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清水雅彦の映画評

第0007回 (2005/05/05)
番外編(和光大学紀要『エスキス2002』より)


【転載にあたって】

以前、和光大学表現学部・人間関係学部紀要別冊の『エスキス2002』(2002年3月発行)に「ハリウッド映画を読む〜映画・政治の暴力(戦争)と法(憲法)」(2001年11月脱稿)という拙稿を掲載したことがあります。これが『アエラムック』編集部の目に留まり、『アメリカ映画がわかる。』に執筆することになりました。今回は、前回の映画評でデンゼル・ワシントンに触れたこともあり、また、連休中ということもあり、皆様にはビデオ・DVDで彼主演の作品ほかここで紹介した作品を見ていただきたいという思いから、拙稿を転載することにしました。映画鑑賞の参考にしていただければ幸いです。ただし、原文のままの転載のため(原文は縦書き)、たとえば「今年」となっているものは「2001年」に読み替えてお読み下さい。


ハリウッド映画を読む〜映画・政治の暴力(戦争)と法(憲法)


はじめに

 今年の春に『プルーフ・オブ・ライフ(Proof of Life)』(テイラー・ハックスフォード監督、二〇〇〇年)という映画を見た。見たかった別の映画が混んでいたので、急遽変更して見た映画である。見て、驚いた。法律家として許せない映画だったからである。
 ストーリーはこうである。テリー・ソーン(ラッセル・クロウ)は、ロンドンの誘拐身代金交渉企業の人質解放交渉人。南米の国テカラ(架空の国)で、反政府ゲリラに誘拐されたアメリカ人のダム建設技師ピーター・ボーマン(デイビッド・モース)の事件を扱うこととなった。ピーターの妻アリス(メグ・ライアン)に会い、交渉に取りかかることとなるが、ピーターの会社が経営危機を理由に保険を解約していたことがわかり、テリーはロンドンに帰ってしまう。しかし、アリスに惹かれたのか、正義感によるものなのか、彼はまたテカラに戻り、事件に取り組むことになるのである。無線による交渉で一旦はゲリラ側と身代金の額で合意に達するが、その後ゲリラ側からの応答が無くなる。そんな時、ピーターと共に捕まっていた人質が無事ゲリラ・キャンプ地から逃げ出し、テリーはキャンプ地の地図を入手するのである。そこで、対テロリスト部隊である陸軍特殊空挺部隊出身のテリーが昔の仲間を集め、自ら機関銃・手榴弾まで装備してキャンプ地に乗り込むのである。ゲリラ側との激しい戦闘後、無事ピーターを解放する。
 この映画はラッセル・クロウやメグ・ライアンという人気俳優を使い、両者の恋愛感情を絡ませながら、「悪い」ゲリラから建設技師を無事救出し、観客は「一件落着」で見終わるのかもしれない。しかし、なぜゲリラがそのような活動をせざるを得ないのか、ダム建設は何をもたらすのか、なぜアメリカ人技師が建設に関わっているのか、という問題もあるが、それ以上にテリーの行為は法的に許されるのか、という問題がある。外国での誘拐事件の解決に当たるのは、現地の警察(場合によっては、軍隊)である。それなのになぜ外国人が、しかも自ら武装して闘うことができるのか。これは明らかに主権の侵害であり、法治主義に反する。一九八六年にフィリピンで日本人商社マン誘拐事件があった時に、日本人が自ら武装して救出に向かえという議論があったのだろうか。少し考えればこの映画の違法性はわかるはずだが、おそらく多くの観客は疑問を抱かないのかもしれない。
 ところで、現在、九月一一日の対米テロ事件に対する報復として、アメリカがアフガニスタンを攻撃している。確かにテロ行為は許されないが、しかしアメリカにアフガニスタンを攻撃する正当な法的根拠はあるのだろうか。テロは犯罪行為なので、国家による報復攻撃は許されない(国連憲章第五一条の自衛権規定違反及び一九七〇年の報復戦争を否定した国連総会決議二六二五号違反)。アメリカが首謀者と考えるオサマ・ビンラディン氏及びアルカイダのテロ関与の明確な証拠が十分示されていない(客観的な証拠に基づき第三者である裁判所が犯罪者を裁くという刑事手続違反)。アメリカ世論が圧倒的にアフガニスタン攻撃を支持しているという状況を考える時、このハリウッド映画と共通する「正義の暴力(戦争)」、それによる法の無視という傲慢さを見て取れる。
 そこで本稿では、昨年・今年を中心とした昨今のハリウッド映画を題材に、法(憲法)と暴力(戦争)の問題を考えてみたい。

