No.2の記事

原爆症の話を聞こう。

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日時:9月23日(祝・金) 16時〜18時  場所:ピースボートセンター東京
連続学習会 第3弾 原爆症認定裁判について
司会  松村真澄さん(ピースボート)
ゲスト 田部知江子さん(弁護士)/大森克剛さん(原爆症認定訴訟東京原告団副団長)

---ビデオ「あれから60年 癒えない傷痕」---
(東京の映像専門学校の学生が卒業作品として制作したドキュメンタリービデオ:約60分)

<第一部:ビデオの内容>
被爆とは?被爆手帳とは?
広島・長崎の一定地域に原爆投下時にいた人で、被爆手帳がとれるのは以下の人たち:
@ 広島・長崎市内および周辺地域で被爆した人(直接被爆者)
A 2週間以内に爆心地から2キロ以内のところに入った人(入市者)
B 市内および周辺地域で救援などに当たった人
C @〜Bに該当する人の体内にいた胎児
しかし、2人の証人が必要など要件は厳しく、いまとなっては証人が見つけられず手帳を取れない人が少なくない。しかも、28万人の被爆手帳を持つ被爆者のうち、1パーセントの人しか原爆症認定されていない。それは硬直した認定制度に原因がある。
被爆した地点が爆心地から2キロを越えている人、あるいは72時間後以降に2キロ以内のところに入った人などを切り捨てている。
被爆態様としては:
初期放射線、
残留放射線、
放射性降下物
内部被爆
によるものなどが考えられる。しかし、国の基準は、初期放射線による被爆しか原爆症と認めていないことから、被爆の実情を見てないという問題がある。
現在でも原爆の影響で亡くなる人がいるが、国は原爆症とは認めていない。放射線起因の障害であることの立証を被爆者に負わせているからである。医学的に原因が解明できていないものがなお多いことから、原爆投下に至るまで戦争を遂行した政府の責任を考えれば、立証責任を転換して国が関係ないことを立証すべきである。

集団訴訟って?
認定申請から1年も待たされるうえ、小西訴訟、松谷訴訟 など認定訴訟で国は負けているのに、認定基準はむしろ厳しくなっているという矛盾がある。平均年齢で70歳を越えた被爆者は長く待つことができない。さらに、被爆の実情を見ない厚生労働省に対する怒りもあり、集団訴訟を起こすことになった。

被爆者と支援者の想い:
被爆者には、家族が瓦礫に敷かれているところを自分だけ逃げてきてしまったというような、「生き残ってしまった」という思いを強くもっていて、このような気持ちを他の人には味あわせたくないと考えている人が多い。被爆者の大変な経験をいろいろな形で訴えてきたことが、核戦争を防いできた。この訴訟も、放射能の影響を明らかにすること、核兵器の被害を明らかにすることで、核兵器をなくすことにつながると考えている。被爆者のお友達をもってほしい。人生の話を聞いて伝える側になってほしい。

ビデオの中の証言から
○ 竹内さんの証言 
原爆投下の際に見た光景を絵と文章にしている。軍曹として広島原爆投下地区に直後に入り救援活動をしていた。患者を収容して驚いたのは、手をみんな前にぶらさげていて服もぼろぼろで、よれよれになって歩いていることだった。ブロック塀に敷かれて動けなくなっていた女性がいたが、一人で行動しているときだったので助けられなかったことをいまでも悔やんでいる。
前立腺ガンを煩っているが、それは市内で救援作業を行っているのが原因だと考えて原爆症申請したが却下された。そもそも原爆投下に至ったのは、戦争終結を遅らせた国の責任である。一人で闘ってもだめなので、集団訴訟をすることにした。

○ 齊籐さんの証言 
電車が通じるようになってから、家の焼け跡を子供と見に行った。焼けこげた肉片が積み上がっていて蠅がたかっていた。焼け跡の家で壺に埋めておいたコメが無事だったのでそれを食べたのだが、そのことや子どもを一緒に連れていったりしたことをいまでは後悔している。現在、大腸ガンで苦しんでいる。家族のことを考えると躊躇したが、いま立ち上がらないと被爆者も高齢だし、これが最後の機会だと思い訴訟に参加した。原爆の悲惨さを知ってもらうために、語り部をしている。

