No.3の記事

あいりちゃんの父親の訴えと性犯罪報道

 広島でペルー人に性的凌辱を受けたあげく殺された小学1年生、木下あいりちゃん(7つ)の父親、建一さん(39)が、「娘は2度殺された。性的被害の事実をもっと報道してほしい」と訴えたことは、メディアにとって、ある種の衝撃だったと思う。
 実は性犯罪に限らない。「こんなひどいことをわざわざ知らせる必要があるのでしょうか」といった被害者の声が高まる一方で、「事実」をどう報じたらいいか、悩んできたのが、戦後の事件報道の歴史だったからである。

 「婦女暴行の被害者は匿名。婦女暴行殺人の場合は、殺人にポイントを置いて書く」−新人記者が事件報道のために警察取材を始めるとき、先輩は必ずこう教え、実際そう教育されて、婦女暴行についてはさりげなく報道するのが常だった。「かわいそうだろう? それに読む方も決して喜ばない。殺されたことの方が大切だし…」というのが、先輩たちの説明。記者たちも必要以上に悩むことなく記事を書いた。
 だから、連続婦女暴行犯として、戦後まもなくの小平義男、昭和40年代の大久保清の名前は知っていても、その被害者の名は、多分殺されていれば一度は書かれているだろうが、幸いに助かった女性は忘れられ、歴史の中に埋もれてしまっている。

 あいりちゃんの父親の訴えは、こうした風潮に明らかに一石を投げたものだった。

 新聞はずっと長く、「強姦」を「婦女暴行」「暴行」「乱暴」などと言い換えてきた。「姦」の字がずっと当用漢字(いまの常用漢字)になく、「強かん」などと書かなければならなかったこともあったが、これも同じ理由からだった。しかし、ジェンダーについての意識が高まる中で、こうした表現が問題になってきた。
 「『暴行』『乱暴』では、何をされたか分からない。髪を引っ張って振り回すのも暴行、乱暴だ」というような話があり、本当にただ殴られただけの被害者が、強姦されたかのように受け取られてしまう問題も、出てきたからだ。
 1988年から90年ごろ、福岡の確か「九州地区マスコミ倫理懇談会」で、女性学の若い先生の「強姦事件は『婦女暴行』なんていい加減な言葉ではなく、『強姦』と書くべきだ。また、スケートの橋本聖子選手のことを『聖子、また勝った』みたいな見だしを書くのも女性蔑視だ。『橋本選手』と書くべきだ」という話を聞き、「しかし、『強姦』の復活は難しそうですね…」と、新聞協会の仲間と話したことを思い出す。
 しかし、東京に帰って整理部長席に座ると、さすがに「強姦」は出てこなかったが、「レイプ」という言葉を女性記者が使い始めていた。「英語ならよくて日本語はダメだって、変ですねえ…」と彼女は言い、私も「基準とは違うね。でも、やってみよう」とその原稿を通した。新聞に「レイプ」という言葉が載った。
 やがて、朝日が沖縄の米兵による少女暴行事件を機に性犯罪についての連載などで積極的に「強姦」という言葉を使って記事を書いた。
 
 「被害者の人権」という論議が盛んだ。しかし、メディアに関して気になるのは、ともすれば被害者感情におもねり、それを大きく報道することで、ただ加害者を攻撃し、重罰化を推進しているだけになっていないか、と思うからだ。「人権」とはそんなものではないのではないか。
 
 もう一つ付け加えたい。原爆被爆者の何人かは、自らの体に刻まれたケロイドを、国際会議の場でも見せてその悲惨さを訴えている。関東大震災の被害者もそうだし、ベトナムの人たちも、国道を裸で逃げる姿を写真に写された女性も自ら名乗り出て、その悲惨さを訴えている。しかしどうか。私たちはひどい写真に顔を背け、見てみない振りをして、その被害に本当に向かい合っていなかったことがあるのではないだろうか。
 誰かが言っていた言葉を思い出す。「被害者の彼女は、自ら人間としての尊厳をかけて、身をもって訴えている。むごたらしいから、といって、それをテレビも新聞も報じないのは、彼女に対する侮辱ではないですか!」
 
記者の仕事に「要旨切り」という仕事がある。裁判所から渡される「判決理由」を短く切って、「判決理由要旨」をつくる。今回の事件で、毎日新聞が載せた要旨(7月5日)は、性的被害についてもかなり書き込んで具体的だった。その事実が報じられることが、興味本位に受け取られず、本当に性犯罪被害をなくしていくように、社会が動かしていけるかどうか。

 あいりちゃんの人権、「人間としての尊厳」は、そこで初めて、本当に護られたことになるだろう。しかし、お父さんのお陰で、あいりちゃんは、ただの「被害者の幼女」ではなく、あの愛らしい写真と共に、事件報道の世界で、名前と記憶に残るだろう。