プロフィール

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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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2005年11月

日本の民主主義についてB

 しゃべり出すと、どうにも止まらない。以前なんかそういう歌詞の流行歌があったな。悪い癖だと承知しているが、これもDNAのなせる仕業だろう。
 さて前回、明治期の「近代化」が短期間のあいだに早急になされたことを述べたが、そのため「近代化」は、かなり歪んだものになった。当時の為政者は、西欧が中世以降に生み出した精神的価値を継承するよりも、欧米列強の帝国主義に多くを学んでしまった。なにしろ自由・平等・博愛を唱えている国々が先を競って植民地争奪戦に乗り出したのだから、瞬間風速しか感じ取れなかった明治政府にとっては、まことに不幸な西欧との出会いであったと言うほかはない。
 しかしそのことが後世に大きな禍をもたらしたことは、周知の通りである。
 夏目漱石は、小説『それから』の中で、主人公の代助にこう言わせている。
 「日本ほど借金を拵(こしら)えて、貧乏震(びんぼうぶる)いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。・・・日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以(もっ)て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向かって、奥行(おくゆき)を削って、一等国だけの間口(まぐち)を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃(そろ)って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日(こんにち)の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない。考えられないほどに疲労しているんだから仕方がない。」(岩波文庫91―92ページ)
 ここで言う借金は外債のことを指しているが、これを国債と読み替えれば驚くほど今の日本の情況と似ている。現在、精神を病んでいる人はきわめて多いし、とくに教師の場合に多い、しかも精神をわずらうのならまだしも自殺する者が毎年3万人を超えている。過労死や過労自殺まで起きている。精神の余裕も失われている。「自分の事、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えてやしない」も、現在のわが国の世相と実によく似ている。
それはそれとして、明治期の「近代化」は、「奥行を削って」無理をして「一等国の間口」を張ったものであった。
 漱石はまた、有名な和歌山での「現代日本の開化」と題する講演で「西洋の開化は内発的」だが、「日本の開化は外発的」だと言っている(三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫26ページ)。日本の近代化は、西欧に迫られての、いわば外圧による「近代化」であり、上からの「近代化」であつたところに大きな問題があった。
 ところが同じようなことが、敗戦後の民主化にもあった。これが今日まで日本の民主主義が未成熟なままであることの根本の原因である。
 以下に具体的にみてみよう。
 1945年8月15日の敗戦は、日本国民に大きな衝撃を与えた。そうして憲法を初めとして法制は民主的なものになった。しかし日本の当時の為政者や多くの国民の意識が大変革をとげたかというと、そうではなかった。国民、とくに為政者の意識は、敗戦前のそれから殆んど変わらなかった。為政者は、あくまでも国体の護持に拘りつづけていた。ここにいう国体とは、「万世一系の天皇が統治する国」の意である。ポツダム宣言受諾が三週間も遅れたのも、そのためである。この三週間の遅れは、日本国民に対する犯罪的な遅れであった。この間に広島・長崎の原爆投下があったし、多くの都市が焼夷弾攻撃で丸焼けとなり、死んだ者、肉親と家と家財一切を失った者は、おびただしい数にのぼった。原爆の被害が、いまなおつづいていることは周知のとおり。またこの間にソ連が参戦し、多くの残留孤児を生み、朝鮮半島は南北に分断された。その負の遺産は、現在も残されている。核問題、拉致問題をみただけでもそのことは歴然としている(北を含めて朝鮮の人々に対する過去の清算も未解決のまま)。