やられたらやり返せ

 今年見た映画で法的に問題と思われる映画をもう二つ紹介する。
 まず、『一五ミニッツ(Fifteen Minutes)』(ジョン・ハーツフェルド監督、二〇〇一年)である。内容は以下の通りである。ニューヨークで最も有名な刑事エディ・フレミング(ロバート・デ・ニーロ)が、彼の人気ぶりに目を付けたチェコ人とロシア人の二人組に捉えられ、殺される。二人組はその一部始終を撮影したビデオ・テープをテレビ局に百万ドルで売りつけ、視聴率欲しさのテレビ局はそのビデオを放映する。結局、チェコ人は逮捕されるが、精神異常者を装い、精神病院に送られることになる(その後、正常であることを証明し、病院を退院、二重の危険(double jeopardy)の禁止*1により罪から逃れようとするのが彼の狙いだった)。そこに、エディと親しくしていた消防局の放火捜査員ジョーディ・ワーソー(エドワード・バーンズ)が現れ、チェコ人を射殺するのである。
 この映画はテレビ局の視聴率競争や殺人犯の巧みな企みなど考えさせられる問題もあるが、しかしその殺人犯が卑劣であってもなぜ私的制裁が許されるのか。映画では有名刑事が殺されたこともあり、最後のシーンではジョーディの行為に歓喜の声を上げる警察官もおり、現場を立ち去る彼を捕まえる警察官もいない。私的制裁がまかり通れば、裁判所は不要になってしまう。今回のテロ事件についても国内または国際法廷で裁くべきなのに、アフガニスタンを報復攻撃する現在のアメリカ政府の方針に通じるものを感じる。
 しかも、エディとジョーディが白人なのに対して、殺人犯二人は旧ソ連・東欧圏出身という設定も恣意的だ。実際、この映画のパンフレットでは映画の記者会見の模様を一部掲載しており、「なぜ、犯人をロシア人とチェコ人にしたのですか?」という問いに、監督は「映画の中に、自由の国と対立する、制限された社会から来た者を登場させたかったんです」と答えている*2。しかし、つい三、四〇年前までアメリカは公然と黒人の権利を「制限」しいていたのではなかったのか。テロ事件後にジョン・レノンの「イマジン」の放送を自粛し*3、アフガニスタン攻撃後に反戦Tシャツを着用し、反戦クラブを結成しようとした高校生の停学処分を裁判所も容認する*4国は本当に「自由」なのか。今のアメリカの状況を見るにつけ、制限がなく自由な国だとするその意識と現実のギャップを感じる。
 もう一つは、『パール・ハーバー(Pearl Harbor)』(マイケル・ベイ監督、二〇〇一年)である。内容は、米軍パイロット二人と看護婦との恋愛物語を中心に、日本軍による真珠湾攻撃から、彼らが日本攻撃を成し遂げるまでの話である。内容の点でこの恋愛物語が非常に陳腐で、映像の点で真珠湾攻撃シーンばかりが派手な点はさておき、「皇國」「尊皇」など仰々しい垂れ幕の中、屋外で作戦を検討する日本側の描き方はとても歴史的事実に忠実とはいえない。そればかりか、日本人を野蛮な民族として描いているともいえる。真珠湾攻撃をアメリカが事前に察知していたという説もあるが、その視点もない。
 確かに、日本の真珠湾攻撃は許されるものではない。しかし、この映画を見れば、野蛮な国(日本)に卑劣な方法(真珠湾攻撃)でアメリカが攻撃を受けたのだから、多くの人がアメリカの反撃に疑問を抱かず、愛国心が掻き立てられるのであろう。今回の航空機テロ事件も、事前に当局が察知していたという説もあるようではあるが、それはさておき、「卑劣な方法」(航空機テロ)でアメリカが攻撃を受けたのだから、国民こぞって星条旗を振り回し、「野蛮な宗教・国」(キリスト教に対するイスラム教、女性を抑圧するタリバーン政権)を攻撃してもよいとするアメリカ国民の反応も辻褄が合う。多くの非戦闘員が犠牲になった広島・長崎への原爆投下が正当化されたように、「誤爆」を含めアフガニスタンで多くの女性・子どもが被害を受けても攻撃は正当化されている。

