2004年9月12日には、帰国者6名、早稲田美容専門学校先生3名、生徒6名(2年生)、帰国者2世2名、支援者3名、弁護士1名が参加して行われました。
2005年1月22日には帰国者19名、先生3名、生徒12名(1年生6名、2年生6名)、2世2名、支援者5名、弁護士2名が参加しました。
担任の先生には、「この企画を生徒から相談されるまでは「孤児」問題をよく知らなかった。自分も関われてとてもよかった。今日参加した生徒たちが卒業しても続けていきたい。私のライフワークにしたい。校長にも相談して、学校として協力できるならもっと協力したい」と言っていただきました。
今後ともこの企画は続けていきたいと思います。
中国「残留孤児」国家賠償訴訟勝利
100万署名推進ニュース(関東版)
NO5 2005年1月
2005年、勝利へ展望開く年に!
3月末目標に、100万人署名達成を
新しい年を迎えました。2005年は、裁判勝利と政府の孤児政策転換を迫る運動が「正念場」を迎える年です。市民連絡会と原告団は、新年出足早く活動を開始しました。
☆署名、53万人を突破!(2004年末)
100万人署名は、2004年12月現在532,379筆に達しました。最も奮闘したのは原告団です。毎月の街頭・駅頭署名を中心に175,366筆を集めています。(東京70,619・神奈川48,774・千葉25,800・さいたま30,173)1月も神奈川・千葉の毎週日曜日の行動をはじめ東京・さいたまでも街頭に立っての行動が展開されています。支援要請訪問した団体・労働組合は500を超えていますが、途切れることなく送付されています。全農林などの国家公務員の労組、私鉄総連、東京都職員組合関係、民主団体(日中友好協会62000余他)、虹の会関係等(18000余)や関東以外の訴訟関係など多数の団体、個人からのものが35万を大きく超えました。ご尽力に深く感謝いたします。
☆3月末達成めざし、引き続きご支援を!
原告団・弁護団・市民連絡会は、東京地裁訴訟が大詰めを迎える3月を「次の大きな山場」と位置付け、「3月末までに100万筆を達成する」ことを確認し、改めて各方面に支援強化を呼びかけています。こうしたなかで新たな協力も広がっています。自治労東京は傘下の組織に「署名に取り組むよう」通達を発し、年末からそれを携えて東京多摩地区の自治体関係労組訪問を開始しました。市民連絡会世話人会では「立証佼成会に知人がいる。要請してみる」などの新たな分野への運動の広がりをめざす発言もありました。これまでにご協力いただいた団体・個人の方々も引き続きご支援強化を御願い致します。100万署名を達成するためには、後半の活動が決めてです。皆さまの、あとひとふん張り、ふたふん張りのご尽力に期待致します。
衝撃呼んだ「原告の証言」!
東京地裁の審理では、10月以降「原告尋問」に入り、10月27日・12月22日の法廷では、原告本人の「体験」を中心にした尋問が行われました。22日の証言では、帰国までの国の不誠実な対応と帰国後の冷たい仕打ちが切々と語られました。吉成財幸さんは、帰国者センター退出後の居住地を一方的に決められたことに異議を言ったところ、プレハブ小屋に入れられそうになったことを話ました。藤本淑子さんは、1990年代に厚生省宛に肉親を探して欲しいと手紙を何通も出したが、何の返事ももらえなかったことや、生活保護を受けていることから養母の病気見舞いに中国に行く際に役所から入院証明書を要求された屈辱的な経験を話しました。田中文治さんは、5歳の時目の前で実父が撲殺されたが、それは戦前の日本の侵略政策の「替罪羊(スケープゴート)」と語りました。また、長男、長女家族の帰国旅費が出なかったため家族が分断されたが、自ら仕事を見つけ身元保証人になって呼び寄せたことを話しました。じっと聞いていた裁判官も、時折大きくうなずいていました。被告(国側)の弁護人も原告に質問しましたが、ほとんど枝葉末節に終始しました。
次回は3月23日(水)に開催! 次回は3月23日(水)pm1、00から東京地裁103号で。
原告団1894人、帰国者の7割以上に!
10月4日、東京地裁に162人、12月8日に福岡地裁の中国残留日本人孤児32人が新たに提訴を行いました。これで原告団総数は1,894人になり、孤児総数の7割に達しました。内訳は、札幌85・東京1076・長野67・名古屋172・京都106・大阪140・神戸63・岡山22・広島59・高知45・徳島21・福岡32・鹿児島21です。
原告団「新年会」にご参加を!