○ 福地さんの証言 
警戒警報が鳴ったが、その後に解除され、空襲警報も出ていない状況のなかで、ものすごい光をみた。その後、必至で家族と逃げた。赤十字病院につくところまで、誰も人を見なかった。市役所の地下室からそこで働いていた女学生が出てきた。外見は何ともないが口から血を吐いていた。家族と共にその女学生も抱えて一緒に逃げた。集めた資料を展示するため資料館を造ってみたが、あとを継いでくれる人がいるか心配。被爆者が少なくなったことを感じている。

○ 米田さんの証言 
自分の娘が4年間つきあっている男性の家族に紹介された。娘は、先方の家族から、「母親が原爆にあったそうだが、元気なのか後遺症はないのか」と根ほり葉ほり聞かれ帰ってきた。娘はその男性と結婚しても幸せになれないと考えて別れたということがあった。

<第二部:インタビュー> 
原爆症認定訴訟原告:大森克剛さん
弁護士:田部知江子さん

【大森さんへ】
○ 大森さんはヒロシマで学徒動員されていたということですが?
昭和20年3月の閣議決定で、中学2年生320万人が、向こう1年間軍需工場で働くということが決定され、私も動員されました。私自身は、高射機関銃の弾をつくっていました。

○ 投下翌日に広島に入られたわけですが、そのときの様子はどうだったのでしょう?
ちょうど週末に江田島の祖母のもとにいて、6日は電力不足で工場が休みでした。7日の出勤に備えて寮に行こうとしましたが、途中でピカっという光とドカンという音がしました。電車が折り返し運転になり、広島には行けなかったので戻ってきました。
7日に出勤しようとして広島に行きました。近づくにつれて紺碧の空が真っ黒で、日食のように太陽が黄色く光っていて、腐ったサンマを焼いたようなというか何ともいえない異臭がしました。みんな川に逃れて満ち潮でおぼれていました。川に入って、死体を上げるとさらに下から死体が上がってくるという状況でした。
 工場もめちゃくちゃに壊れていたので、安否情報を集めようと動き回りました。目玉が飛び出ている人、防火水槽に首を突っ込んで息絶えている人、耳が肩までたれている人などおり、ただならぬ状況でした。余熱が残っていて、熱くてとにかく喉が渇きました。焼け跡で壊れた水道からちょろちょろと出ている茶色や黄色になっていた水(熱せられてお湯になっていた)を飲んだりしました。すると、飲んで1時間もするとひどい吐き気を催したので、歩けなくなり、級友と別れて、江田島に帰えることになりました。

○ 広島が爆弾で大変なことになっていることはわかっていたということですが、実際近くに行くとただならぬ状況になっているのに、出勤するのをやめようと思わなかったのはなぜでしょう?
県立広島工業高校は、規律がとても厳しい学校でした。銃の形をした木の棒を持って軍事訓練をさせられていました。「討ちてしやまん」という雰囲気で、無断欠勤なんかありえないという雰囲気でした。

○ 急性症状の様子はどんなものだったのでしょう?
いままでに体験したことのない、妙な微熱が続いて頭ががんがんして、血便がジェット噴射のようになる下痢が続きました。とにかく頭ががんがんする。歯茎が血でにじむということも続きました。歯茎の血は40才のときに歯を抜くまで続きました。いまでは、原子爆弾の怖さというのが知られていますが、当時は通常の爆弾で壊滅したと考えられていたので、急性症状だとは気がつきませんでした。

○ そんな状況では日常生活も困難だったと思うのですが?
徹底された軍隊教育を受けていて、そんなことにへこたれてはいけないと考えて、それを乗り越えなければいけないと思いながら毎日をすごしていました。