闘う大統領

 ハリウッド映画は、もちろん恋愛、悲劇、喜劇など多種多様な題材を扱っているが、一方で時の政治状況を受けた映画も見られる。東西冷戦下においては、シルベスタ・スタローン主演によるソ連敵視の『ランボー』シリーズが典型的であった。しかし、八九年以降のソ連・東欧崩壊後、アメリカの敵はイラン、イラク、リビアなどのアメリカが一方的に名付ける「ならず者国家(rogue states)」となった。その「ならず者国家」に対する制裁が、「多国籍軍」による「湾岸戦争」*5である。
 このような国際状況の変化の中で作られたのが『インデペンデンス・デイ(ID4)』(ローランド・エメリッヒ監督、一九九六年)である。七月二日に突然巨大な宇宙船が地球を攻撃し始める。これに対して、「湾岸戦争」時にパイロットであったアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗り込み、各国軍隊を率いて宇宙人と闘い、七月四日に勝利するという話である。東西冷戦後の敵はもう地球上にはいないから新たな敵は宇宙人であり、その宇宙人の侵略に対しても、戦争経験のあるアメリカ大統領を先頭に地球を救うというのである。
 「湾岸戦争」では、アメリカが「多国籍軍」を率いて勝利を収めた。映画の中で大統領が、七月四日をアメリカ一国の独立記念日ではなく、人類全体の独立記念日にしようと演説したが、かつての敵・イラク軍も率いて宇宙人と闘うという設定も周到である。世界にはアメリカの敵はもういないが、今後も世界の「保安官」として行動するということなのであろう。また、映画の中では、宇宙人歓迎行動を行なっていた同性愛者たちがあっけなく宇宙人に殺されてしまう。この映画もアメリカの傲慢さ、マッチョ思想がよく描かれている。
 しかし、さすがに宇宙人が相手というのは現実離れも甚だしい。そこでより現実的に作られたのが、『エアフォース・ワン(Air Force One)』(ウォルフガング・ペーターゼン監督、一九九七年)である。この内容はこうだ。旧ソ連のカザフスタンに「テロリスト政権」を誕生させたラデク大統領を、米ロ共同特殊部隊がカザフスタンに侵入し逮捕する。ラデク逮捕のモスクワでの祝賀会に参加したアメリカのマーシャル大統領(ハリソン・フォード)は、大統領専用機(エアフォース・ワン)で帰路につく。これがラデクの部下にハイジャックされ、「テロリストたち」はラデクの釈放を要求するのである。これに対して、専用機から脱出したかに思われたマーシャルが、実は機内に残って闘うという内容である。
 この映画も設定は巧妙である。マーシャルは「ベトナム戦争で優れた兵士」だったとされている。そして、ラデク解放まで三〇分毎に一人の人質を殺す凶悪な「テロリスト」に、大統領は逃げずに闘いを挑むのである。そのような設定のためか、この映画が上映されていた当時、クリントン大統領はこの映画の宣伝広告に「絶賛」のメッセージを残している。強いアメリカを率いる大統領として、ベトナム反戦運動に関わっていた軟弱イメージのクリントンは、「絶賛」せざるをえなかったのであろう。
 しかし、そもそもこの映画の設定に法的問題がある。カザフスタンという独立国家の指導者を、なぜアメリカ軍が逮捕できるのか。これは明らかに主権の侵害である。かつて米軍は八九年のパナマ侵攻でノリエガ将軍の逮捕を行ない、今回のアフガニスタンでも同じことをやろうとしている。ここでも人気俳優を起用し、多くの観客がこの映画を見て、アメリカの国際法違反行為に疑問を抱かない観客が多数生み出されていく可能性がある。

