議で、犯罪被害者たちが「犯罪被害者は、死刑囚の死刑執行の一日も早いことを願っている」と公言していることに、いささか衝撃を感ずるのだが、これに対して朝日は、「犯罪被害者の『お気持ちに思いが至らなかった』とし、『ご批判を厳粛に受け止め、教訓として今後の報道に生かしていきます』と答えた」という。(7月2日付)
 そして併せて、回答では「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」ともした、と述べている。
 私も犯罪被害者の人たちが、犯罪者を許せない、と考える気持ちは当然だと思う。しかし、人間社会、そうした感情を、さまざまな葛藤の末に乗り越え、「再び同じような犯罪を犯す人が出ないように」と考え活動している人たちもいるだろう。「被害者の会」はこの回答で満足せず、再質問を出したと言うから、話は終わっていないらしい。
 しかし、ここでやっぱり考えてみなければならないのは、「死刑制度」そのものではないだろうか。「素粒子」の「死に神」の表現が適切だったか、そうではないかを議論する前に、いまある日本の死刑制度が、国際的には大きな論議になっている問題であることを改めて考えなければならないし、それをメディアがどの程度正確に伝えているか、が検討されなければならないのではないだろうか。

   ▼死刑停止は世界の流れ
 既に国際的には、1989年に死刑廃止条約が成立、発効しており、アムネスティ・インタナショナルの調べでは、死刑廃止国は137カ国にのぼり、存置国は60カ国に過ぎない、という。死刑の場合、あとで冤罪だったことが明らかになっても、執行されてしまえば取り返しがつかない。さまざまな廃止論はあるが、この意味は他の刑罰と違って、非常に大きいだろう。 (http://homepage2.nifty.com/shihai/
 さらに昨年12月には国連で、死刑の全面停止を求める決議案が、賛成104、反対54、棄権29で採択された。これを記念して、イタリアでは、かつてキリスト教徒数千人が処刑されたローマのコロッセオをライトアップし、決議の成立を祝った、と共同電が伝えている。
 ただ、この話、日本ではほとんど問題になれていない。つまり、「死刑問題」については、超党派の議員連盟が活動していることはよく知られているが、国際的視野に立った上で、これをどう考えていけばいいのかについては、伝えられておらず、その中で日本の「世論」が歪んでいるのではないかと思う。

 鳩山法相は、そんな世界情勢を知ってか知らずか、昨年9月25日の記者会見で「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法はないだろうか。…(確定の)順番通りにするか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」「『この大臣はバンバン執行した。この大臣はしないタイプ』などに分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないか考えている」(『毎日新聞』9月25日付夕刊など)と話して問題になっている。「順番通りに」云々の前に、「ベルトコンベアと言ってはいけないが…」という一言が入っていたという。
 つまり、「死刑制度」は、いま大きく揺らいでいるのだ。そうしたとき、メディアが法相の姿勢を批判するのは当然だし、あっさり「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」と言い切ってしまっていいのだろうか。私はやっぱり疑問を持たざるを得ない。

 いま、メディアの批判に、政治家は敏感だ。当然だし、問題だと思ったら発言したらいい。しかし、その「反論」に、メディアが萎縮してしまうのでは、元も子もない。
朝日は、NHKの慰安婦問題を取り上げた番組に、自民党幹部らが「圧力」をかけた問題で、「取材不足」を認める形で、担当した記者を転属させ、政治家との関係を修復した。 今回の「素粒子」の筆者は、ベテランの論説委員だ。「週刊文春」はこの記者の「前歴」を問題にしたが、私はこの筆者を攻撃し、結局は鳩山法相を免罪することに繋がるこの文春の記事についても疑問を持つ。
 政治家にも言論人にも、発言にはそれなりの責任がある。しかし、政治家が「国民のために」活動するなら、言論による批判は、甘んじて受ける覚悟が求められる。もともと、ピリッと痛いところを突いて問題を考えさせる「山椒の実」の味が、この欄の表現だ。この程度の発言が出来なくなったら、言論は死滅する。
「権力にはうっかりものが言えない社会」にしてはならない。

   ×    ×

 なお、この問題について、朝日と「犯罪被害者の会」は話し合いを続け、朝日は6月30日と7月14日、「鳩山法相を中傷する意図はなかった」などと回答したが、再々質問を受けて、とうとう8月1日、「適切さを欠いたと言わざるを得ない」と回答、これが受け入れられ、話し合いは「決着」した。(8月2日付参照)
 
 しかし私は、犯罪被害者との話し合いの中で、「朝日新聞は死刑廃止の立場をとっていない」と回答した、と述べていることについて、違和感を持つ。
 法律に「死刑」があるのだから、現状では「廃止論ではない」と言いたいのかもしれない。しかし、本当にそれでいいのだろうか? いま述べたように、世界が「死刑停止」に向けて動いている中で、いつ、どんな論議の中で、そんな「立場」を決めたのか? 読者に対する説明責任はあるように思うのだがどうだろうか?
 「犯罪被害者の会」HPは、http://www.navs.jp/2008_8_4.html

【7月28日に掲載したものを一部加筆修正しました。/8月18日丸山重威】

本当に元少年を死刑にして良いのか

    ─「いのち」とメディアと法律家の責任

 光市の母子殺人事件の差し戻し審判決は、弁護側の主張を一切切り捨てたまま、2008年4月22日、結論に関しては、いわば「予想通り」の死刑判決だった。「厳罰化の風潮」とか、「永山基準の変更」とか、「弁護団の作戦の失敗」とかいろいろ言われている。しかし、「もしも…」は通用しないことはわかっているのだが、仮に同じ事件であっても、事件の発生が1999年4月より数年前に起きていたなら、このような経過をたどることはなかっただろうと考えると、やっぱり被告の元少年には不運だった、と思えてならない。
 彼の生い立ちにしても、一審段階からの裁判の推移にしても、報道でしか知りようがない私たちだが、この結果はどう考えても、いわゆる「犯罪被害者の感情」に傾斜しすぎた法務・司法の動きと、それを助長したメディアが導き出した結果だったように思うからだ。本当に、彼を死刑にすべきなのか? 「更正の余地はない」と決めつけ、死刑にしてしまって、本当にいいのだろうか?

