最 終 弁 論 要 旨
2006(平成18)年5月24日
原告ら訴訟代理人
弁護士 鈴 木 経 夫
弁論を終えるに当たって
1 中国「残留孤児」の経験を共感をもって受け止めるのは難しい。
我々代理人は、多くの残留邦人と会い事情を聞いてきた。未判明孤児の原告番号18番・NHについても、2人の代理人で3回にわたり、各回長時間をかけて事情を聞いた。ところができあがった「聴取書」を日本語のできる娘が読んで、「中国での私たち家族のあの苦労や、なんとしても日本へ帰るとの母の強い決意は伝わってこない。」と批判された。特に僻地にあった農村に下放されて、中国の大飢饉のなかを生き延びたときのこと、毎日の体力ぎりぎりの労働、小学校にも行けずに食べるために働いたこと、村での日本人に対する虐め、そこでの母の頑張り、苦労等に関してであった。そのような記述と現実とのギャップは、やはり言葉の壁が大きな原因であり、さらに中国で充分な教育を受けていない孤児たち自身の表現力の問題も関係していると思われる。しかし最大の問題は、逃避行を初めとして、中国で孤児たちが体験した凄惨ともいうべき実情が、現代日本の社会からはあまりにもかけ離れていて、その場面やそのときの孤児の立場に、私たちが共感を抱くことが困難だということにある。恐らくその点においては裁判官におかれても、我々と同じ立場であろうと思われる。是非そうした見地から、孤児たちの主張・陳述を今一度検討していただきたい。
2 早期帰国実現及び自立支援について被告は法的義務を否定してきた。
被告は、政策の立案過程でも、本件訴訟でも、一貫して孤児の早期帰国の実現、自立支援について、法的義務を否定している。被告がそれに関して策定し、実行してきたいろいろの施策は、法的義務否定に対応して、手薄で、実効性に欠け、また、時期遅れのものであった。再論は避けるが、早期帰国の関係で国交回復後だけを見てみても、肉親探しの開始は遅く、その対象人数は限られた。
未判明孤児が帰国できるようになったのは1985年からであり、さらに制度自体に問題のあった親族の身元保証人、親族からの旅費の請求、その弊害を是正するための特別身元保証人制度ができたのは、実に1989年である。しかもその実効性にも問題があった。自立支援についても、日本語の習得、職の斡旋、日本の社会との交流をはじめ、被告の各施策は、それ自体に問題があるうえ、さらにそもそも実効性に欠けていた。
ずっと遅れて、1994年「残留婦人のいわゆる強行帰国」を契機に議員立法で成立した「自立支援法」について、やっと制定されたこの法律についても、厚労省は立法そのものに反対し、また、法施行後も、「この法律は、これまでの施策を法文化したものにすぎない」と公言してきた。当然のこととはいえ、その後施策の根本的な見直しはされず、同法施行後12年が経過し、現在に至っているのである。被告の支援策も、経済的な自立だけから見ても。失敗は明かある。
被告には、国自体が主体となって残留邦人を帰国させるという政策はなく、それを個人の責任としてきた。しかし、私人間で重大な基本的人権の侵害があり、それに国が規制権限を行使するような場合とは異なり、本件は国自体が重大な人権侵害状況を作り出したのである。被告が、そこから孤児を救済するための法的義務を負担していることは明らかで、かつ、その義務を実現するための時期、方法等について被告が有する裁量の幅は極めて狭いと解すべきである。
早期帰国実現及び自立支援に関し、被告国の法的義務の有無につき、裁判所に対し的確な判断を求めたい。
3 この裁判で何が問われているか。
再び旧満州のあの場面に戻りたい。敗戦の年とその翌年の越冬期に孤児となって流浪し、あるいは中国人に引き取られた孤児は、いったいどれだけいたであろうか。原告番号39番のHTもその一人である。彼は3人の養父から3回追い出され、その度にただ一人で路上生活をし、最後に病気で、恐らく栄養失調であろうが、路上に倒れたが、助けられ、辛うじて生き延びることができた。東北3省だけで同じ運命に陥った10歳程度の孤児がどれだけいたろうか。原告Hは生きることができた。しかし、死んだ孤児も多かったであろう。実際は生き残った方が少ないのかもしれない。
