八朔社より、『ああわが祖国よ−国を訴えた中国残留日本人孤児たち』(大久保真紀・著)発売
大久保真紀[オオクボマキ]
1963年福岡県生まれ。1987年朝日新聞社入社、盛岡、静岡支局、社会部などを経て2002年4月から編集委員
『わたしたちなにじんですか−国に翻弄される人生』
★登場人物★
孫 ・・・・・・ 本多陽子さん
祖母(祖)・・・ 山川敬子さん
原告・・・・・(桂)桂康恵さん 中国語
(斉)斉藤弘子さん 日本語
(田)田中文治さん 中国語
(照)吉田照也さん 日本語
(幸)吉成財幸さん 中国語
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開幕ベル
【照明A】
祖
「陽子ちゃん,大学入学,おめでとう。
これ,おばあちゃんからのお祝い。」
孫
「おばあちゃん,ありがとう。
4月から,やっと,
念願の1人暮らしを始めるわ。」
祖
「そう。よかったわね。
でもね,おばあちゃんも,お母さんも,
心配してるから,
学校がお休みの時ぐらい,帰ってきてね。」
孫
「うん,わかってるって。
おばあちゃんは,ホント心配性なんだから。」
祖
「そうかもしれないわね。
おばあちゃんはね,家族が本当に大事なの。
小さい時,
お父さんともお母さんとも
生き別れていたからね。
家族が別れて暮らすのは,
なんだか心配なのよ。」
孫
「そうだったね。
おばあちゃんの気持ちも考えないで,
心配性だなんて言ってごめんなさい。
ねえ,今日は久しぶりに
おばあちゃんのお話を聞かせてよ。」
祖
「そうね,
今からもう60年前のことなのよ。
1945年,日本が戦争に負けた時,
おばあちゃんは,満州にいたのよ。」
孫
「マンジュウ?何それ?」
祖
「陽子ちゃん,学校で習ったでしょ?
満州よ。
満州っていうのはね,
もう地図には載っていない国なのよ。
昔,日本が,今の中国に作った国なの。
そのころ,日本政府は,満州には広い土地があって,
好きなだけ畑を作ることができて,
みんなが幸せに暮らせるって宣伝をしていたの。
それで,おばあちゃん達の家族が住んでいた村では,
みんなで家族を連れて,
満州に行こうってことになったの。」
孫
「そういう人達のこと『満州開拓団』
っていうんでしょ。
日本から27万人以上の人が行ったって,
中学校の歴史の時間に習ったわ。
満州での生活はどうだったの?」
祖
「満州では,
土地は広いけれどかちかちな土地だったの。
日本とは全く違う気候だったの。
そんなところで,畑を作るのは大変だったわ。
苦労もしたわ。
でもね,
家族みんなが一緒に暮らしていた頃は,
苦労はしても,まだ幸せだったわ。
でもね,
中国の農民の人たちは,
日本人から無理矢理に土地を取り上げられて,
日本人のことを,とっても怒っていたわ。
1945年8月15日,日本が戦争に負けると,
ソ連軍が日本人を襲ってきたの。
また,地方の暴徒も,鍬や鎌をもって
『打倒小鬼子』
といいながら,
日本人を襲ったの。」
孫
「誰も,おばあちゃん達を守ってくれなかったの?」
祖
「おばあちゃん達は,
いざという時は日本の軍隊が守ってくれる
って聞いていたけれど,
軍隊は,真っ先に逃げてしまったの。
だから,開拓団の家族も,
必死になって逃げたのよ。
そんななかで,おばあちゃんも,
家族と生き別れてしまったの。
8歳の時のことだったわ。
こんなふうに両親とはぐれた子供が,
少なくとも3万人以上はいたといわれているの。
この子ども達は,中国『残留孤児』
と言われているの。」
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(効果音 吹雪の音)
【照明B】
斉
「そう」
全
「そう,私達は捨てられた日本国民です。
人は私たちのことを,
残留日本人孤児という。」
(一拍おいて)
照
「私が孤児になったのは,8歳の時。
父が兵隊にとられ,
母はその10日後に病気で死んだ。
だから,
私には両親はなく,弟と妹を連れて,
村の人と一緒に,ソ連軍から逃げた。
途中,中国の匪賊に襲われた。
銃弾がとぶ中を,妹を背負って,
必死になって逃げた。
逃げきれたと思ってほっとした時,
一緒に逃げていた人から
『照也,あんたの妹,血が流れているよ。
もう死んでるよ。』
と言われてはじめて,
妹が後ろから銃で撃たれて死んでいたのを知った。
妹の遺体は,その場に埋めた。」
田
「それは,
ソ連軍が開拓団を包囲した時のことでした。
父は私を背負って,
九死に一生の思いで逃げました。
どれぐらい逃げてきたのかもわからず,
ようやく古城鎮の駅にたどりつきました。
汽車に乗れば,日本に帰れると思いました。
しかし,
汽車に乗ろうとした時,
『ここに日本人がいる!』
と誰かが叫びました。