 「新聞の報道が容疑者を極悪人だと決めつけて、警察が主張するままに犯人に仕立て上げているのではないか」という疑問が様々な形で出されてきたのは、死刑判決を受けた冤罪事件が次々と明らかになる中で、「ふてぶてしい様子で、朝食をぺろりと平らげ、取り調べに及んだ…」風の記事への反省が迫られてきた結果だった。三浦和義氏に向けられた「週刊文春」の「疑惑の銃弾」の連載は1984年1月、一方、浅野健一氏の「犯罪報道の犯罪」の出版は同年9月。新聞各紙がそれまで呼び捨てだった逮捕者に「容疑者」の呼称を付けるようになったのは、1989年12月だったが、その後も、日弁連が92年から当番弁護士制度を発足させると、同年暮れ、西日本新聞社が「容疑者の言い分報道―福岡の実験」を展開して話題になった。容疑者を犯人と決めつける一方的な報道には、もっと慎重であるべきだ、という流れは、メディアの一種の「合意」だった。 
 しかし一方で、1995年3月、地下鉄サリン事件を契機に、オウム真理教が摘発され、松本サリン事件(1994年6月)や、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989年11月)も、同教団幹部の犯行だったことが明らかになると、事件報道はまた新しい様相を見せることになった。
 そこで注目されてきたのが、犯罪被害者だったように思えてならない。日本には犯罪被害者へのケアが全くと言っていいほど出来ていないことが問題になり、99年版の「犯罪白書」は「犯罪被害者と刑事司法」を特集し、「効果的な犯罪被害者施策を講ずる上で役に立つ資料を提供しようと」(法務省の解説)し、1999年秋には、仕事で逆恨みした男に2年前、夫人を殺害された岡村勲弁護士などによる「犯罪被害者の会」が生まれ、河原理子記者による「犯罪被害者−いま人権を考える」が出版された。ここでは「加害者の権利に敏感な割に、被害者は見捨てられていないか」と問題にされた。
 「犯罪被害者へのケア。そこにもっと目を注がなければ、被害者は浮かばれない」−それは、メディアにとっても「陥し穴」だったのではなかったか。事件報道への「反省」が、「被害者感情重視」の方向に拍車をかけたといえそうである。
 光市の事件はまさにそのさなかに起きている。
 
 この事件に関して、私などがどうしても違和感を持ってしまったのは、妻と娘を殺された被害者の家族が、事件の推移の中で何度もメディアに登場し、「極刑」を訴え続けたことだった。妻を失った岡村弁護士にしても、サリン事件で夫を失った高橋シズエさんにしても、妻と娘を同時に失った本村洋さんにしても、全く同情に余りある。私だって、家族がそんな目に遭うことを想像したら、何も言うすべを持たない。
 しかし、一方で私が学んできた知識は、近代の裁判制度は「復讐」ではなく、犯罪を抑止し、社会的ルールを創るなかで生まれてきたものであり、罪と罰はあくまで実体的真実を追求する中で判断されるべきで、感情に揺り動かされる中での誤りがあってはならないことを教えてくれている。だれも人生は一回だけしかないのだし、いったん死刑にしてしまえば取り返しがつかないことに、人々はもっと思いを致すべきではないか、とも考えさせてしまう。
 テレビも新聞も、毎回毎回、本村さんが登場し、無念さを語り、「極刑を」と訴えるのをそのまま報道し続け、元少年の犯行がなぜ起きたのか、について、ほとんど何も紹介しなかったことは、明らかにバランスを欠いていたことだと思う。
 さらに、事件とは全く関係ないらしいタレント弁護士が、テレビの番組で、被告を弁護する同業の弁護士についての懲戒請求を大衆に向かって呼び掛け、それに影響されたかされないか、7500件もの請求が殺到するなどという事態は、どう見ても「異常」である。

 さすがに、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」の「放送倫理検証委員会」は、8放送局の20番組、33本、7時間半におよぶ放送を視聴し、ことし4月15日、「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」を公表、「ほぼすべての番組が、『被告・弁護団』対『被害者遺族』という対立構図を描き、前者の荒唐無稽と異様さに反発し、後者に共感する内容だった」「番組の多くがきわめて『感情的』に制作されていた、という印象をぬぐえない」と指摘した。
 この意見書では、調査した番組が「『第1、2審で争わなかった事実問題を、差戻控訴審になって持ち出すのはおかしい』『被害者遺族の無念の思いを踏みにじっている』『弁護団は死刑制度反対のために、この裁判を利用している』等々の反発・批判をさかんに浴びせた」「裏返しとして、ほとんどの番組は、裁判所がどのような訴訟指揮を行い、検察官が法廷で何を主張・立証したか、第1、2審の判決にもかかわらず死刑という量刑を追い求めた理由は何なのかについて、まったくといってよいほど伝えていない。その分、被告・弁護団が荒唐無稽、奇異なことを言い、次々に鑑定人などの証人尋問を行って、あたかも法廷を勝手に動かしているかのようなイメージが極度に強調された」「そのなかにひとつとして、被告人の心理や内面の分析・解明を試みた番組はなかった。このこと自体が異様なことである」などと具体的に問題点をあげ、刑事裁判についての「前提的知識の不足」があったのではないか、などとも言っている。
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/k004.pdf#search='BPO 光市母子殺害')

 もともと、第1審段階で、元少年の異常な精神状態もふくめ、どのような弁護活動と裁判がされていたのか、の問題があることは指摘されてきたことだが、もしも彼の精神状態が責任を問えるような状態でなかったとしたら、この社会の異様な雰囲気の中で、差し戻し審を招き、死刑宣告を受けることになった少年の命をどう考えたらいいのだろうか。
 毎日新聞は4月29日付の「記者の目」で、広島支局の大沢瑞季(みずき)記者の「心読めず『明快論理』出せず−死刑判決後、続く自問」という記事を掲載した。
 差し戻し控訴審を07年5月の初公判から12回すべて傍聴し、広島拘置所で元少年に面会もしたという大沢記者は、「この間、『自分が裁判員だったらどんな判決を出すだろう』という思いが頭を離れなかった」と書き、接見すると「事件に向き合い始めている」と感じる被告が、精神鑑定人には、死刑になった時は「(死後の世界で)先に(被害者の)弥生さんに会えば夫になる可能性がある」と言っていることなどをあげ、「理解しきれない面も多かった」と率直だ。
 そして、2審では被告が精神薬を投与されて、たどたどしくしか答えられなかったが、差し戻し審ではよどみなく話せたことなども指摘、「確かに、(差し戻し審の)新供述は合理的でない部分が多かったように思う。だが、私は判決のようにすべてを『虚偽の弁解』と言い切る自信はない。元少年の本当の姿が見えないため、その言葉にもいくらかの真実があるように思えてしかたないからだ」と書いている。
 本当にそうなのだろう。父を失い、母も自殺してどこか精神的におかしくなった少年が、夢うつつのような状態で「どらえもん」に指示され、犯行に及び、拘置されて家族も面会に来なくなり、精神薬を投与されて、接見で舌が回らないことがあったり、裁判でたどたどしくしか答えられなかった少年が、事件のことを今になって思い出すと、こんな状況だった、と話す。そんなこともあり得ることではないのか。
 何の罪もなく殺された被害者は本当に気の毒だと思う。しかしやっぱり、犯罪が「社会が生んだもの」だったら、「元少年を死刑にしてそれで済むのか」を改めて問わないことには、報道の責任も法律家の責任も果たせたことにはならないのではないかと思うのだが、どうだろうか?