自分たちが正しい

 最近の映画では核の扱い方も注意が必要である。使用は失敗には終わるが、『インデペンデンス・デイ』では宇宙船攻撃に核兵器が使われる。『ディープ・インパクト(Deep Impact)』(ミミ・レダー監督、一九九八年)では彗星の、『アルマゲドン(Armageddon)』(マイケル・ベイ監督、一九九八年)では小惑星の地球への衝突を防ぐために核が使われる。国連での日本提出の核廃絶決議案が一二四カ国の賛成で採択されたのに対して、アメリカは反対するような国である(反対国は他にインドだけ)*6。これらの映画は、いざという時のためにも、核兵器は必要であるとのメッセージを観客に伝えないだろうか。
 昨年見た『英雄の条件(Rules of Engagement)』(ウィリアム・フリードキン監督、二〇〇〇年)も注意が必要な内容であった。中東のイエメンのアメリカ大使館が暴徒と化した民衆に包囲される。アメリカ政府はチルダーズ大佐(サミュエル・L・ジャクソン)率いる海兵隊を投入し、大使家族の救出に成功するが、その後民衆に紛れ込んだゲリラによる銃撃で隊員に死傷者が出始める。そこで大佐は反撃命令を下し、群衆に向けて発砲。婦女子を含む民衆八三名が死亡し、百数十名の負傷者を出す。政府は国際世論の反発から、チルダーズを軍法会議にかけ、海兵隊の交戦規定(rules of engagement)に違反したか否かを審理することにする。判決はゲリラが紛れ込んでいたとの彼の主張を認め、無罪となる。
 この映画は難しい点がある。アメリカ政府は国際批判をかわすため、紛れ込んで発砲をしていたゲリラを撮影した大使館備え付けのビデオ・フィルムを握りつぶし、チルダーズ一人に罪を擦り付けようとする。この点で、裁判の公平性は失われ、チルダーズ無罪もわからなくもない。しかし、この法廷は軍が身内を裁く軍法会議であったことを見逃してはならない。第三者の裁判官が裁く通常の司法裁判所でもなければ、二国間の問題なのに国際法廷でもない。
 そもそもなぜアメリカがイエメンで嫌われるのかも描いていない。『エアフォース・ワン』で実在の国カザフスタンを扱ったのと同様、自国を悪く描かれたイエメンの国民がこの映画をどう思うかという想像力もないようである*7。結局、この映画は海兵隊員の志気を失わない効果を引き起こし、軍隊の「英雄」を生み出す映画になっているのではないのか。アフガニスタンでの「誤爆」で民衆を殺そうが、ビンラディン氏をかくまっている国が悪い、多少の犠牲はやむを得ないという発想につながらないだろうか。
 ここで軍隊と裁判に関する今年の出来事を考えてみたい。米原潜によるえひめ丸沈没事件では、乗組員らは軍法会議にもかけられず、前艦長はけん責と減給処分が下されただけである*8。沖縄県北谷町での米兵による強姦事件では、事件後アメリカ側は日本の刑事手続では米兵の人権が守られないとの理由から米兵引き渡しを拒んでいた*9。確かに、容疑者に米側通訳を付けることや、取り調べにあたって弁護人の立ち会いなどを求める姿勢は、日本の制度の酷さから理解できる。しかし、一方でビンラディン氏らを捕まえたら、国際法廷でも通常の国内裁判でもなく、アメリカによる特別軍事法廷にかけるという。なぜなら、誰を起訴するかは大統領が決定でき、通常裁判より証拠の採用基準が甘く、秘密審理も可能だからである*10。アメリカは身内には甘く、「敵」には厳しい二重基準の国である。