すると,
周りから20−30人の中国人がやってきました。
鎌や鍬,棒を手にした農民達が,
『日本人を殺せ!』
と叫んでいました。
父はその場で縛られ,殴られ,
とうとう動かなくなりました。
当時,5歳の私には『死ぬ』
ということがわかりませんでした。
大好きだった父が動かなくなり,
父のもとから離されることが,
ただ悲しかったです。」
斉
「中国での旧正月の頃,
中国の軍隊が来て,
私が住んでいた村の日本人の男性,みんな,
外に連れ出して,
バババッと撃ち殺しました。
バババッと人が倒れ,
近くの湖の氷を割って,
死体を落としていました。
この事件は中国の地名をとって,
いわゆる通化事件と言います。
生き残った村の人は,赤い煉瓦の家に集まって,
オレンジ色の甘い匂いのする飲み物
が入った湯飲みを
回して飲んで,倒れました。
その飲み物は,とってもおいしそうな匂いがしたの。
だから,
子供だった私は,はやく飲みたかった。
でも,
通りがかった中国の人が,腕をつかんで,
その家から連れ出したの。
後からわかったけれど,
その飲み物は青酸カリでした。」
幸
「私は5歳。
私達家族は,他の大勢の日本人と一緒に逃げ,
牡丹江近くの山の上まで避難しました。
その夜は,家族みんなで寝ました。
それなのに,翌朝,目覚めると,
父も母もいませんでした。
私は,その場に,たった1人残されたのです。
私は,必死で,山の上や下を両親を呼んで,
探しました。」
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【照明A】
孫
「おばあちゃんは,
それからたった1人で中国で生きてきたの?」
祖
「中国人に拾われて,その家で,育てられたのよ。
中国のお父さんお母さんのことを
『養父母』ってよぶの。
でもね,
残留孤児の中には,
何人もの中国人の家を転々とした人もいたのよ。
売られたり,食料と交換されたりしたのよ。
ただね,
日本政府が中国の人達の土地を取り上げたり,
戦争中,日本兵が中国の人達に対して
ひどい行為をしていたから,
残留孤児は日本人だとわかると,
『小日本鬼子』,
つまり小さい日本の鬼の子とよばれて,
いじめられたの。
また,文化大革命の時には,
日本人だというだけで,
日本のスパイだと言われて,
迫害されてたの。」
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【照明B】
幸
「養父母の家は貧しい家でした。
私は,その家の子供というより,
単なる労働力でした。
養父母の子供は靴を履いていましたが,
私には靴は与えられず,
いつも裸足でした。
そして,
裸足のまま,家畜の世話をさせられていました。
家に帰ると,
いつも家族は既に夕食を食べていました。
食べ残しが私の夕食でした。
食べ残しがない時,私は何も食べずに,
お腹をすかせたまま寝るしかありませんでした。」
桂
「私は,2歳の時,
難民所で病気にかかって
治療を受けることができなくて,
小児麻痺にかかってしまいました。
いくつかの家族に引き取られました。
私をゴミ箱に捨てたいといった家族もありました。
最後の家族の養母は妓楼出身の人で,
養母は当時若かったので,
4,5歳だった私を1人家に残して,
よく遊びに出かけていました。
養母は私の病気をとてもいやがっていました。
あのころ,私は,まだ歩くことができませんでした。
お腹をよく壊していたし,
家をあちこち汚していました。
養母はそんな私をいやがり,
お腹いっぱい食べさせてくれませんでした。
時々,夜,私を外の鶏の籠の中に入れました。
私を殴り,
声を出して泣くことも許してもらえませんでした。
ある時,
とうとう私は,首に値札を付けられて,
市場に売られそうになりました。
そのときはとても怖かったです。
そばにいた隣の人が,
『早く土下座をして,お母さんにお願いしなさい。
大きくなったらなんでもするから,
私を売らないでといいなさい。』
と言いました。
私は,売られたくなかったから,
養母の前に土下座をして,
養母の脚にすがり,
泣きながら必死になって頼みました。
『おかあさん,私を売らないでください。
もうウンコをしないから・・・』。
その言葉が養母の心を動かしたようで,
彼女も目頭を熱くして,私を家に連れ帰り
『仕方ないね。
私はもともとおまえの面倒をみなければならない
運命なんだろうね。』
と言いました。」
斉
「中国の文化大革命の時は,
私は日本人だということは知られていたので,
いつ捕まるかとびくびくしていました。
自宅に鉄砲の弾の入った封筒がきて,
殺されると怯えたこともありました。
自分の名前が,斉藤弘子だということは
覚えていました。
けれど,