 ここではまず新憲法について述べてみたい。当時の支配層は、ポツダム宣言は、国体護持を前提としたものであったと認識していた。だからGHQから憲法の改正を迫られた当時の政府は、明治憲法に本質的な修正を加えない案(とりわけそれまでの天皇制を護持する案)を策定し、GHQに提出している。これは余りにも時代錯誤的であり、当時の国際情勢を知らなさすぎる案であったから、当然のこととしてGHQは、それに対抗する案を日本政府に突きつけた。それをみて政府関係者は驚愕している。天皇とその側近も同じである。しかし国民は、この新憲法を歓迎している。旧態に固執する支配層は、だから押しつけられたと感じたが、国民の多くは押しつけとは考えていなかったのである。当時、天皇制廃止を内容とする憲法案が共産党などから出されていたが、それが実現されることはなかった。当時の国民意識からすれば、「象徴天皇制」すなわち天皇から主権を奪うことさえ想像を絶することだった。先覚的な知識人でさえ、そうであった。
 「南原繁総長の発意で当時の東京帝国大学のなかに設けられた「憲法研究委員会」(1946年2月24日発足)のことを伝えた我妻栄(当時、委員のひとり)は、(四六年。筆者注)三月六日に「内閣草案要綱」(松本私案に対してGHQが示したマッカーサー草案に基本的に従ったもの。筆者注)が発表されたときの「多くの委員の驚きと喜び」を語っている。ここまでの改正が企てられようとは、実のところ、多くの委員は夢にも思わなかった」というのである。なお、我妻は、「・・・しかもなお、これを『押しつけられた不本意なもの』と考えた者は一人もいなかった」とつけ加えている」。
 内閣法制局参事官として帝国議会での政府答弁案の準備にあたった佐藤功は、当時をふりかえって、「日本国憲法の原案―マッカーサー案―を初めて見たときの鮮烈な感動、声を上げて叫びたいほどの解放感」をこう語っている。「『国民主権』とか、『基本的人権』とか、『法の支配』とかいうことは、私はもちろん書物では知っていましたけれども・・・
そういう言葉が他ならぬ日本の憲法に書きこまれるようになろうということは、不覚にも、私は思ってもおりませんでした。それが、それらの文字がこの憲法にちりばめられているのを目にしたときに感じた強烈な印象、感動というものを私はいまでも忘れることはできないのであります」(以上、樋口陽一「立憲主義の日本的展開」、最初に挙げた中村政則外編『戦後民主主義』所収、226―7ページ)。
 これが敗戦直後の日本の実情だったのである。
 以上につづけて、樋口さんは、こう問いかけている。
 「帝国憲法下で光栄ある前進と受難を経験した立憲主義憲法学のなかから、なぜ、一九四五年八月以降のいわば千載一遇の機会に、新しい日本の基本法をみずからの手でデザインすることができなかったのか」(同書227ページ。この問いかけは、私自身が長い間問いかけてきた疑問でもある)。この問いに、樋口さんは、それにつづいて答えを提示しているのだが、私なりに記してみると以下のごとくである。
 すなわち1945年8月15日の終戦直後まで、日本人は、天皇を神とあがめ、鬼畜米英に対する戦いで天皇に命を捧げるようにマインド・コントロールされていたのが、一夜にして自由と民主主義の世界に投げ込まれたのである。だから敗戦後も「自由だ」「民主主義だ」と言われても、ごく一部の先覚者を除けば、国民の大多数は西も東も分からない状態だったと言ってよい(呆然自失とか虚脱状態とも言われている)。憲法による自由と民主主義の保障は、またしても上(絶対的権力であった占領軍)から与えられたものであった。それを担うべき主体が不在であったのである。国民は暗い戦前・戦中を思い解放感を味わったことは事実だが、自由と民主主義をこの国に根づかせ発展させるだけの国民的力量がなかった。
 それがもっとも端的に表れたのが国民の天皇観である。天皇が法制上(憲法上)神から人へ、主権者から象徴へと変化してみても、国民の情緒は天皇崇拝・天皇敬愛に変わりがなかった。戦後の天皇の全国各地への「巡幸は、廃棄された天皇神社の痕跡をいっさい除去し、日本国民を彼らの臣民意識から解放するのではなく。それとは逆に、かつての偶像崇拝を復活させつつあるとの懸念があった」(ハーバート・P・ビックス「「象徴君主制」への衣替え」中村外編・前掲208ページ)。ビックスは、天皇巡航のさいの国民の反応を次のように書いている。
 「彼らは、天皇が近づいてくるのを見ると万歳を叫び、感激のあまり涙するのであった。彼らの顔の筋肉は緊張し、五体は強い電流に打たれたかのように震えた。」