刑事事件報道のいま、をどうするのか──日弁連人権委ニュースに寄稿

 日弁連人権委員会から、裁判員制度に関する日弁連、新聞協会、民放連などの見解についてのコメントを求められた。2008年3月1日付「日弁連委員会ニュース」70号に掲載された。
 一種の政治的文書でしかないように見える「見解」も妙だが、それを作らせてまで、仕組みを変えようという傾向に、危機感を持つ。「取材」や「報道」がどんどんやりにくくなっている状況には、意識して抵抗していかなければならないのではなかろうか。

▽改めて「基本」に返った報道姿勢を
 刑事裁判の危険な傾向と裁判員制度

 日弁連、新聞協会、民放連などそれぞれの見解を読んで思うことは、「こんなことを改めて言わなければならないのは、やはり裁判員制度の導入自体に無理があるのではないか。メディアはまず、現状の事件取材について、なぜこんな問題が起きているのか、の根幹から警察、裁判所の姿勢を批判し、報道の基本を確認すべきではないか」ということだ。
 見解の内容はどれも当たり前のことで、捜査段階の取材、報道に問題があり「犯人視してはならない」というのもその通りだ。しかし、気になるのは「この見解で、事件報道と事件取材がどう変わるのか」ということだ。その点、「新たな事件報道のルール作りが必要だとは考えていない」とする雑誌協会の「考え方」の方がずっとすっきりしている。
 つまり、メディアが求められているのは、まず総体として強まっている報道規制への抵抗であり、「容疑者の言い分」の取材も含めた捜査についての正当な疑問や、裁判で提示される弁護側の主張に、真摯に耳を傾ける姿勢ではないか、と思うからだ。
 裁判員制度では、最初から事件報道の規制が提示された。裁判員選任に関する報道制限から裁判員への接触禁止、裁判員の守秘義務の規定が出され、最終的に削除されたが「偏見報道の禁止」まで入ってきた。これを削除させ、自主性を守るため、メディアはこんな見解を出さざるを得なかった。しかしこの見解で、取材・報道が規制されるのでは元も子もない。事実、昨年マスコミ倫懇大会で最高裁の平木正洋総括参事官が示した「懸念」は、事実上、事件取材を根幹から不可能にしかねないものではなかったのか。
 刑事裁判は、「報復」ではなく、犯罪の再発を防ぐため、冷静に真実を明らかにし、必要な刑罰を科すことが要求されている。犯罪は社会の歪みが生んだものだと考え、本来、犯罪者も教育で更生できることを信じ、社会に貢献させることを目指すものだと思う。
 ところが、現状はどうだろう。そんな基本は忘れられ、犯人を罰すれば問題が解決するかのように、「重罰化」が進み、「被害者感情重視」の流れは、「被害者」の裁判参加にまで広がっている。さらに、「裁判迅速化法」ができ、「起訴状一本主義」どころか「争点整理」などの公判前手続きが進み、「真相究明」より「効率性」優先の傾向が進んでいる。
 さらに、鹿児島や富山の冤罪事件で示されたような「身柄拘束・自白偏重」の権力的な捜査手法は一向に改められていない。その上、証拠の目的外使用を禁ずる刑事訴訟法の改正などで、事件、裁判の検証自体が困難になってきている。
 報道側もこれに巻き込まれ、裁判段階でも、オウム・麻原裁判に見るように、「裁判長期化」への批判はあっても、弁護側の提示する根本的な問題はほとんど報じられていない。鹿児島、富山の事件で報道は、裁判中、裁判の進行にどう疑問を提示していたのだろうか。
 そこに、裁判員制度が加わり、何日か続く集中的な開廷や、米国流のパフォーマンスが重きをなす公判が始まる。裁判員は罰則付きで「守秘義務」を課せられ、メディアは、裁判員に接触できず、裁判の検証することもできなくなる。
裁判員制度についての問題点は数多く指摘され、スタート以前に反対論が高まっている。裁判員制度は、本当に大丈夫なのか。冤罪や感情的な裁判を続発させるだけにならないのか。このことも、いま、本気になって言わないでいて、いいのだろうか。
 メディアはこの状況を直視し、捜査報道、裁判報道ともに、憲法と刑事裁判の「基本」に返って、その視点から報道する姿勢を取り戻し、問題の本質を伝えなければならない。
 私はこれらの「見解」が、メディア自身の「取材・報道の自由」と「責任」を規制することにつながらないことを祈るばかりだ。

新聞協会見解
民放連見解

問題は「法」ではない「政治」である ―法律家が政治に発言するとき

大阪府知事に当選した橋下徹氏が、岩国市長選に絡んで、かつての艦載機の移転受け入れの是非を聞いた住民投票について、移転容認派の福田良彦氏の応援ビデオで「岩国の住民投票には反対」と発言。対立候補の井原氏が「国政にものを言うのは当然」と反論すると、「憲法を勉強してほしい」とやり返した、という。おまけに、報道によると、これを新聞が報じ、小林良彰、小林節の両慶大教授や、奥平康弘東大名誉教授が批判をすると、「学者なんかに政治の現場での生の憲法がわかるわけがない」と言い放ったというのだから、始末に悪い。
 石原慎太郎東京都知事が憲法についても、その他の問題についても乱暴な発言を繰り返し問題になっているが、橋下知事もその例に倣ってのことかもしれない。
 しかし、少なくとも論理とか道理とかで進められていかなければならない政治の場で、こんな形の議論が堂々と罷り通り、「彼はそういう人さ…」と言われて過ぎてしまう危うさを考えなければならないのではないかと思う。

 昨年10月、東京・調布市の「調布憲法ひろば」(九条の会・調布のひろば)は、結成3周年記念集会で、市内在住の奥平康弘教授の講演を聴いた。
 奥平さんの話の内容は「憲法を専攻してはいるが、九条問題の専門家ではない私」がなぜ「九条の会」に加わったか、を話したもので、「自衛隊が9条違反であることは自明の理。向こうからボールが飛んできた。とすれば、これは憲法解釈の問題ではない。蹴りつけられたボールは蹴り返すしかないからだ」というものだった。     (http://www.geocities.jp/chofu9jou/index.html)参照
 要するに、「憲法を変えなければならない」と語られている多くの問題は、実は憲法9条の解釈ではない。「憲法」とか「法律」とか言って、いかにも、難しい専門的な問題であるような錯覚を起こさせているが、実はこれは「隠れ蓑」。まさに「政治」の問題であり、「日本の国の在り方」の問題である。