日本の名前は捨てないと中国では生きていけない
と思っていました。
中国では,日本人だったから,
小学校の先生として人の倍は働きました。」
田
「近所の子供には,『日本鬼子』
とよばれ,いじめられた。
でも,
私の養父は優しかった。
中国人だったけれど,子供の私には罪はないと,
日本人の私をかばってくれた。
優しく大事に育ててくれた。
養父がきちんと教育をうけさせてくれたので,
私は,体育学校の校長先生になることができました。
中国では幸せに暮らしていました。
1985年,
残留孤児の小説を書くために中国に取材に来た
山崎豊子さんに会いました。
『あなたは日本人だから,
日本に帰りたいと思いませんか』
と聞かれました。
そして,
私は,生まれて初めて,声に出して,
『日本に帰りたい』
と言いました。」
幸
「養父母にも友達にも,
『小日本鬼子』といっていじめられました。
私が安心して眠ることができたのは,
収穫したトウモロコシを保存する倉庫や
薪置き場か墓地でした。
誰も助けてくれない日々の中,
『日本に帰ることさえできれば,
いじめられない生活がまっている。』と,
あの時はいつも思っていました。
それだけが,私の心の支えでした。」
【歌】 北国の春
白樺 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ北国の春
季節が都会ではわからないだろうと
届いたおふくろの 小さな包み
あのふるさとへ かえろかな かえろうかな
全
「私達,ふるさとに帰りたかった!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明A】
孫
「おばあちゃん,
本当に日本に帰ってこれてよかったね。」
祖
「そうだね。
日本にずーっと帰りたかったからね。」
孫
「中国残留孤児の人達は,
いつ頃から,日本に帰ってきたの?」
祖
「政府が訪日調査を始めたのは,1981年,
日本と中国が国交を回復してから9年後だったの。
つまり,
戦争が終わってから,
36年も経ってからだったの。
終戦時8歳の子供だった私も,
帰ってきた時はもう50歳になっていたの。
日本に帰ってきた時は,本当に嬉しかったわ。」
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【照明B】
斉
「日本に帰ることには不安もあったけれど,
中国人の夫が
『帰りたいなら,一緒に帰ろう』
と言ってくれたんです。
だから,一緒に帰ってこられました。
帰国した時,ふるさとに戻ってきたと,
とてもうれしかった。
初めて,お姉さんに会いました。
会う前に,はじめて,
『おねえさん』と『おにいさん』
という日本語を覚えたんです。」
桂
「北海道から兄さんらしい人が来てくれました。
でも,
そのお嫁さんの反対で
一緒に住めませんでした。
悲しかったけれど,
私は,日本語ができないから,
一緒に生活したら
お兄さんに迷惑をかけるかもしれない
と思いました。
だから,
仕方がないと思いました。」
田
「訪日調査で日本を訪れて,
祖国の美しさ,繁栄と発展を見て,
誇りに思いました。
中国では,家もあり,
それなりの地位も名誉も手に入れていましたが,
私は日本人だから,自分の祖国に帰って暮らしたい
と思って,帰国しました。」
照
「中国の家族は日本に帰国することに反対しました。
でも,日本の説明会で
慣れるまでの生活は日本政府が面倒をみてくれる
と言ったので,
家族を説得して,帰ってきたのです。」
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【照明A】
孫
「そういえば,NHKで『大地の子』がやってたよね。
あれは,おばあちゃんたちの話だったんだね。
幸せなラストで,私,泣いちゃったわ。」
祖
「でもね,
中国残留孤児は,今,そんなに幸せではないんだよ。
残留孤児は,
50歳ぐらいになって日本に帰って来た人が多くて,
日本語が十分に話せない人が多いの。
それでも,
みんな一生懸命だったのよ。
だけど,
言葉の壁があって,きつい仕事で,
給料の安い仕事しかなかったの。
そして,
60歳になると,
日本で働いた期間が短いからといって,
少ない年金しかもらえないの。
いくら,中国では,一生懸命働いたと言っても,
だめなのよ。
だから,
今,残留孤児は約2400人いるけれど,
その70%が生活保護をうけて,生活するしかなくて,
とっても,苦労しているのよ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【照明B】
照
「日本に帰国した時,私は44歳。
日本語がわからなくて不安だった。
言葉がわからなかったから,