 それをビックスは「従来のままの臣民意識の表われ」と評し、「ヒロヒトと天皇制を救った大いなる取引(GHQと天皇及びその側近との間の天皇制温存についての取引を指す。筆者注)は、アジア太平洋戦争の侵略的本質についての理解を妨げただけでなく、日本における真に民主的で、より責任ある政治の発展をも妨げた」と結論づけている(前掲書209ページ、218ページ。ビックスは、これらのことを『昭和天皇』上、下巻、講談社刊のなかで詳細に跡づけている)。国民の意識は戦前との「けじめ」がつけらないままに推移したのである。歴史の連続と不連続ということが言われるが、ここにも法制の戦前からの断絶と国民意識の戦前との連続を見ることができる。
そして不幸なことに、戦後間もなくにして東西冷戦の時代を迎え、朝鮮半島ではそれが実際に火を吹いた。占領政策は転換され、「逆コース」の時代となった(東西冷戦とそれに基因する占領政策の転換は、早くも敗戦後2年半たらずで起きている。具体的には1948年1月のロイヤル米陸軍長官の「日本は極東における共産主義の防壁」という演説に始まる)。
それに加えて50年代、60年代になると、高度経済成長の時代を迎えた。人々は、日本経済が成長すれば、そして何よりも自分が勤めている会社の業績があがれば、当然のように自分の収入が増え、生活が向上するという確信をもつことができた。敗戦後のどん底から這いあがった人々にしてみれば、自分の収入と生活の向上に夢中になるのは、ある意味では当然の成り行きであったが、自由や民主主義は頭から抜け去ってしまった。
80年代にはJapan as number one と賞賛されるまでになった。こうなると日本人の悲しい性(さが)で有頂天になり、もはや世界から学ぶことは何もないと考えるようになった。私のごく周辺でも、こうしたことを平然と口にする人が多かった。明治の初年以来、欧米に追いつけ追い越せで汗水たらして不平も言わず不満も言わずに頑張りとおしてきた日本人は、やっとキャッチアップの時代は終わったと思ったのである。ここでも自由と民主主義は、人々の頭から抜け落ちていた。しかし表面的な「繁栄」は一気にバブルへと駆け上り90年代に入ってバブルが崩壊した。その後には失われた10年という長期低迷に陥る。低迷は、実際には10年を超えてつづいた。その間、国民は目標を見失い新しい確かな生き方を見出し得ないままに漂流した。
 こうして今日に至ったのである。
しかし私が以上に述べたことに対し、占領軍が民主化を先取りし、日本国民自らの手による下からの民主化を妨げたとか、冷戦前から占領軍は、食料メーデーに対して「批判的」態度をとったり、2・1ストを抑圧するなど、国民の民主化運動を抑えたという意見もあるだろう。そうした事実があったことは確かであるが、私は、前述したような当時の日本国民のおおかたの意識からみて、日本国民自身による民主化が実現できたとは思えない。もし日本国民自身に民主化への確かな構想と強い意思とエネルギーとがあったとしたら、敗戦後の展開は、もっと違ったものになったはずである。戦争は天皇の意思で始まり、終戦もまた天皇の裁断によってなされた。国民自らの手によって戦争を終結させることはできなかったのである。また冷戦後も全面講和運動、米軍基地や自衛隊に対する反対運動=平和・護憲の運動、多くの基地訴訟、日教組の勤評闘争と多くの勤評裁判、警察官等職務執行法(警職法)反対闘争、三井三池闘争、60年安保闘争、学テ闘争、多くの学テ裁判など注目すべき国民運動や労働者の闘争があったことを忘れるべきではない、という意見もあるだろう。それもその通りだが、しかしたとえば60安保闘争が今日の若者にどれほど影響をとどめているだろうか。若者の意識や行動から見る限り、この痕跡は微塵も残ってはいない。
これを要するにわが国では、民主的運動や平和運動の国民的経験とそれを支えた意識の歴史的な持続や蓄積あるいはその継承発展が存しないのである。
それ故先に述べたことが、同時代を生きてきた私の率直な実感なのである。
今改めて学校における日の丸・君が代の強制を受けて、私たちは、初めて自分たちの国
の自由も民主主義も不十分なままであったことに気づかされた、というのが実情ではなかろうか。
 以上のような戦後認識と現状認識から私の国民的課題の探求と明確化が始まるのである。それは次回以降に述べる。

日本の民主主義についてA

 さて前回、明治期の日本の「近代化」=西欧化について述べたが、いま一度そのことについて触れておきたい。
