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家裁からの通信

(井上博道)
第0013回 (2004/05/03)
憲法の日に思う

5月3日は憲法記念日です。現在の憲法と家庭裁判所制度には、深いつながりがあると思います。今日は憲法記念日なので、少しこのことを考えてみたいと思います。
 家庭裁判所という制度は、むろん敗戦後に生まれた新しい制度です。従って、戦前からあった地方裁判所や戦前の制度を衣替えした高裁、最高裁が戦前の伝統を否応なく残しているのに対して、家庭裁判所は発足当時には戦前の影がほとんどありませんでした。
 また、家庭裁判所を支える代表的な法律である少年法、家事審判法や民法の親族・相続法も敗戦後に生まれたものか、あるいは戦前からの流れとは隔絶した内容になっていますつまり、家庭裁判所制度そのものが、日本国憲法の理念を基礎として、日本国憲法の理念を実現させるための具体的な制度であったと思うのです。
 司法制度改革では、司法への市民参加の手本が家庭裁判所にあるといった議論がなされました。市民参加は民主主義の基礎であることはいうまでもありません。
 家庭裁判所は、戦前の根深い官僚主義の気風がのこる時代にあっても、市民参加を積極的に制度の中に入れて魂を入れようとしたといえます。

 もちろん、その後、家庭裁判所が他の裁判所の伝統の中に組み入れられるという反作用はあったものの、家庭裁判所で生きるものの伝統の中には「どっこい生きている」といったところでしょうか。

 新しい事をするのは、明るく楽しいことです。日本国憲法制定後の「憲法の話」の何と明るく、希望に満ちていることか。わかりずらいことは何もないのです。
 普通の人間が普通にわかり、納得も得心もいく、それでいて未来の希望をきっちり指し示している。最近は将来の不安が云々されますが、この時代は貧しくはあったが、明るい未来を確信できた時代ではなかったでしょうか。

 その頃、家庭裁判所はビルに間借りして開設されたところもあったとか。あるいは、多分当時の日本では珍しかったと思うのですが、ポスターをつくったり、地域で家庭裁判所の意義を講演したり、何もない創業期の明るさがあったといいます。
 この明るさこそ、日本国憲法の明るさと同じものではなかったか。そんな気がします。

 しかし、今年の憲法記念日のなんと陰鬱なこと。憲法を守り、大事にする日ではなく、改憲一色ですよね。改憲論議については多くの意見はあるとおもいますが、もう一度憲法を読み直すといった活動に光が当たらないのは、やっぱり寂しく悲しいことだと思います。

 家庭裁判所は民主主義の下で生まれた裁判所であり、民主主義のないところでは窒息してしまいます。そしてその民主主義こそ、日本国憲法のもとでの民主主義であったことを再度思うとき、段々と一般の人々から縁遠くなり、どこか遠くで議論されている改憲論議が生み出すものを、黙って見ているわけにはいかないと思えるのですが。
 みなさんはどうお考えですか。

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