 ネットの朝日の記事によれば、橋下知事の発言に、小林良彰教授は「この種の住民投票には法的拘束力がない。住民の意思の確認・表明なのだから、憲法が制限することはあり得ない」、小林節教授は、「住民の声を直接聞いて、その結果を地方自治体の意向として国に示して実現を図っていい、というのが憲法の考え方だ」、奥平教授は「弁護士が『憲法』と言えば説得力があるように聞こえるが、政治的な発言をしたまで。注目を集め、目的は達成したんじゃないのかな」と話したそうだ。
 
 昨年の安倍政権の退場で、「改憲」の危機は、ちょっと遠くなったような印象を与えている。しかし、一方では、まるで国連決議さえあれば、「自衛隊」も「在日米軍」も、「国連軍」に早変わりし、それが「戦争や戦闘行為をしても憲法違反ではないのだ」と言いかねないような議論が民主党の小沢一郎代表から出され、論じられている。
 言うなれば、「ひと味違った解釈改憲」論で、奥平さん風に言えば、やっぱりこれも「蹴りつけられたボール」ではないだろうか。
 そして、「憲法」は「九条問題」だけではない。事件として報道される生活保護の問題や、年金、医療、障碍者、高齢者から、賃上げ、ワーキングプアの問題などは、すべて憲法25条の「生活権」の問題だといっていい。
 「法」と「政治」――。その関係は、もう何世紀にもわたって論じられてきたことだ。それならそれで、お互いに、その限界と可能性を尊重し合い、矜持を持って論じ合う関係にしていかなければなるまい。
 
もう一つ、大切なことを指摘しておかなければならない。この「橋下発言」に関わる話、同じ朝日新聞でも東京本社版には載っていないようだ。東京本社のデスクにしてみれば、基本的には岩国と大阪の問題であり、ニュースがなければともかく、「載せない」という判断も当然かもしれない。
 しかし、いま日本の政治は、沖縄や、岩国など地域を分断し、また立場や階層や年齢を分断することで、どんどん危険な方向へ動いている気がしている。国民を「分断」する政治に、メディアが鈍感であってはなるまい。

国連決議の「歪曲」は許されない ――テロ特措法延長問題にメディアの姿勢を問う――

 民主党の小沢一郎代表が8日、シーファー米大使との会談でテロ特措法の延長に反対の意思表明をしたことで、「9・11」以後の世界での日本の対応の在り方が改めて話題になってきた。
 読売と産経は、それぞれ8月3日と9日の2回にわたって、「テロ特措法 民主党は延長反対を再考せよ」「小沢VS米大使 政権担当能力に疑問符がついた」(読売)、「国益考え責任政党の道を」「政局論で国益を損なうな」(産経)などと、小沢代表の姿勢を批判、自民党に加えて党内からは前原誠司前代表が延長論を公然とぶつなど、早くも民主党抱き込んで特措法を延長させようとする「世論工作」が始まっている。
 小沢代表が「国連決議で承認されたものではない」と指摘したことについても、「海自の活動は、多国籍軍のテロ掃討作戦の一環である。2001年9月の米同時テロ後に採択された安保理決議1368に基づいている」(読売)と、あたかも国連が承認したかのような言説を弄して、これを世論にしようと必死である。民主党の前原誠司前代表は、12日の「テレビ朝日」「サンデープロジェクト」に出演、「テロとの戦いに75カ国が参加しており、日本が抜けるのは国益に反する。何らかの形で参加するのが良いし、洋上給油は現段階ではベストだ」と発言、世論作りに一役買っている。
 これにたいして、田原総一朗氏は前原氏の発言を受けて、「国連決議はある。だから、派遣は構わない。それで…」などと、決議の正当性を認めたような発言をした上での発言を促している。本当にそれでよかったのか? 

 ここでもう一度振り返っておかなければならないのは、日本が根拠にしている「国連決議1368」は、決して、アフガニスタンへの武力攻撃を容認したものではない、ということである。決議は、国連として「国際平和、安全保障への驚異に対して断固として戦う決意」を表明、「すべての形態のテロと戦うため、必要な全手段をとる用意がある」とし、「憲章にのっとっり個人または集団的自衛権を認める」としている。しかし、この決議は、「テロ攻撃の犯人、組織者、支援者らを裁きの場に連行するようすべての国の緊急協力を求める」としているだけで、武力攻撃を容認など、全くしていない。
 実際に攻撃が始まり、それが既成事実になって、事態が動いた。しかし、百歩譲っても、当時から、国際法や国際関係の専門家を中心として、「国連決議がないままの攻撃であり、国際法違反だ」という批判があったことは間違いない。しかし、ブッシュ大統領が「われわれに付くか、敵に付くのか」と演説し、アーミテージ国務副長官が言ったか言わないか、
「ショウ・ザ・フラッグ」という言葉が伝えられ、そんな議論を吹き飛ばすようにして制定されたのが、テロ特措法だったのだ。
 改めて確認しておけば、国連憲章で加盟国の武力行使が許される場合は、国家による武力行使、侵略行為に対して、暫定的に、自衛権の発動をして対応することができるだけだ。さらに、テロはもともと警察活動として対処すべき問題であるうえ、事件の実行行為者とアフガニスタンとの関連性は十分証明されてもいない。国連としてアフガニスタン制裁に乗り出すことはもちろん決めていないし、自衛権を発動して武力攻撃をする要件など全く満たしていないのだ。

 小沢代表の指摘に、シーファー大使は、「国連決議1746を見てもらいたい。国連が認める活動と明記してある」と述べた。
 しかし、ここにも根拠はない。この「決議1746」というのは、ことし3月に行われたもので、アフガニスタン政府に対しての要請だ。そこでは、「国際治安維持支援部隊と多国籍軍を含む国際社会の支援を得つつ、タリバン・アルカイダその他の過激派と犯罪活動がアフガニスタンの安全と安定に及ぼしている脅威に、アフガニスタン政府が今後とも対処することを求める」という。しかし、それで国連決議を得ないで行われた過去の多国籍軍の活動が全部認められるはずもない。
 むしろ、国連総会は昨年9月、「グローバル・テロ対策」について、「あらゆる形態のテロリズムを非難し、テロ防止関連条約の締結、包括テロ防止条約交渉妥結並びに国際テロ撲滅措置に関するすべての総会決議及び安保理決議を履行に努める」とし、「テロとの闘いの措置は国連憲章、国際人道法、国際人権法を始めとする国際法上の義務に従わなければならない」「市民及び文明間の理解の促進並びに貧困撲滅及び持続可能な開発へのコミットにより、テロリズム拡散につながる条件への対処措置を講じる」などとうたっていることの方が重要だろう。
 まして、「集団的自衛権」を否定し、「専守防衛」をベースに、憲法9条と自衛隊を整合させている憲法の立場から見れば、現に戦っている軍隊への燃料の供給という兵站が認められるわけはないではないか。