微妙な映画

 評価が微妙な映画もある。例えば、昨年見た『一三デイズ(Thirteen Days)』(ロジャー・ドナルドソン監督、二〇〇〇年)である。これはケネディ兄弟と大統領特別補佐官ケネス・オドネル(ケヴィン・コスナー)が軍部など強硬派を抑えて米ソ核戦争を回避したキューバ危機を描いたものである。映画を見ればケネディ兄弟らの奮闘ぶりがよくわかる。しかし、一方でケネディ大統領がとったキューバに対する海上封鎖及び偵察機による活動を批判的に描いておらず、そもそもキューバ革命後の政権転覆活動には全く触れていない。アメリカの主権侵害行為には目をつぶり、これではケネディ賛美映画になってしまう。
 これで思い浮かべるのは、同じケヴィン・コスナーが検事を演じていた『JFK』(オリヴァー・ストーン監督、一九九一年)である。ケネディ暗殺の国家的謀略に、ストーン監督が鋭く切り込んだ点は高く評価できる。同監督前作の『七月四日に生まれて(Born on the Fourth of July』(一九八九年)でも、ベトナム戦争に参加する愛国主義者ロン・コヴィック(トム・クルーズ)が反戦活動家になるまでを描いている。しかし、北爆を続け次期大統領選に臨むニクソンをロンは共和党大会に乗り込み批判するが、そもそもインドシナ半島の民族解放運動に介入し始めたケネディ批判の視点はない。共和党とは国内政策で若干の違いはあろうとも、軍事・外交政策で大差のない民主党擁護に終わっていないか。
 この点で、党派性を抑えて、良心的映画を作っているのがスティーブン・スピルバーグ監督だと思う。今年上映された、人工知能ロボットを題材にした『A.I.』(二〇〇一年)は、主題とは別に、地球温暖化による水没した世界、食糧・資源不足による出産許可制という設定は、CO規制のための京都議定書から離脱し、浪費を続けるアメリカ批判(離脱問題は映画製作後のことだが)として受けとめられる。スピルバーグは娯楽作品を多く作る一方で、ナチス支配下のホロコーストを扱った『シンドラーのリスト(Schindler's List)』(一九九三年)や、スペイン人に買われた黒人奴隷が裁判で自由を得るまでを描いた『アミスタッド(Amistad)』(一九九七年)なども作っている。人気監督だけにこのような姿勢は評価できるが、ただ多くの人に受け入れやすいテーマ設定をしているという限界はある。

役を選ぶ俳優

 色々なハリウッド映画の中で、私が今最も注目している俳優はデンゼル・ワシントンである。彼は自分の出演する映画を選択しているからである。例えば、南アフリカの反アパルトヘイト活動家であったスティーヴ・ビコを演じた『遠い夜明け(Cry Freedom)』(リチャード・アッテンボロー監督、一九八七年)、キング牧師よりもラディカルな黒人解放運動家マルコムXを演じた(彼は既に八一年に舞台でもマルコムXを演じた)『マルコムX(Malcolm X)』(スパイク・リー監督、一九九二年)*11、エイズのため法律事務所を不当解雇された弁護士の弁護人役の『フィラデルフィア(Philadelphia)』(ジョナサン・デミ監督、一九九三年)、連邦最高裁裁判官殺害の国家的陰謀の仮説を立てた法学部学生と共に闘う新聞記者を演じた『ペリカン文書(The Pelican Brief)』(アラン・J・パクラ監督、一九九四年)などがある。
 今年、日本で上映された彼主演の映画では『タイタンズを忘れない(Remember the Titans)』(ボアズ・イエーキン監督、二〇〇〇年)を見た。これは次のような物語である。公民権法成立後の一九七一年、ヴァージニア州アレキサンドリアで白人学校と黒人学校が統合され、T・C・ウィリアムズ高校が開校する。そしてアメフト・チームも「タイタンズ」として統合され、ヘッド・コーチとしてハーマン・ブーンが就任する。当初、コーチ、生徒、保護者間で白人と黒人の対立がありながら、それを少しずつ克服して、州の高校フットボール決勝戦で優勝を決めるまでを描く。このブーンをデンゼル・ワシントンが演じているのである。彼はゲティスバーグ(南北戦争の激戦の地で、戦後リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」で知られる演説の地)での合宿で、まだいがみ合っていた生徒たちに「五万人の人間がここで死んだ。それと同じ戦いを、我々は今も続けている。……ひとつになれなければ、我々も彼らのように滅びる。愛し合えとは言わない。互いに敬意を持て。きっと、今よりも人間らしくなれるはずだ」と説くシーンまである。
 昨年見た彼主演の映画では『ザ・ハリケーン(The Hurricane)』(ノーマン・ジェイソン監督、一九九九年)がある。これは、ウェルター級チャンピオンに輝いたルービン・“ハリケーン”・カーターが、黒人に偏見を抱く白人刑事により殺人犯として逮捕され、白人だけの陪審員により裁判でも終身刑が下され、逮捕から二二年後に冤罪が証明されるまでを描いた作品である。七四年の彼の自伝出版後、ボブ・ディランが「ハリケーン」という歌まで作り、釈放が求められた(しかし、七六年の再審裁判では終身刑となったが)カーターをデンゼル・ワシントンが演じているのである。この映画に限らず、『遠い夜明け』、『マルコムX』、『タイタンズを忘れない』と実在の人物を演じている点も興味深い。