○ 結婚してから子どもを作るのに悩まれたことはありますか?
「向こう70年はヒロシマに草は生えない。原爆にあった人は子孫に至るまで被害が及ぶ」といわれていました。白血病などがひろがっていたので、子どもにもし原爆の影響がでたらと怖かったのも事実です。実際には、その後、子どもを作ることになりましたが、妻にも言えず、子どもを作れないかも知れないと悩んでいました。女房には申し訳ないという想いでいっぱいです。

○ ガンを煩ったとき被爆との関係についてどう思われましたか?
「家族でガンを患われた方はいますか」と病院で聞かれましたが、そういうことは全くありませんでした。ただ、原爆の影響なのか、その時点でも疑いが若干ありました。90パーセントはそういう想いで、どうしても納得させられない気持ちが残りました。

○ 初めて家族に被爆者であることを話されたときはどうでしたか?
集団訴訟に立ち上がろうと決断して、診断書をとったので、そのときに被爆者だということを家族に知らせました。それまでは言えませんでした。妻は、子どもをどうして産めないんだということを不思議に思っていたでしょうし、妻も辛かったと思います。それに、子どもがちょっと血を出しただけでも「大丈夫か?」と、子どもの異常を敏感に感じることにも少しおかしいと思っていたようですが、まさか被爆者だから子どものことを気にしていたとは思っていなかったようです。私のほうでも、それまでは言えませんでした。ただ、言えない苦しみというのは、単なる嘘をつくのと違ってとても辛いものです。

○ 家族にも相談せずに提訴を決意したということですが、それはなぜでしょう?
提訴を決意したのは、松谷訴訟があって、最高裁でも厚生労働省が負けて、東訴訟の最中のときでした。東京で9000人の被爆者がいるのに、この人たちは原爆症の認定を受けていない。こんなことを一人一人やっていたらみんな死んでしまう。だから、みんなで一緒にやろうと募ったのです。
でも、なかなか乗ってきてくれないので、いま訴えなければもう後がない。集団提訴すれば、マスコミにも報道される。世界に平和をアピールするチャンスだと訴えて、10人くらいで訴訟を始めました。やっと原告は30人になりましたが、訴訟を起こしてからもう7人が亡くなっています。

○ 政府に対してもっとも訴えたいことはなんでしょう?
原爆というのは被爆者だけでなく、被爆者の家族も大変な目に遭います。私の場合、人工肛門の突起物にストーマという危惧をかぶせるのですが、患部の形は変わるのでそれにあわせてストーマの取り付け口を調整する作業があって、これがとても大変で妻に苦労をかけました。傷口などを見るのがあまり得意でない妻ですが、夏の暑い日に、人工肛門の取り外しをしているとき、私のお腹にぽたぽたと垂れるものがありました。あれは妻の汗だったのか涙だったのか... 妻に苦労かけたこと、本当に申し訳ないと思っています。そうした被爆者や家族の苦しみとか辛さを、政府にはわかってほしいと思います。

○ 裁判の進行などについて夫婦で話されていますか?
これが全然、夫婦では話したことがありません。10月3日に証言するけど一緒に来るかと聞いても、妻は「私行かない」というのです。

【田部さんへ】
○ この裁判の目的や意義はなんでしょう?
個別訴訟で厚生労働省が負け続けているのに、認定基準は厳しくなっています。こうした行政の姿勢に対して、被爆者の方たちは我慢ならないと考えています。また、米国の核戦略に巻き込まれているから、認定基準を厳しくしているのではないかとも思われます。こういったことを問題にして、最終的には被爆者の方たちの救済だけではなく、核兵器廃絶にもつながるように訴えていっています。

○ 田部さんが原爆訴訟にかかわろうと思ったきっかけはなんですか?
私はコスタリカが好きで、これまで3回行ったことがあります。また、ハンセン病訴訟にもかかわってきました。直接的には、コスタリカとハンセン病のそれぞれの活動にかかわっている先輩弁護士に誘われたのがきっかけになります。メディアに出ている語り部の方などを見ると、被害を克服しているかのように見えたりもします。しかし、この訴訟にかかわって原告の方からお話を聞くと、「当時のことを思い出せない」、「被爆時の話をするのは初めてだ」という人ばかりでした。PTSDに苦しみ、人生をあきらめてきた人もいらっしゃいます。時代が違えば、自分がそういう経験をすることになる可能性もあるんだと思いました。自分が同じ目に会いたくないから、弁護士として自分にできることをしたいといまは考えています。