 特措法制定から6年を経て、いま日本が国際社会にどうコミットしていくかが改めて論議になってきている。参院選で国民は、「かけがえのない同盟」などと口走って「価値観を同じくする米国」に追従し、ただ「暴走」する安倍政権に「待った」をかけた。「同盟」には必ず「敵」がある。一体、安倍政権は何を「仮想敵」とし、どこに「同じ価値観」を見出したのだろう? 「愛国者」であるはずの安倍さんならなおのこと、これが問われなければならないだろう。
 戦後62年。われわれは8月15日をはさんで、「戦争は繰り返してはならない」という言葉を数多く聞いた。いま、「軍事制圧」のために戦っている米国に荷担し、戦っている軍隊に、自国に余っているわけでもない国民の税金で買った石油を供給し、「軍艦のガソリンスタンド」を提供して兵站を担うことと、日本中の戦争体験者が語る「戦争を繰り返さない」ということと、どう重ね合わせればいいのか? テロ特措法による自衛隊の活動、石油の供給は、本当に続けていいことなのか? 
 
 「国連決議の正当性」とか「憲法の立場からの正当性」などは、多数決を前提とし、政治の論理で動く議会の論議とは少し違った場所から提起していかなければならないことかもしれないと思う。学会やメディアにはその責任があるのではないか? メディアは、どこまで行っても「仕方がない」ですませるわけにはいかないはずだ。あくまでも「論理」で問題を解き明かし、平和のためのペンを揮わなければならない。

「けしからん罪」と「憲法で戦う」ということ

 メディアの現場に「けしからん罪」という言葉がある。
 「いくら何とか還元水を使ったとしても、何百万円にはならんだろう。けしからんじゃないか」「コムスンは1カ所でも問題が出て処分されると、全体に波及しては困るから、その事業所はすぐ閉鎖する。これは違法じゃないけど、けしからんことだよ」というふうに使う。つまり、一見違法ではないが、やっぱり問題だ、という種類の問題についていうことだ。
 今回、共産党による告発で明らかになった自衛隊・情報保全隊の市民活動への監視は、まさにこの「けしからん罪」だ。
 法的に見ると、すぐ「○○法に違反している」とはいえないかもしれない。しかし、「集会、結社の自由、言論・表現の自由」をうたった憲法21条、「思想、信条の自由」をうたう憲法19条に違反する。「違反」と言って悪ければ、少なくともその考え方に真っ向から挑戦する行為だと思う。
 政府は、大臣が「当然の行為」と開き直り、次官も「詳細は手の内を明かすことになるから言えない」とそれに従っている。少なくとも「誤解を受けて遺憾だ」とすら言っていない。
 では、専門家はどうか、というと、「確かに問題がある行動だ。だが、自衛隊法にも、これこれの活動をしてはならないとは書いていないから、決められた業務からの逸脱だが、グレーゾーンでしょうね」というのが、一般の法律家のごく普通の解釈だろうか。
 かくして、この種の行為は、いくら抗議をしても、のれんに腕押し、見解の相違。…要するに「やり過ぎ」「そんなものを流出させるからいけない」ということで終わってしまうのが、これまでの常である。それでいいのだろうか?

 1966年秋、共同通信大津支局の記者だった私が、自衛隊適格者名簿の存在を報道したときもそうだった。16歳から25歳の自衛隊入隊の適齢者について自治体に名簿を作らせ、入隊の勧誘に使っていた。その事実が報道されると、国会で問題になり、民青、社青同などといった青年組織が「徴兵制復活につながる」と全国で抗議運動を展開した。
 しかし、それだけだった。37年後の2003年春、毎日新聞が同じ問題を「住民基本台帳から抜き出して提供を求めていた」として報道して問題になり、こちらは新聞協会賞を受けたが、自衛隊が適齢者名簿集めをやめた気配はない。
 少し醒めた目で見れば、結局、自衛隊は「情報活動制限法」でも出来ない限り、こうした活動を続けるだろうし、法律が出来たところで、いまの憲法無視、基本的人権などそっちのけの姿勢の中では、こっそり続けようとするだろう。軍事組織とはそういうものだ、という指摘もあろう。やっぱり、問題の所在は、自衛隊そのものにある。
 共産党が問題の資料を暴露した6日、私はいきなりテレビのインタビューを受け、かなり長時間話した。だが、番組の中で使われたのは、何秒くらいあっただろうか、「憲法21条の集会結社の自由に対する挑戦です」というほんの一言だけだった。この日はコムスン問題やらサミットやらのニュースが多く、全体の時間がそもそも短すぎた。実際に監視対象とされて名前が出てくる当事者の発言の紹介が優先されるのは当たり前で、そんな狭い枠に、とにかく一言突っ込んでくれた担当者には、感謝こそすれ、何の恨みもない。
 しかし、それを言い出すと、マンションから血を滴らせた荷物を3人組が運び出した、とかいうニュースは、庶民受けする絵になるニュースだとしても、いくらなんでも長すぎたのではなかったか。
 7日付の新聞の対応は、朝日、東京が1面から問題を展開した積極的な報道をしていたのに対し、読売、日経は第2社会面の2─3段、産経は総合面の2段で扱っただけだった。なぜ、こんなことになるのか。「共産党の発表だ」という偏見や、政府の主張に沿って「当たり前だ」と考える考え方の問題もあるだろうが、むしろこれは、現場の「問題意識」ないし「ニュースバリューの判断」の差ではなかったか。要するに、この問題を「けしからん」と思うか、思わないか、という「憲法感覚」の問題である。