中国の地で死んだ人の遺骨採集の旅はいまでも継続されている。骨となっても、骨だけでも祖国の土に埋葬され、祖国の土で眠りたいと思っているだろうと感じ、遺骨を採集するのである。骨となってもそうなのだ。ならば、生きて肉も血も心もある生身の孤児が祖国に帰りたいと希求する。これに最大限の誠意で応える。あまりに当然のことではないであろうか。
これに、このことに、国家は誠実に応えたか。これが本件の争点である。この人格の最も根元的な場所から希求される権利に応える国家の義務は、その当時の国家の対応し得た客観的な方法の中で、最も高度で誠実な水準を満たしていなければならない。本件で、被告に問われている義務は、国家にとっても、国民に対する最も基礎的な、最も根元的な義務の履行だからである。裁判所におかれても、本件は、自国民に対する国家の誠実義務が問われるているのだという深い認識を持っていただきたい。
4 被告の準備書面について
被告の最終準備書面は、基本的にはこれまでの繰り返しで、新しい視点があるわけではなく、特に付け加えるまでもなく、これまでの原告の主張で充分に対応していると考える。
ただ、原告の個人準備書面に対する反論、初めての事実主張についての認否、反論ともいえるが、これは充分にこちらの主張、立証を検討してのことであろうか。若干具体的に反論したい。たとえば、原告番号18番のNについてで ある。原告Nは、遅くとも1976年頃から北京大使館に帰国したいとの手紙を何回も書いている。当初の3年ほどは何も返事はなく、結局帰国まで約1 0年ほどかかっている。それも、帰れたのは国の帰国手続に乗ったのではなく、奇跡的に献身的なボランテイアに出会えたからである。しかも自費による帰国である。そのまま国の手続に乗っていれば一体何時帰れたのであろうか。原告Nについての早期帰国実現義務違反は、むしろ明らかと言うべきである。
次に原告番号21番の原告STについてである。被告は死亡宣告後も調 査を続けていた旨主張する。しかし、原告Sに対してはその片鱗も認められない。もし被告が荒川村に調査を依頼したとすれば、同村は機敏に対応したであろう。なにしろ、国交回復後であるが、村自体で捜索隊を出したほどである。そもそも、究明カードを精査しても、死亡宣告された各原告について見ても、国が死亡宣告後に何らかの調査等をした形跡はまったく見あたらない。被告の主張は失当である。なお、多くの原告についても、「生活保護を受給しているから自立支援義務違反はない」との趣旨の記載がある。厚労省は、生活保護からの「脱却」称して「自立」と言ってきた。生活保護でしか生活できない状況に追い込んで、自立支援義務に反してないとするのは、何とも理解に苦しむのである。
5 終わりに
ところで、被告の早期帰国実現に大きな懈怠があることは、各原告の帰国時期からも認めることができる。もう10年早く帰国できていたら、原告らの自立の条件は異なっていたであろう。そしてまた、被告の自立支援策が失敗であったことは、実際に孤児の日常生活を見ると明らかである。自立できず、生活困窮者となって生活保護を受給し、さらに、周囲から疎外され、孤立し、「これでも日本人なのか」と自問するのが、孤児たちの毎日である。
外に目を転じても、今回の大戦終了後60年を経過して、戦争の末期に外地に取り残された自国民の問題を解決できていない国はないであろう。事例は異なるが、アメリカが、日系人の強制隔離に関して、その過ちを認めて謝罪し、損害について補償をしたことは記憶に新しい。恐らくこれで日系人も、アメリカが祖国であり、自分もアメリカ人であるとの実感を抱いたと思われる。原告らは被告に対し、中国に長く放置し、早期帰国を実現せず、かつ自立支援も怠ったことにつき、謝罪と補償に代るものとして、損害賠償を求めたのである。
本準備書面によって、原告は、被告の法的責任、原告に対する被告の権利侵 害、共通損害の発生等、判決に必要な論点について明確にしたと考える。提出 した各証拠で、立証も尽くしたと思料する。
中国「残留孤児」たちが、自分たちは見捨てられているのではない、やはり 日本へ帰ってきて良かった、我々は日本人である、日本は祖国であると胸を張っていえるような明快な判決を求めたい。