モンスターにも法で

 そしてさらに極めつけは、昨年日本で上映された『マーシャル・ロー(The Siege)』(エドワード・ズウィック監督、一九九八年)である。この映画の内容はこうだ。まず冒頭から、世界貿易センタービル爆破テロ、ベイルート及びサウジアラビアの米軍宿舎爆弾テロのニュース映像が流れる。連邦議会で反テロリズム法が制定され、これにより盗聴や監視が容易になり、事実FBIによってテロリストのアジトが壊滅される。このFBIのテロリズム対策本部長アンソニー・ハバードをデンゼル・ワシントンが演じているのである。そんな中、ブルックリンでバスがテロリストにより乗っ取られ、これが無情にもハバードの目前で多数の人質を乗せたまま爆破されてしまう。この現場ではテロ調査に関わっているCIA局員エリース・クラフト(アネット・ベニング)と知り合い、共同してテロ対策に乗り出す。しかし、その後ニューヨークで爆破テロが相次ぎ、とうとう大統領はニューヨークに戒厳令(マーシャル・ロー)を敷くのである。当初、軍の介入に反対していたダヴロー将軍(ブルース・ウィリス)は戒厳令が発令されるや、ヘリコプター・戦車まで投入し、アラブ系市民を強制的に収容し始める(その中で「俺が法律だ」とも言い放つ)。一方で、ハバードとクラフトの尽力により、テロ事件の首謀者を特定し、事件は解決する。さらにハバードは、なんと憲法その他法律違反でダヴロー将軍も逮捕するのである。
 今まさにアメリカで映画を上回るテロ事件が発生した中で、この映画の問いかけは貴重である。映画のパンフレットで、監督は次のように語っている。

 「世界貿易センターの地下駐車場が爆破された事件には、大きな衝撃を受けた。あれほどの事件を起こせるだけのテロリストの組織がアメリカ国内に存在するということを知り、それ以来僕はテロ事件と背後にある問題をテーマにした映画の製作を考えて、取材と調査を続けてきた。……反テロリズム法案の国会(ママ)通過と、ブルックリンでテロリストの隠れ家がFBIによって壊滅された事件は、特に重大だった。……個人の市民権と同時に、テロ事件をストップさせるという難問に直面した時の法執行組織の責任のありかがはっきりしてきた。要はモンスターに対抗するには、こちらもモンスターにならなければならないのか、ということだ」*12

 この映画では、CIAが中東でスパイの育成をしながら、アメリカがスパイを見捨て、スパイたちがCIAから教わった技術を生かしてテロ活動をしていることも描いている。アフガニスタンへのソ連侵攻後、同じことをしてきたアメリカは反省しているのだろうか。また実際には、アメリカで映画のように戒厳令が敷かれたり、アラブ系市民が強制収容されてはいないが、テロ事件後、早速イスラム教徒に対する暴行・いじめ・脅迫が続発し*13、六週間後にはテロ活動の疑いのある外国人を司法手続なしに拘束でき、電話・Eメールの盗聴・傍受を可能とする反テロ愛国法が成立した*14。テロの取締も国民の自由や権利を侵害することなく、憲法と法律に基づいて行なわれなければならないというこの映画のメッセージを、今アメリカは重く受けとめるべきである。