 調布市で映画「日本の青空」の上映について、5月中旬、市と市教委に後援を求めたら、拒否された。理由は「製作者のあいさつ文に『改憲反対の世論を獲得する』とあった。政治的に中立とはいえない」というものだった。憲法99条は公務員の憲法擁護義務を決めており、それがベースで自治体も成り立っている。それなのに、「改憲反対は政治的だ」という論理を認めていいのだろうか。
 同じようなことは、他の町でも起きている。川崎市は、この4月、これまで23回にわたって毎年後援してきた市民主催の平和集会に対して、ことしは後援を拒否した。護憲を訴えているというのが理由で、昨年のアピールに「教育基本法改悪反対」「憲法改悪反対」があったからだそうだ。
 憲法を変える、というのはいまの態勢を変えようというのだから、政治的かもしれない。しかし、憲法を護り、その精神を進める、というのは「政治的中立を侵す」ことでは絶対ない。ここは、少なくとも「法」に携わるものだったら、譲るわけにはいかない、というのがものの道理というものではないか。
 時代がファシズムの方向へ進むとき、小さいかもしれないが、「けしからんこと」、「見逃してはいけないこと」が積み重なって、「既成事実」となり、世の中が大きく変わってしまうことは歴史が証明していることだ。
 「憲法改悪反対」「改憲反対」を「政治的」としてレッテルを貼り、その言葉を使えないようにしてしまう。一方で、かつては右翼の言葉だった「自主憲法制定」「自虐史観」などという言葉が平然と持ち出され、誰も問題にしなくなってしまう。「日独伊3国同盟」まで行かなくても、かつて「同盟関係」という言葉をめぐって外務大臣が辞任したがあることさえ忘れ、「日米同盟」を「かけがえのない同盟」などと表現して恥じない政治家、これを容認するメディア。そして、それがまるで当たり前のことであるかのように動く世論…。こんなことを許してはならないのではないか。

 考えてみたいことがある。自衛隊の監視で名前を挙げられた個人、団体は、明らかに精神的に損害を受けている。これをはっきり認めさせ、謝らせるための訴訟は出来ないか。「後援」を拒否された理由についても同じだ。また、ここらで、自衛隊の「情報活動」を規制するための法律も考える時期に来ているのではないか。そうしたことを運動にしていく時期が来ているのではないか。
 「弁護士さんは勝ち目がない訴訟をしたがらない」という反論がすぐ出てくるだろう。「自衛隊の活動を規定することは自衛隊を合法化することになる」という反論や「『情報活動』という言葉自身が曖昧だ」という反論も出るだろう。しかし、「憲法を護る」、「憲法で戦う」ということはそういうことではないか、とも思う。

 当たり前のことを当たり前に見て、「けしからん」という憲法感覚。それを取り戻し、ひとつひとつ、じっくり闘わなければいけない、と痛切に思う。それをどうやって、大きな力にしていって、日本をもっと明るい、自由な社会にしていくのか、考えなければいけない、と思う。
 そして、当然のことながら、その小さな動きをきちんと捉えることが出来るかどうかが、ジャーナリズムにとって最も必要なことだと思う。求められているのは「憲法感覚」であり「憲法に根ざしたニュース感覚」だと思う。
 船の行く手にある小さな暗礁を見つけて警鐘を鳴らさなければ、社会の水先案内人の役割は果たせない。

法を学ぶことは無意味なのですか

 できるだけ双方向の授業にしようと、私は大抵の授業で、あらかじめ紙を配って、質問、感想、意見などを自由に書かかせて回収し、次の授業でいくつかの紙を読み上げ、質問に答えたり、見解を述べたりしている。改憲国民投票法が成立したあと、「マスコミュニケーション論」の授業でこれを取り上げ、メディアのこの問題の扱い方とか姿勢とかについて話したところ、学生からこんな質問があった。
 「憲法が変えられるようですが、そうなると、これから3年間、僕たちが勉強しても無意味になってしまうのでしょうか。そんなことはしないでほしいと思います」−。

 一年生で、まじめな子なのだろう。「せっかく法学部に入って法律を勉強しようとしているのに、肝心の憲法が変わってしまうらしい。勉強したとたんに、教わったことが変わってしまい、役に立たなくなってしまうのでは大変だ。どうしよう…」という率直な不安だ。「そんな感じ方もあるんだ。なるほど」と思って妙に感心し、どう答えようか、と考えた。それは、この質問が、いまの法律家の在り方や法学教育の問題点について、きわめて核心をついたもののように思えたからだ。

 憲法や国民投票法案に限らず、戦後日本の在り方を決めてきた法律が、「規制緩和」とか「構造改革」とかいう掛け声のもとで、がらがらと変えられ、原則そのものまでが脅かされたり、壊されたりしてきている。
 きわめて政治的で、イデオロギー的なこうした動きについて、批判し、発言している法律家は少なくないし、法学部の教育も、単なる「法律」を教えるのではなく、市民法の成り立ちから、「法体系」を教え、「リーガルマインド」の育成に努めているのだ、と思う。
 しかし、その意図が学生たちに正しく受け取られているか、一般社会、世の中が、それをそのまま受け入れているか、というと、問題があるのではないか。この学生の質問は、まさにその疑問を率直に示しているのではないか。…そう思ったのだ。
 
 「確かに、新しいことを覚えなければならなくなるかもしれない。しかし、君たちが教わっている『法』とは、単に日本の六法全書に書いてあることを学んでいるということではないだろう? 人間が動物から人間になって、社会というものが生まれ、そこにルールができてくる。いろんなルールがあったが、近代の市民法は『力』による支配ではなく、自由な人間が自分で自分を支配する、という考え方で組み立てられてきた。その原理を理解していけば、君たちが日本国憲法を学ぶことは、決して無意味にはならない。政治は法律をいじろうとする。しかし、憲法もそうだけれど、おかしな法律ができたら、直していくのも法律を学ぶものの責任だ。そういう力を付けるためにも勉強してほしいし、考えてほしい。むしろ、法を学ぶ必要性が増した、とも言えるんじゃないか」…。
 うまく答えられたかどうかは自信がない。そんなふうに話した。その学生に答えるだけではなく、むしろこの問いを学生たちが共有し、持ち続けてほしいと思ったし、国会で行われ、メディアでも報じられている法律づくりのおかしさをも見つけだし、自分で考え、行動していってほしいと思ったからだ。

 ある若い先生が「くるくる変わる法律に追いついていくのが大変です」とこぼしたことがあった。「先生は研究者なんだから、法律が細かい部分で変わることなど考えすぎないで、きちんと体系を教えることに力を注いだ方がいいですよ」と激励したことがある。「それでは足りない」とか、「体系がめちゃめちゃになっている」という反論や批判は承知の上の話だ。
 もうひとつ付け加えれば、昔は法学部が一番多かった文系志願者は、いまは経済学部に移って行っているのだそうだ。社会に出て「つぶしがきく」のは、いまは法学部ではないとも言う。なぜなのか? 「理屈っぽいのは要らない」とか、「いま必要なのは問題処理能力で、考え過ぎは困るのだ」とも言われる。でも、われわれの社会は、本当にそれでいいのだろうか?
昨年の国会では、教育基本法がこれまた乱暴なやり方で変えられてしまった。そして、今国会では、新しい基本法の下での教育をするための「教育3法」が国会で審議され、これも「成立の見通し」なのだそうだ。「旧法」は、日本国憲法に根ざして書かれ、その精神が貫かれていたのだが、「新法」とそれに基づく関連法は、どうやらそれと違う考え方で書かれている。「九条と自衛隊」の関係とは少し違うにしても、「教育法」を憲法の体系に位置づけて説明するには、工夫が必要だろう。
 「法」を教えるとき、そのおかしさをも含めて教えるしかないとすれば、「法学」の課題はますます大きくなるし、「法学教育」の重要性は今まで以上に高まるはずだ。