○ 厚生労働省は、どういう対応をしているのでしょう?
最近、集団訴訟が始まってから初めての協議の場が設定されました。被爆の実態を避けて通ろうとしているという印象をもっています。いま原告側では、厚生省のいう専門家は、被爆の状況も把握しないままで審査基準をたてようとしているので、そのことを問題にして追及しているところです。

○ 厚生労働省は、なぜ被爆者に冷たいのでしょう? どう思われますか?
厚生労働省や政府は、積極的に原爆症であることを認めることが、政府の戦争責任を認めることにつながることを恐れて、躊躇しているのだと思います。


Q: 被爆者であることを公にすることについて、子どもに対する周囲の反応などは気にかけなかったのでしょうか?
A: みんなそれが怖くて、原告になれないのです。「被爆者だと言わないで」という人もいます。でも原爆の話ができるのは被爆者しかいない。立ち上がらないと日本は再び戦争をやるかもしれません。だから立ち上がるしかないと思っています。申し訳ないが、子どもには我慢してもらうように拝むしかないと思いました。
  占領後、米軍は、広島、長崎に入ってはいけないと禁止命令を出しました。そのうえで、9月30日には、原爆で苦しんだり死んでいる人はいまでは皆無だと宣伝しました。日本政府も同調して、原爆投下というのは人間をモルモットにした実験なのに、アメリカには賠償を求めない約束をしてしまいました。こうしたことは許せません。

Q: どうして国は認定基準を厳しくするのでしょう? たとえば、他の訴訟のように立法不作為を追求するとか、国会議員への働きかけをするとかはできないのでしょうか?
A: まさにそのために集団訴訟を始めました。集団訴訟をすれば、政府は、裁判になっているのは個別の事案にすぎないとか、一般的な基準はいまのままで構わないといった言い逃れができなくなります。国会議員に対する働きかけは、被爆者の全国組織である被団協がずっと行ってきていて、個々の議員とのつながりはあります。しかし、そうしたつながりもまだ十分には機能していません。これからも、国会ローラー作戦を予定していますし、多くの議員に被爆者の訴えや想いを届けるという取り組みをしようと考えています。

Q: 国会議員はなぜ関心が低いのでしょう?
A: こうした地味な取り組みは票につながらないからではないでしょうか。自分の出身地の陳情団などには興味があるが、そうじゃない要請の話はまともに聞いてくれない国会議員の人もいました。ある議員は、その場で厚生労働省の課長に電話して、「陳情にきているから何とかしろ」と言った人もいます。でも、それはちゃんと考えてくれてのことではなくて、ただのパフォーマンスでしかない。むしろ哀れに感じてしまいました。

Q: 法律をつくるためには世論の盛りあがりも必要だと思いますが、どんな働きかけをしているのでしょう?
A: 学習会をたくさん設けて、多くの人にこの問題を知ってもらいたいです。裁判官が勝訴判決を出しても大丈夫だということを理解させられるような、そうした取り組みの盛りあがりを作っていく必要があると考えています。

Q: 田部さんにとってこの訴訟の意味は?
A: 核兵器廃絶を訴訟でも訴えていて、憲法9条を実現できる一つの場所・機会だと考えています。それに、被爆者の方々と出会えたことを、とても幸せに思っています。

大森さんから若い人へのメッセージ:
被爆者と友達になって下さい!

■みんなで裁判所での大森さんの本人尋問を傍聴しに行こう!■
日時:10月3日(月)13:30-16:30
場所:東京地方・高等裁判所 606号法廷
   地下鉄 霞ヶ関駅A1出口を出て、目の前(入り口で手荷物検査を受けます。)
 *傍聴希望者が多い時には抽選になりますので、予めご了承ください。