清水雅彦の映画評
第0029回 (2006/01/10)
『ファイナル・カット』〜他人のまなざしになる自分のまなざし
年々忙しくなっているのですが、後期授業の再開と共にいくつかの講演や原稿執筆も重なり、すっかりこの映画評の更新が昨年9月からできなくなってしまいました。この状態は当分変わりそうにもなく、かといってこのコラムを凍結しておくわけにもいかないので、今回から形式を変更して再開します。ストーリーをきっちりまとめ、コメントをあれこれ考えて書くのは時間がかかるので、新聞の映画評位の分量で簡略化してお届けします。
再開第1回目は、ロビン・ウィリアムズ主演の『ファイナル・カット』。脳内に埋め込まれた人間の全生涯を記録することができる「ゾーイ・チップ」を、人の死後に取り出し、「編集者(カッター)」が故人の生涯を感動的な記録に編集して、故人を偲ぶ人たち向けの「追悼上映会・リメモリー」で上映しているという近未来社会の話です。
編集者は、故人を偲ぶ人たちと故人のために、故人の「忌まわしい過去」(暴力、不倫、犯罪など)を消し去り、「美しい人生」だけを編集して故人の「記録」を作り上げる。一方で、このような「記録」と「編集」に対して、反対運動も展開されています。
この映画は大変示唆的です。一つ目は、記録を編集する者への批判的視点という点で。特にドキュメンタリー番組や映画が典型的ですが、確かに視聴者に提示されているのは「事実」なのですが、それは編集担当者の主観で切り張りされた映像であることを常に忘れてはなりません。当然、本人の意図する映像を残し、都合の悪い映像を削っていきます。
二つ目は、「記録」が「監視」や「管理」につながることを示している点で。本人の見たことが記録されるということは、他人がその映像を検証できるということです。これにより、記録されている者は、「品行方正」「人格者としての行為」が求められていきます。自分のまなざしが実は他人のまなざしにもなることで、人間の「規律訓練」が可能になるのです。最近、事故前後の映像を記録する「ドライブレコーダー」の設置がタクシーから始まりましたが、これによりドライバーの運転も「規律」されていきます。モニター型より記録型監視カメラが増殖する監視社会の中で、考えさせる映画です。
2004年アメリカ映画
上映時間:1時間34分
新宿K's cinemaほかで上映中
http://www.finalcut-movie.jp/index2.html
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