 明治政府が「近代化」を急いだのはー明治20年代にはほぼ「近代的」法制を確立したー一つには、幕末に泰平の夢から目をさましてみると、日本の目と鼻の先で欧米列強が植民地争奪戦を繰りひろげており、日本も植民地化されるのではないかと恐れていたことが挙げられよう。時代はまさに帝国主義真っ盛りの時期であった。年代史的にみても1840年から42年にかけて有名なアヘン戦争があり、清国は、わずかなイギリス軍に敗れている。当時の日本人は中国を大国だと信じていたから、この知らせは日本の知識人に大きな衝撃を与えた。つづいてイギリスは、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、シンガポールへと植民地を拡大し、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、アメリカはスペインとの戦争に勝利しフィリピンをスペインから奪った。明治維新に前後する時期にこれらの事件が、相次いで起きているのである。
 いま一つには、幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を改正するためであった。不平等条約を改正するには、欧米諸国に近代国家として認知してもらう必要があった。そこで明治政府は、徹底して西欧諸国の制度の導入―徹底した西欧の模倣―に走った。たとえば明治憲法が発布された後、1889(明治22年)年7月から約一年をかけて、伊藤の配下である金子堅太郎が、伊藤編集の『憲法義解』をたずさえて欧米諸国を訪れている。その目的は、「彼国議員内部の組織を始め議事規則、議員建物の管轄、院内の警察権、議事の速記」といった「憲法統治の実況」を調査することであったが、同時に重要な任務は、明治憲法に対する欧米諸国の評価を知るためであった。つまり近代国家の憲法として認知されるかどうかを調査するためである。「明治憲法お披露目の旅」とも言われている。金子の帰朝報告を聞いた伊藤は、次のように語ったという。
 「吾輩は君が出発してから帰って来る迄小田原の別荘にて、日夜どう云ふやうに欧米の政治家や憲法学者が批評するかと内心びくびくして居ったが、今君から詳しい報告を聞いて安心した」(以上、瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』189ページ、196ページ)。
 このように西欧文明が日本に奔流のように流れ込み、日本人はそれに圧倒され、根深い西欧コンプレックスが生まれた。そのコンプレックスから日本人が免れたのは、そう遠い昔のことではない(しかしそれに代わってアメリカへの政治的、軍事的な従属と経済政策・企業経営の在り方についてのアメリカ・モデルへの信仰が生まれている)。そのため逆にそれに対するリアクションが生まれた。和魂洋才の思考がそれである。西欧文明に対抗する和魂の典型が教育勅語である。科学技術や物質文明は、西欧を受け入れるとしても、日本人の魂は失わないというわけである。しかし外国文明に対する対抗意識は、これに始まったわけではない。和魂洋才の前には和魂漢才と言った。漢は、いうまでもなく中国である。少しく余談になるが、幕末までの長い間、日本は中国文明の影響下にあった。それへの対抗意識から本居宣長らの国学が興った。と、私は見当をつけて、以前から本居宣長に目をつけていた。子安宣邦さんの『本居宣長』(岩波現代文庫)を読んでみると、果たせるかな宣長が、中国文明に対して強烈な対抗意識をもっていたことが歴然としてくる。これは対中コンプレックスの裏返しにほかならない。歴史をみていると、どうも日本人は、日本に影響を与えた外国文明に対するコンプレックスと対抗意識をもちつづけてきたように思えてならない。それが日本人の意識の流れの通奏低音になっており、なにか事があると、それが表面化してきたように思えてならない。1990年代後半からの歴史修正主義(自由主義史観と呼ばれた)の台頭と横行もー日本を戦争のできる国にするという政治的背景があったことはもちろんだがーこのような日本人の通奏低音の表出と考えられる。なにしろ80年代にJapan as number one と賞賛されていた自慢の経済が長期低迷へと落ち込み、なんとか建て直しをしようと予算のばら撒きをした結果、財政も破綻情況になってしまったのだから。自殺者がここ数年3万人を超えるという有様である。こうした自身喪失が自画自賛の歴史修正主義を生む土壌となったと考えられる。