 いま、「『憲法改正』をしなければ、…」という主張と、それに基づく「国民投票法」が決めたことは、自民党自身が言うとおり、「憲法改正」ではなく「新憲法制定」への動きである。「事実上のクーデターが進行している」といっても、そんなに間違いではない。 そしてそれが、日本国憲法下での国会を使って、こんな形で行われていることを、論理的に、矛盾なく説明するのは、実はそんなに簡単なことではないように思う。国民投票の審議で見るとおり、国の在り方を変えるためのものでありながら、「なぜ」「どうして」という基本的な質問には、やっている議員たちすら説明できていないのだ。
 いま、法律家は、実務家も研究者も、あるいは私のように法の周縁でものを考えている者まで含んで、その存在を問いかけられているのだと思う。そして、自分自身でその答えを見つけだす中で、いまの日本の「法」と「民主主義」が、これまでにない危機に立っていることが明らかになるのだとも思う。
 学生の質問はその端緒を与えてくれる。…「私たちが学んでいることは無意味になるのですか?」

「表現の自由」と建造物侵入

 9月を迎え、小泉政治が終わりに近づく中で、気になっていることがある。「市民的自由」の問題と「表現の自由」のことだ。
 この夏、小泉首相は8月15日の靖国参拝を強行し、その陰で、これを批判した加藤紘一氏の実家が放火され、全焼した。靖国神社は物々しい警戒の中で、その直前に書かれた朝日新聞の記事を問題にし、朝日の取材を拒否した。
 朝日への「通告」がどのようなものだったのかは、正確には分からないが、毎日新聞によれば、「朝日新聞社の記者とカメラマンの敷地立ち入りを禁止し、取材を拒否した」とのことで、朝日によれば、「本紙は、小泉首相が参拝する様子を本殿近くで撮影できず、一部の写真は通信社のものを使った」(15日夕刊)と紙面でも明らかにしている。事実、同日付夕刊の1面トップ「15日、参拝を終え、靖国神社の本殿を出る小泉首相」のカラー写真には「ロイター」のクレジットが入っていた。
 靖国神社のこの措置は、朝日が12日付朝刊で、神社の社報にも出ている周辺の地図を掲載し、その中に職員寮を記載していたのを理由に行われたのだという。「プライバシー侵害に当たり、職員の身辺保護上問題があった」という全くの言いがかりだが、朝日はこれに抗議しつつも、強行突破はせず、立ち入りをしなかった。
 
 「国民の知る権利」を根拠に、首相の参拝を取材するメディアに対して、当事者の靖国神社が取材を拒み、境内立ち入りを禁止するなどということは、行き過ぎであり、けしからんことだ、と多くの人が考えるだろう。しかし私は、そのことに加えて、いまメディアがこうした申し入れを受けて、どんな事情か、それに逆らわなかったことの重大性を考えなければならないと思う。当日境内は、人の波で埋まり警備の警察官が多数配置されていた。朝日の記者が、例え「取材」の腕章をしていたとしても、「建造物侵入」で逮捕されなかった、という保障はない。朝日はそのことを考えたのではないだろうか?
 
 8月28日、東京地裁は、2004年12月の葛飾のマンションで共産党の「都議会報告」などを配布した僧侶・荒川庸生さんが「住居侵入罪」で逮捕、起訴された事件について、無罪の判決を言い渡した。当たり前の判断だ。公共的な空間であるマンションの階段や廊下部分に入ったことで、ビラ配りの場合はビラの中身を問題にして、場合によっては住居侵入が成立する、という判断がそもそもおかしい、と考えるのが健全な憲法解釈の立場だと思う。
 しかし、判決はそうではなかった。まず、「マンション共用部分は、居室と程度の差こそあれ、私的領域としての性質を備えていることは否定できず『住居』に当たると解するのが相当」とした上で、「いかなる者の出入りを許すかは各マンションで自由に決められる。それが明示されていれば、警告に従わずに立ち入れば住居侵入罪が成立する」とした。 そして判決は、次のように言って無罪にしたのである。
 「今回のマンション管理組合理事会は、部外者が共有部分に立ち入ることを禁じ、玄関ホール内の掲示板には同趣旨のはり紙が張られている。しかし『チラシ・パンフレット等広告の投かんは固く禁じます』というもので、商業ビラの投かん禁止のように読み取れ、政治ビラを含め一切のビラを禁じる趣旨が明らかではなく、掲示位置もホールを通過する場合には目に入らない。政治ビラ配布を含め立ち入りを禁じた意思が伝わる表示がされていたとは言えず、住居侵入罪を構成する違法行為とは認められない」。

 「表現の自由」とは、誰もいない山の上や海岸で「君が好きだ!」と大きな声で叫ぶという話ではなく、人々に一定の意思を伝えることなどすべてが含まれるはずだ。しかし、この判決の論理がまかり通るとすれば、全国の全てのマンションや団地、アパートで、「関係者以外の立ち入りお断り」という張り紙が出されたら、そこに対するビラ配布は不可能になってしまう。取材のための訪問も、その例外ではないだろう。
 住居へのビラ入れで逮捕された事件が相次ぎ、それが大きな問題になりつつある中で、昨年来、大学でも学生が「構内立ち入り」で逮捕される事件が起きている。昨年12月20日、早大・戸山キャンパスでビラを配っていた学生が逮捕された事件が起きているし、法政大でも3月14日(火)、「立て看板禁止・ビラまき禁止」の決定に抗議しようと集まった学生29人を「建造物侵入」などで逮捕されている。
 
 朝日への「境内立ち入り禁止」はその後どうなったのだろうか? 「立ち入り禁止」の張り紙の効力を、こんな風に絶対的なものにしてしまっていいのか? 「市民的自由」と「取材の自由」は無関係なものなのかどうか? 解明すべき課題は多いように思う。

米軍による「敵基地攻撃」ならいいのか 「伊達判決」の現代的意味

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイル実験に関連した額賀防衛庁長官をはじめとする「敵基地攻撃論」は、中国、韓国が反発し、自民党内からも山崎拓元幹事長が「明らかな憲法違反」と述べるなど、とりあえず「火」が消えた。
 しかし、新聞各紙は、「読売」が「脅威を直視した論議が必要だ」と題して「『権利はあるが能力は未整備』のままでいいのか。安全保障環境の変化に対応した議論を深めるべきだ」と論じ、議論を肯定しただけでなく、「朝日」が「日本が攻められた時は、自衛隊がもっぱら本土防衛の役割に徹し、敵基地などをたたくのは米軍に委ねる。これが安全保障の基本」とするなど、むしろ米軍との役割分担論が広がり、問題は深まっている。

