8月13日(土)午後10時10分〜11時00分(BS1)
NHK BSドキュメンタリー
「大地の子になった日本人」(仮)が放映されます。
[番組案内]
敗戦の混乱のなかで旧満州、現在の中国東北部に取り残された中国残留孤児のうち、これまでに3500人以上が帰国を果たした。しかし、その一方で、300人以上が中国に残る道を選択した。その多くは、肉親が判明した人たちだが、肉親から、同居を拒まれた者、帰国するよう説得されたが、養父母の面倒をみるために断念した者などさまざまである。
戦後60年を経た今、彼らは、二つの祖国をどのように自分のなかにおさめようとしているのか。これからどのように中国で生きようとしているのか。
中国に残る4人の残留孤児を取材、大地のなかで生きる彼らの内面に迫る。
http://www.nhk.or.jp/summer/84.htm
同じく 8月13日(土)午後10時15分〜10時55分
NHKラジオ第一放送で、
「二つの祖国を生きる〜残留邦人家族の戦後60年〜」が放送されます。
[番組案内]
戦後60年。満州開拓団として中国に渡り、終戦間際の混乱で取り残された残留邦人。これまでに永住帰国した人は、関係者も含めて2万人に達する。しかし、日本での生活は、「夢」とは程遠く困難を極めた。彼らの多くは、今70歳を超える。日本語が満足に話せず引きこもり、生活保護に頼った生活を送る。そんな孤児一世を支えているのが、二世、三世たち。あるものは医師として、またあるものはビジネスマンとして活躍する。「祖国はどこか」そんな悩みを持つ彼らのよりどころは、「家族」。二つの国の狭間で翻弄された残留邦人と、それを支える二世、三世の動きを追い、「二つの祖国に生きる残留邦人家族」の戦後60年を見つめる。
http://www.nhk.or.jp/summer/116.htm
8月3日(水)21:15〜21:58
NHK総合「そのとき歴史は動いた」で、以下の番組が放送予定です。
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シリーズ終戦60年
ソ連参戦の衝撃
〜満蒙開拓民はなぜ取り残された〜
その時:昭和20(1945)年8月9日
出来事:ソ連が参戦
ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、戦車5千台、兵員157万人の圧倒的戦力で当時日本の支配下にあった満州国(現在の中国東北部)に侵攻した。満州を守備していた日本軍は敗退。100万人を超す日本人居留民が戦闘に巻き込まれ、多数の犠牲者がでた。またこの侵攻は、シベリア抑留や中国残留孤児の問題を生むことになる。様々な史料や証言から、ソ連対日参戦が引きおこした悲劇を描く。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
7月27日、「中国残留日本人孤児を支援する国会議員の会」による初会合が衆議院第二議員会館で開かれました。
報告はこちら
http://www.geocities.jp/genkokusien/7.27giinkai.html
(京都原告団 二・三世のホームページ)
20日(水)
NHK“クローズアップ現代”(総合テレビPM7:30〜7:56)で
『私は“死亡”していた
〜中国残留孤児・新資料が語る戦後〜』
が放送されました。
http://www.nhk.or.jp/gendai/
「残留孤児」二世を知って
親の祖国で 人間らしく生きたい
「ある意味、私たちは日本社会のマイノリティー(少数派)です」。そう話す藤原知秋さん(35)=千葉県在住=は、かつての戦争で中国に置き去りにされた「残留孤児」の二世です。「二世の存在を知ってもらいたい」と藤原さんたち二世は団体の立ち上げを計画。祖国で人間らしく生きる権利を求めた中国「残留孤児」裁判の勝利をめざしています。
■国賠訴訟に立ち上がった藤原知秋さん(35)
日本に戻った「残留孤児」の家族の多くは、日本政府のきちんとした生活の保障が受けられず、老後を心配しています。藤原さんは「耐えて、耐えて、ここまできたけど、もう耐えられない。私たちの苦労を突き詰めていけば、責任は戦争を始めた政府にある。少しでも政治を変える力になりたい」と話します。
■現実の壁
藤原さんの母親は一九四三年に中国で生まれました。終戦当時の混乱期、中国人の養父母にあずけられました。
一九九〇年三月八日、藤原さんは父、母、妹とともに帰国。二十歳のときでした。留学にあこがれる人々が中国国内で増えてきた八〇年代。日本に渡ることに抵抗感はありませんでした。
「日本に来てから現実の壁にぶつかった」。言葉、仕事、人とのつきあい…。帰国して一、二年のこと。日本語がうまく話せず、「電話のベルが鳴るたびに、家族四人とも心臓が止まるくらいドキドキしていた」。
日本語に自信が持てるようになったのは大学卒業後でした。両親が話せないことに焦りを感じた時期もありました。しかし外国語の習得は簡単でないと、藤原さんは徐々に理解を示しました。「いまは無理をしないで、子どもの私に聞けばいいと思っています」