病気で仕事を休みたい
という電話をすることもできなかった。
そしたら,
無断欠勤扱いにされてしまった。
職場では,道具の名前がわからないから
役立たずのように扱われる。
吉田という名前を呼んでくれない。
『おいおい中国』という。
悔しい。」
田
「帰国後,まもなく,
中国に残した子ども達を日本に呼び寄せました。
しかし,
言葉が通じなくて働けないから,お金もなくて,
団地の小さな一室に
家族9人,3世代で住んでいました。
孫は,押入で寝ていました。
窮屈だし,
ずっとこのまま生活していくのかと不安でした。
働かなければ生活できないと思って,
酒屋でお酒を運ぶ仕事を始めました。
今,定年になって退職しました。
年金は5万9千円。
これでは生活ができません。
老後の生活の保障がなくて,
日本の国は,
私達を日本人だと思っていないのではないか
と思います。」
幸
「日本に来て2年目のある日,
市役所の人がやってきました。
1時間ぐらいバスに乗り,
採石場に連れていかれました。
作業服を渡されて,
『明日からここで働きなさい』
と言われました。
しかし,
私は断りました。
働けば自立できると思いましたが,
どんな仕事がしたいのか
聞いてもらえなかったからです。
まるで,私を『やっかいもののお荷物』
と見ているようでした。
その後,いくつか仕事を転々をしましたが,
いずれも体力を使う仕事でした。
日本語がわからなくて,
よく現場の人と喧嘩をしていました。
日本に来てからたくさん喧嘩をしました。
私は喧嘩は嫌い,戦争は嫌いです。
もし,50年前のあの戦争がなければ,
私たちは親と離ればなれになることはなく,
今の苦しさもなかったのです。」
桂
「近所の人たちは,私には,とても優しかったです。
時々,『あなたは,何人ですか』と聞かれます。
私は,本当はもっと近所の人たちと
いろんな話がしたいのです。
戦争の時,中国に捨てられたこと,
中国での暮らしについて話してみたいのです。
近所の人ともっと友達になりたいのです。
でも,
うまく話ができません。
病院に行く時も,
自分の症状をうまく伝えられません。
本当につらいです。
口があっても言うことができません。
目があっても,読むことができません。
耳があっても聞くことができません。
私はまるっきりの障害者です。
今の障害者年金は月6万5千円。
私のような体では仕事もできないし,
老後の生活についてとても不安です。」
斉
「私の年金は月額2万4千円。
夫は,1万5千円。
2人合わせて3万9千円。
これでは,生活ができません。
だから,
すごく不安です。
私達日本人なのに,
どうして
他の日本人と同じような生活ができないんですか。
それは,私達のせいですか。」
斉
「私達,中国では,日本人と言われ,
いじめられた。苦労もした。」
田
「でも,
ふるさとに帰ってきても,
日本人にはなれない。
日本政府は,冷たい。」
斉
「私たち,なにじんですか。」
全
「私たち,なにじんですか。」
(一拍)
田
「そして,私達は,
あと数年の老後を穏やかに暮らせるように,
日本に帰ってよかったと思えるように,
老後の生活保障を求める署名を集め始めました。
でも,日本語がうまくできないから,
署名してもらうのは大変。」
桂
「日本では私たち残留孤児のことを
何も知らない人がまだたくさんいます。
『残留孤児ってなんですか』
と言われてがっかりすることもあります。
ある時,
私が街頭で署名運動に参加した時のことですが,
戦争を体験しているはずの70歳ぐらいの方に
署名をお願いしたところ,
その方はしばらく署名用紙をみて
『お金がほしいのですか』
と言い,
そのあと何もいわずにいってしまい,
署名もしてくれませんでした。
私はとても理解できませんでした。
もっと多くの人達に,
私たち残留孤児のことを知って欲しいです。
私たちは戦争の時,親と離ればなれになり,
やっとの思いで生き残り,中国で育ちました。
みなさんは,そんなことを想像できますか。」
全
「そして,私達は,裁判を始めました。」
照
「裁判の場で,
多くの人に私達の苦難を話せてよかった。
話せて気分が楽になった。
裁判に勝利するまで頑張りたい。」
田
「国を訴えることは自分の両親を訴えるようで,
とてもつらい。
でも,
私達残留孤児は,老後の生活を穏やかに送りたい。
そのために,やむをえない
という思いで裁判を続けています。」
全
「私たち,
ふるさとに帰ってきてよかったと思いたい。」
【歌】 ふるさと
兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと
【照明アウト】
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