 鳩山一郎首相当時の1956年、政府は「他に手段がないと認められる限り、誘導弾などの基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能である」と答弁、政府はこの解釈を続けてきた。今回の発言は、この解釈に乗って、自衛隊の態勢強化論として出ているため、反発されたわけだが、このメディアの論理に乗って、米軍との役割が分担された場合を考えると、恐ろしくなるのではないだろうか。
 つまり「いままさにミサイルが発射されようとしているとき」に、米軍が日本の基地から、そのミサイル基地を叩くことをどう考えるか、ということである。これは憲法違反でもなく、安保条約上、当然のことか、あるいは仕方がないことなのかどうか。
 
 1959年の砂川訴訟で、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、「日本国憲法第9条及び前文の平和主義は自衛のための戦力保持も禁止している。在日アメリカ軍は指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず戦力にあたり、また日米安全保障条約(旧安保条約)の極東条項『極東における平和と安全の維持に寄与するため』は違憲である」と判決した。
 しかし、1959年の最高裁判決は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国軍隊は戦力にあたらない」として、「在日米軍も日本国憲法に縛られている」と考える「伊達判決」を覆した。

 メディアが言わなければならないのは、「安保日米分担論」に立って、「敵基地攻撃論」を批判することではない。「戦争を始めてはいけない」ということである。米軍がやっても、日本の基地が使われる限り、日米による敵基地攻撃=日本の戦争開始である。
 「伊達判決」は、この意味でも、重要なポイントをついている。
 「敵の基地を叩く」というのは、相手側がどんなに準備をしていたとしても、「戦争を始める」ということだ。そしてそれは、在日米軍であっても、日本としては認めてはならない。「自衛隊の準備」の話ではない。

あいりちゃんの父親の訴えと性犯罪報道

 広島でペルー人に性的凌辱を受けたあげく殺された小学1年生、木下あいりちゃん(7つ)の父親、建一さん(39)が、「娘は2度殺された。性的被害の事実をもっと報道してほしい」と訴えたことは、メディアにとって、ある種の衝撃だったと思う。
 実は性犯罪に限らない。「こんなひどいことをわざわざ知らせる必要があるのでしょうか」といった被害者の声が高まる一方で、「事実」をどう報じたらいいか、悩んできたのが、戦後の事件報道の歴史だったからである。

 「婦女暴行の被害者は匿名。婦女暴行殺人の場合は、殺人にポイントを置いて書く」−新人記者が事件報道のために警察取材を始めるとき、先輩は必ずこう教え、実際そう教育されて、婦女暴行についてはさりげなく報道するのが常だった。「かわいそうだろう? それに読む方も決して喜ばない。殺されたことの方が大切だし…」というのが、先輩たちの説明。記者たちも必要以上に悩むことなく記事を書いた。
 だから、連続婦女暴行犯として、戦後まもなくの小平義男、昭和40年代の大久保清の名前は知っていても、その被害者の名は、多分殺されていれば一度は書かれているだろうが、幸いに助かった女性は忘れられ、歴史の中に埋もれてしまっている。

 あいりちゃんの父親の訴えは、こうした風潮に明らかに一石を投げたものだった。

 新聞はずっと長く、「強姦」を「婦女暴行」「暴行」「乱暴」などと言い換えてきた。「姦」の字がずっと当用漢字(いまの常用漢字)になく、「強かん」などと書かなければならなかったこともあったが、これも同じ理由からだった。しかし、ジェンダーについての意識が高まる中で、こうした表現が問題になってきた。
 「『暴行』『乱暴』では、何をされたか分からない。髪を引っ張って振り回すのも暴行、乱暴だ」というような話があり、本当にただ殴られただけの被害者が、強姦されたかのように受け取られてしまう問題も、出てきたからだ。
 1988年から90年ごろ、福岡の確か「九州地区マスコミ倫理懇談会」で、女性学の若い先生の「強姦事件は『婦女暴行』なんていい加減な言葉ではなく、『強姦』と書くべきだ。また、スケートの橋本聖子選手のことを『聖子、また勝った』みたいな見だしを書くのも女性蔑視だ。『橋本選手』と書くべきだ」という話を聞き、「しかし、『強姦』の復活は難しそうですね…」と、新聞協会の仲間と話したことを思い出す。
 しかし、東京に帰って整理部長席に座ると、さすがに「強姦」は出てこなかったが、「レイプ」という言葉を女性記者が使い始めていた。「英語ならよくて日本語はダメだって、変ですねえ…」と彼女は言い、私も「基準とは違うね。でも、やってみよう」とその原稿を通した。新聞に「レイプ」という言葉が載った。
 やがて、朝日が沖縄の米兵による少女暴行事件を機に性犯罪についての連載などで積極的に「強姦」という言葉を使って記事を書いた。
 
 「被害者の人権」という論議が盛んだ。しかし、メディアに関して気になるのは、ともすれば被害者感情におもねり、それを大きく報道することで、ただ加害者を攻撃し、重罰化を推進しているだけになっていないか、と思うからだ。「人権」とはそんなものではないのではないか。
 
 もう一つ付け加えたい。原爆被爆者の何人かは、自らの体に刻まれたケロイドを、国際会議の場でも見せてその悲惨さを訴えている。関東大震災の被害者もそうだし、ベトナムの人たちも、国道を裸で逃げる姿を写真に写された女性も自ら名乗り出て、その悲惨さを訴えている。しかしどうか。私たちはひどい写真に顔を背け、見てみない振りをして、その被害に本当に向かい合っていなかったことがあるのではないだろうか。
 誰かが言っていた言葉を思い出す。「被害者の彼女は、自ら人間としての尊厳をかけて、身をもって訴えている。むごたらしいから、といって、それをテレビも新聞も報じないのは、彼女に対する侮辱ではないですか!」
 
記者の仕事に「要旨切り」という仕事がある。裁判所から渡される「判決理由」を短く切って、「判決理由要旨」をつくる。今回の事件で、毎日新聞が載せた要旨(7月5日)は、性的被害についてもかなり書き込んで具体的だった。その事実が報じられることが、興味本位に受け取られず、本当に性犯罪被害をなくしていくように、社会が動かしていけるかどうか。

 あいりちゃんの人権、「人間としての尊厳」は、そこで初めて、本当に護られたことになるだろう。しかし、お父さんのお陰で、あいりちゃんは、ただの「被害者の幼女」ではなく、あの愛らしい写真と共に、事件報道の世界で、名前と記憶に残るだろう。