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日記

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-2)

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ソロクトは、日本が韓国を植民地支配していたときに作ったハンセン病療養所ですが、日本国内におけるハンセン病強制隔離政策と同様に強制収容、労働の強制、断種・堕胎等の優生政策の徹底、懲戒検束等の絶対隔離・絶滅政策が行われ、その人権蹂躙の実態は、日本国内の他の国立ハンセン病療養所をはるかに上回る苛酷なものであったとのことです。

日本のハンセン病回復者の方々は、「ハンセン病補償法」に基づき補償金が支給されていますが、日本政府はソロクトに入所されていた方々の請求を拒否したため、現在日本で裁判が闘われいます。

詳しくは、ソロクト・楽生院 補償請求弁護団HP
http://www15.ocn.ne.jp/~srkt/

※写真は断種台
ソロクトでは、日本国内における国立療養所と同様に、結婚の条件として男性に断種が強制され、また妊娠した女性に対しては堕胎が強要されたが、さらに、、懲罰としても断種が行われたという。

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その4-1)

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8月15日、3事件グループは独自のツアーを企画し、小鹿島(ソロクト)更生園を訪れました

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-2)

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 私たちは、60回目の「終戦記念日」を韓国で迎えましたが、韓国の人びとにとって8月15日は日本の植民地支配から解放されたことを祝う「光復節」。釜山でも、60回目の光復節を祝う式典が開催されていました。

※韓国では8月15日は祝日

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その3-1)

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 8月13日に東京を出港した船は、15日、最初の寄港地韓国・釜山(プサン)に入港しました。

※韓国のテレビの取材を受けるピースボート吉岡共同代表

「残留孤児」原告、平和之船に乗る(その2-2)

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 安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
 ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。

 また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。

 安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。

※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
 英語、中国語、日本語が飛び交った。