現在は中国語の講師をしています。語学学校で働き始めて半年がたったころ、ストレスで潰瘍(かいよう)性腸炎になってしまいました。「日本に来て初めて“ストレス”という言葉を知った」といいます。
仕事の合間をぬい、通訳を買って出ています。裁判の傍聴券抽選や厚生労働省、国会前の座り込みなど場面はさまざま。「親の問題のことだから普通の通訳よりもよくわかる。そう思い、自分たち二世が立ち上がった」
藤原さんと同じ三十代でも日本語がうまく話せない二世もいます。「政府によって多くが農村部に振り分けられ、勉強する機会を奪われた」。中国語の教育も十分でない人たちもいます。十代は日本語しか話せません。
■私の時代
これまでの運動は多くの市民によって支えられてきました。しかしボランティアのあいだでも高齢化が進んでいます。あるボランティアが藤原さんたちにいいました。「これからはあなたたち自身がたたかわなければならない」―。二世たちも「これからは自分たちだ」と強く感じました。
活動のなかで、日本の侵略戦争によって被害を受けた中国人の戦後補償裁判をたたかう弁護士と知り合いました。ここでも支援をしています。「中国の原告も同じ戦争被害者。『残留孤児』や強制連行、『慰安婦』に遺棄毒ガスなど、戦後処理という大きなテーマの一つ一つです」
中国を離れるとき、友達が「日本に住めなかったら帰ってこいよ」といい、笑いながら藤原さんを見送りました。それから十五年。「日本は母の国。中国は父の国。二つを切り離すことはできない。中国と日本を行ったり来たり、両国の橋渡しをしたい」
■言葉のハンディ親は働きづめ 橋本恵子さん(32)埼玉県在住、仮名
私の父は、生まれて間もないころ中国のハルビン(中国黒龍江省)に置き去りにされました。栄養失調と病気の乳飲み子…。中国の養父母が「育ててあげる」と申し出てくれて生きのびました。
その後、父は中国の人と結婚し、五人の子どもをつくりました。
養父母も含め九人家族は、一九八〇年以降に帰国。私は十三歳のときに日本に帰国しました。中学生の年齢に達していましたが、日本語ができないというハンディがあって、小学六年生になりました。
そこでうけたのは「残留日本人孤児」の子どもということからうけたイジメ。日本語ができないので「中国人。バカ!」とののしられ、ほうきで殴られたりもしました。
「何で(日本に)つれてきたの」。私はイジメにあうと泣いて親に訴え、困らせました。それは、戦争が残した理不尽な傷跡への怒りだったのかもしれません。
両親は食べ盛りの子どもを養うため、朝から夜まで残業、残業で働きづめ。長男も高校に進学したかったのにすぐに働き始め家計を助けました。
「戦争被害は、国民ひとしく受忍しなければならない」と言い放った大阪地裁の判決から、有無を言わさない国家の強権的な冷徹さを思い知らされました。父たちは祖国を恋こがれて帰国しました。みんなが平等で、もっと優しい日本になってほしいと思います。
■「残留孤児」 戦争で中国に置き去り
一九三二年、中国を侵略した日本は、中国東北部に「満州国」をでっち上げました。そして、一九三六年、二十カ年で百万戸の大量移民計画を決定。国策として日本から「満蒙開拓団」などを送り込みました。その数は一九四五年までに三十二万人余りになりました。
一九四五年八月、ソ連軍が侵攻すると、軍人とその家族が真っ先に逃げ出して帰国。開拓民は置き去りにされ、集団自決、栄養失調、伝染病などによって多くの人たちが命を失いました。日ソ開戦時に六万人、終戦後に十八万五千人、計二十四万五千人が終戦直後に死亡したと記録(『引き揚げと援護30年の歩み』)されています。「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られて育てられた人たちです。
戦後、「孤児」を日本に招いての肉親捜しが始まったのは日中の国交が回復して九年もたった八一年三月になってから。永住帰国が本格化するのは八六年になってからです。
帰国した「孤児」は、日本で生活するために欠かせない日本語教育と社会教育を十分に受けることなく自立を迫られました。就労の機会を奪われ、就労率は30%、生活保護受給率は六割を超えています。
「残留日本人孤児」国家賠償訴訟 「孤児」の八割に当たる二千四十三人が東京、大阪など全国各地の十五の地裁に提訴した国家賠償訴訟。六日、大阪地裁の判決は最初の判決となりました。その判決内容は、原告たちが負った精神的な苦痛を受けた被害事実を不十分ながら認めました。しかし、早期に帰国実現をさせる義務の違反もなく、帰国した「孤児」を支援する義務違反もなかったとして、「祖国で人間らしく生きる権利」を求めた原告の訴えを棄却した不当判決です。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-18/2005071810_01_0.html
(2005年7月18日(月)「しんぶん赤旗」より)