おわりに

 脱稿の直前に、ブッシュ大統領が核査察を拒否するイラクに対して攻撃を示唆するという報道*15に接した。近代以降かつての人の支配という思想は捨てて、法の支配に基づく国家を形成してきた。国家権力は暴走するかもしれないから、憲法で国家の活動を規制し、国民の人権を保障しているのである。しかし、今のブッシュ大統領はどうも「俺が法律だ」と思っているようであり、暴力には法の裁きではなく、暴力で対抗している。これではアメリカこそ法の支配に服さない「ならず者国家」であり、「テロリスト国家」である。
 私は映画好きで、映画をよく見る。しかし、本稿で検討してきたように、映画のメッセージに敏感でありたい。政治・経済・軍事大国のアメリカは、文化でも世界を支配し、娯楽面ではハリウッド映画の影響力は大きい。最近では、アフガニスタン攻撃をめぐる宣伝戦のために、アメリカ政府は映画などを通じてテロ組織の「悪」と「忍耐、勇気、愛国心」を訴えるようハリウッドに協力を求める方針を固めたそうである*16
 そういう中で映画の受け手としては、確固たる自己の視点を持つことが必要ではないだろうか。その点で、日本国憲法の規定や理念は参考になる。環境権(第一三条及び第二五条)、法の下の平等(第一四条)などの手厚い人権規定があり、武力によらない平和主義(前文及び第九条)を掲げ、非常時・戦時に人権を制約することもない*17。そのような視点から映画、さらには現実問題を見ていくことも、一つの方法として提案したい。
(二〇〇一年一一月二七日脱稿)


*1 アメリカ合衆国憲法修正第五条で保障された、被告人を同一の犯罪について重ねて刑事手続による危険にさらさないという原則。日本ヘラルド映画株式会社発行承認による同映画パンフレット(六頁、二〇〇一年)では、大陸法の「一時不再理」という語を充てているが、実際に両者は似ていても、厳密には異なる。日本国憲法では第三九条が両者に相当する。
*2 前掲映画パンフレット、一六頁。
*3 朝日新聞二〇〇一年九月一九日夕刊。
*4 朝日新聞二〇〇一年一一月二日夕刊。
*5 両者に「」を付ける意味については、拙稿「九〇年安保と日本国憲法」和光大学人文学部紀要第三四号、一九九九年、九〇頁参照。
*6 朝日新聞二〇〇一年一一月七日夕刊。ただし、日本政府案は核廃絶に期限を付けないものである。それに対して、同時に非同盟諸国が提出して採択された直ちに核廃絶を求める決議案には、日本政府は棄権している。
*7 ちなみに、カザフスタンはイスラム教徒の多い国であり、イエメンは純粋アラブ人の原型発祥の地といわれ、「湾岸戦争」ではイラク寄りの立場をとったイスラム教国家であり、昨年一〇月には米軍イージス艦への爆弾テロが国内であった。
*8 朝日新聞二〇〇一年四月一九日朝刊及び同二四日夕刊。
*9 朝日新聞二〇〇一年七月五日朝刊及び同六日朝刊。
*10 朝日新聞二〇〇一年一一月一五日朝刊及び同二四日朝刊。
*11 この映画の冒頭は衝撃的である。画面に大写しされた星条旗が燃えて、Xの文字が浮かび上がる。多くのアメリカ国民が好きな星条旗が、上映開始後いきなり燃やされるのである。このシーンや監督が黒人であることにより、ハリウッドがクレームを付け、予算を渋ったことが同映画パンフレットで紹介されている(丸子王児「黒人自身が描く黒人の英雄」日本ビクター株式会社発行権者による同映画パンフレット、一〇頁、一九九三年)。
*12 二〇世紀フォックス映画会社発行承認による同映画パンフレット、二〇頁、二〇〇〇年。
*13 朝日新聞二〇〇一年九月一三日夕刊など。
*14 朝日新聞二〇〇一年一〇月二八日朝刊。
*15 朝日新聞二〇〇一年一一月二七日夕刊。
*16 朝日新聞二〇〇一年一一月一〇日朝刊。
*17 拙稿「戦争否定憲法としての日本国憲法―比較の中からその意義を考える」和光大学表現学部紀要第一号、二〇〇一年、一五七頁以下参照。



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