 もう少しおしゃべりを続けたい。1894(明治27)年、志賀重昂(しげたか)という人が『日本風景論』という本を書いている。そのなかで彼は、「霊峰富士」を初めとしてわが国の風景や四季の移ろいの美しさを礼賛しているが、随所で「烈々たる敵愾心を燃やして、諸外国と日本の風景を対決させている。いわく、イギリスの詩人はその秋を讃えるが、かの国に見事な紅葉があるか。日本にはあるぞ。・・・一つでも火山があるか。日本にはそれはもうあるぞ。・・・ことに支那は最悪だ」(浅羽通明『ナショナリズムー名著でたどる日本思想入門』99ページ)。この本が日清戦争の年にベストセラーになったそうである。ここまでくると、なんだか馬鹿馬鹿しくなるし、どうみても子どもじみている。戦前・戦中の日本の教科書や最近の「つくる会」の教科書をみる思いがする。この本の岩波文庫’(1995年新版)には、志賀の先輩である内村鑑三の当時の書評を掲載しているが、「内村は、ハワイの火山、ナイアガラの瀑布、マッターホルンの高峰、アラビアの大砂漠、エベレスト山(チョモランマ)などを、一つでも匹敵すべきものが日本にあるかといわんばかりに羅列して」志賀の論を揶揄している(同書100ページ)。私は、これを読んで思わず吹き出してしまった。これまた日本人の視野の狭さを、これでもかこれでもかと見せつけられる思いである。
 もちろん私は、現在の日本人の自身喪失を嘲っているわけではない。日本のすぐれたところは、日本人として認識し誇りに思うべきだと考えている。しかし臭いものには蓋式の歴史修正主義では困る。日本国、日本人あるいは日本文明のよいところ劣っているところを、もっと客観視することが必要だと言いたいのである。そのためには諸外国にも、それぞれにいいところがあること、日本のいいところも、そのなかの一つであると相対化して考えるべきである。今のように日本人の多くが精神の余裕を失っているようでは、それがむつかしいのである。
 大分長くなったので、ここらで一旦終えることにする。

日本の民主主義について

                                       
 前回に続けて陶潜その他の中国の詩人の詩について書きたいが、急を要する現実問題があるので、以下、4―5回をかけて、日本の民主主義かかわる本を紹介しながら、私の意見を述べてみたい。
 東京都立学校の日の丸・君が代強制反対訴訟(その内のいわゆる予防訴訟)の証人として大田堯先生に証言していただいたが、その冒頭に強制の元となった都教委の03年10月23日の通達(10・23通達という)を取り上げ、なぜこのような通達が平然と出され、それが教育現場でまかり通っているのかという質問を置いた。先生のお答えは、「わが国の民主主義が未成熟だから」というものであった(この証言記録と意見書等をまとめた本が年内に一ツ橋書房からブックレットの形で出版される)。戦後民主主義の「もろさ」という人もいる。私もまったく同感なのである。その未成熟な民主主義さえも今奪われようとしている。問題は、なぜ戦後民主主義の時代を迎えてすでに60年にもなるのに、この国の民主主義がこのような状態にあるのかという点にある。その答えは、先生の証言でも詳しく触れられているが、私なりに意見を述べておくと、以下のようである。
 まず以下で取り上げる主要な本を紹介しておくと、本多秋五『物語 戦後文学史』(上)(中)(下)岩波現代文庫と中村政則・天川晃・伊健次・五十嵐武士編『新装版 戦後日本』全6巻のうち第3巻『戦後思想と社会意識』、第4巻『戦後民主主義』、第6巻『戦後改革とその遺産』岩波書店である。前者はすでに読み終わったが、後者はいま読んでいるところである。この6巻本は、1995年、戦後50年の節目に出版されたものであるが、戦後60年の節目の今年、再販されたものである。この10年の間に日本はずいぶん変わった。その点を考慮に入れる必要があるが、今日でもなお有用な本であると言える。後は必要に応じて他の本や雑誌を引用する。
 日本の民主主義が未成熟であることは、国内外の多くの人が指摘している。
 たとえば小泉首相の登場の際の支持率が、90パーセント台であったか80パーセント台であったか忘れたが、フランスの新聞が「日本の民主主義はいまだ成熟していない。成熟した民主主義の国では、こういうことはあり得ない」と報じていることを、日本の新聞が紹介していた。日高六郎さんは、「前回帰国したときは「日の丸・君が代」問題で驚きました。九十数%が実施するなんて。これは完全に全体主義国家ですよ。(イラクなど)あったでしょ、投票率一○○%なんて国と同じでしょ」と述べている(「憲法座談会 改憲掲げる小泉自民党にどのように抵抗するか」(週刊金曜日05年11月4日号23ページ)と述べている。高橋哲哉さんは、「戦後民主主義はメッキにすぎず、いまそれが剥げて地金がでてきたのだ」という趣旨のことを書いている(「思想・良心の自由と教育―抵抗することの意味を考える」かもがわブックレット『私の不服従 東京都の「命令」に抗して』所収)。