私たちは、60回目の「終戦記念日」を韓国で迎えましたが、韓国の人びとにとって8月15日は日本の植民地支配から解放されたことを祝う「光復節」。釜山でも、60回目の光復節を祝う式典が開催されていました。
※韓国では8月15日は祝日
安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。
また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。
安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。
※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
英語、中国語、日本語が飛び交った。
安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。
その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。
まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。
辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。
旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。
安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。
(2005年8月16日・朝日新聞「天声人語」より)
※写真は、船上で日韓の乗船客にご自身の体験と他の「残留孤児」の生活の実情等を語り、訴訟支援を訴える安達さん。