戦前の体験をもつ私は、戦前に比べれば思想や言論の自由が保障されるようになったことを実感しているが、現在のこの国の民主主義の危機的情況と国民一般の危機感の希薄さを目にするにつけて、それと似た考えをもたざるを得ない。最大の危機は、危険な情況にありながら危機感をもたないことである。有名なタイタニック号の悲劇も、沈没する寸前まで船長以下の船員も乗客も、沈没するとは夢にも思っていなかったことに基因している。私はこれまでもこの国の民主主義の危機を事あるごとに訴えてきたが、今後はもっとはっきり言う必要があると考えている。
 さて問題のなぜそうなのかということだが、歴史的には恐らく中世くらいまで遡る必要があるのであろうが、その話は別にするとして、少なくとも江戸時代までは遡って考えるべきであろう。若葉みどりさんは、『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』(集英社)という本の中で「他の文明や宗教を排除する鎖国体制」は「日本の悲劇であった」「日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとった」と書いている(同書531ページ)。私もそのように思う。国家がすることでその国民にとって最悪なことの一つは、外からの情報を遮断することである。そのことは、歴史上も現代も多くの事例があるではないか。外からの情報を遮断すると、国民は世界的規模でものを見、考えることができなくなる。外の世界を知らなくなる。「井の中の蛙大海を知らず」とは、よく言ったものである。現在でも日本人の視野の狭さは、しばしば問題にされている。この視野の狭さが重要な判断を誤らせる。小泉首相の外交政策も、その視野の狭さのゆえに対米一辺倒になり、中国や韓国との関係を最悪なものにしてしまっている。
 明治維新は「市民革命とはいえない」とよく言われ、結局は天皇を担ぎ出し、天皇制絶対主義国家を造ってしまったが、これも260年にわたる鎖国のなせる業だと考える。明治期のわが国の近代化はすなわち西欧化にほかならなかったが、当時の為政者は、西欧諸国の法制その他の文物について感心するくらいよく調べている。かなり前から中国人戦争被害者訴訟の関係で、国家無答責に関する文献をいろいろと調べてみたが、当時の為政者が、欧米諸国の法制を維新以来わずか20年前後の時期に、しかも数年間というきわめて短期間のうちにかくも詳しく調べていることに感心した。明治初年の遣欧米使節団や明治10年代の伊藤博文の憲法調査のための渡欧はその一端である(これらについては、たとえば田中彰『明治維新と西洋文明』岩波新書、瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』講談社を参照されたい)。
今日の私たちは、欧米諸国の事情について、彼ら以上にはるかに詳しい知識をもっているが、それは維新以来130数年をへているからであって、私たちが現在の欧米諸国の事情をこれほど詳しく調べているかと言えば、到底そうは言えない。
 ところでこのような長年にわたる鎖国政策のために、明治政府が選択し得た選択肢は、きわめて限られていたと考えられる。もちろん当時の為政者を、そのゆえに弁護しようとしているのではない。そのような考えは毛頭ない。私が言いたいのは、鎖国すなわち外からの情報の遮断がいかに大きな禍を国民に与えたかということである。最近の日本も、一種の鎖国状態にあるのではないかと言われることが多い(たとえば大江健三郎『鎖国してはならない』講談社参照)。閉鎖的で内向き志向にとらわれ、国外にもち出せば決して通用しない「論理」を身内だけで論じて得々とし、それに陶酔しているからである。
 明治期の為政者が欧米諸国のことをよく調べていると言っても、彼らが見聞したことは、所詮その時点でのいわば瞬間風速だけであり、西欧における中世自由都市の歴史から始まって19世紀半ばまでの西欧の精神的価値の創出と蓄積の歴史まで調べたわけではない。そのような歴史的パースペクティブを彼らに求めても無理な話である。短期間のうちにそこまで理解できるわけがない。しかしそのことが分からないと、西欧が生み出した精神的価値の意義―個人の尊厳、思想・良心・信教の自由、自分と他人の思想の違いを認め合い尊重し合う寛容の精神や市民的自治の精神の意義―を理解することはできないのである。私の民主主義論も、そこから始まる。
 今回は、いわば入口のところで終わってしまったが、次回以降にこの続きを書いてみたい。