原告団の「中国帰国者東京連絡会」(池田澄江会長)は、1月23日に「新年交流会」を開き、運動の盛りあげと裁判勝利の決意を固めます。支援いただいている皆さんのご参加を呼びかけます。
◇日時 1月23日(日)pm1、00ー5、00 ◇場所 東京土建練馬支部会館(西武池袋線・都営地下鉄大江戸線・練馬駅下車)※詳細と参加申込は、市民連絡会事務局まで。
「日中友好楼」支援を呼びかけ〜日中友好協会
12月5日に放映されたNHKスペシャルは、中国長春市にある「日中友好楼」で、残留孤児を育てた養父母の窮状を伝えました。日本の篤志家によって建てられた「日中友好楼」も老朽化し、養父母も6人しか残っていません。日本に呼び寄せるはずの養父母を、生活保護を受ける環境のため実現しなかった窮状が紹介され、その養父母が電気代にも事欠く苦しい生活を送っています。日中友好協会は、支援募金を呼びかけています。募金は、吉林省人民対外友好協会を通じて渡されます。問い合わせは、日中友好協会へ。03-3234-4700 FAX03-3234-4703
リーフレットを作成
署名推進のために「リーフレット」作成中です。リーフレットは、カラー刷り・「孤児」問題発生の「三回の棄民政策」をはじめ写真も豊富に使用して分かりやすいものにしています。無料です。ご希望があれば、早めに申し込んでください。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/1.jpg
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/2.jpg
(お願い)「孤児問題学習会」を各地で開いて下さい。弁護団、市民連絡会から講師を派遣します。原告も同行します。経費を無料です。
わたしたちなにじんですか
〜国に翻弄される人生〜
東京訴訟弁護団・弁護士 長尾 詩子
1 はじめに
中国「残留孤児」国賠訴訟の原告は、街頭で、自分たちの苦労を訴えることができなかった。でも、裁判で勝つためには、中国「残留孤児」の声を聞いたことのない人たちに、原告の味わってきた悲劇・苦労・困難を伝えなければならない。
では、どう伝えるか?人権交流集会で何をするか?
−「セリフが決まっている劇なら、日本語が多少できなくても、できるんじゃない?」「うん、それ、いいかも?」「やろう!」。ときわめて安易なやりとりの結果、波瀾万丈(?)の『わたしたちなにじんですか−国に翻弄された人生』は、始まった。
2 練習裏話
(1) 聴き取り
まず、脚本の題材集めという名目で、原告の聴き取り開始。法律事務所職員と残留孤児二世(以下「二世」)、学生が数人ずつチームを作って、原告宅へ話を聞きにいった。合計約15名ほどの原告を、約20名ぐらいの若者が聴き取りをした。聴き取りは、とにかく多くの人に聴き取りに参加してもらうことを目的に、参加者の枠は設けずに出入り自由とした。
戦争を知らない若者たちが、目の前で満州に捨てられてたった一人で生きぬかなければならなかった原告の話に聞き入った。そして、日本で生まれ育った人以上に、「ふるさと」日本を思い、やっとの思いで帰国した原告が、1カ月3万から5万円で暮らしていることを聞き、知らなかった現実に驚いた。自宅でゆったりと話を聞くうちに、原告から、中国人の夫とのなれそめを聞かされたり、原告と「友だち」になる人もいた。話が終わって、本場中国の手作り餃子をお腹一杯ごちそうになったという人もいた。
法律事務所職員・二世・学生と、なんの接点もなかった人たちが、聴き取りをして、共通の思いをもって、話をするようになった。
聴き取り感想交流会では、参加者みんなが、次々と自分が聞き取った話を話した。そして、自分たちが原告の話を聞くことで原告の心のケアができるならば、もっともっと聴き取りを続けたいという声まで出た。
(2) 脚本
聴き取り参加者のレポートから、エピソードを抜き出して、脚本を完成。
元演劇少女の私の手にかかれば、すらすらと脚本第一稿は完成(ちょっと得意!!)。大変だったのは、その後。
まず、日本語の読めない原告のために、二世の力を借りて、中国語に翻訳。ワードで送ってもらった中国語の原稿は、すべて見事に文字化け。中国語翻訳についてはパソコンが使えないということで、切り張りをして脚本を完成。
「どう?すごいでしょ?」と自信満々の私を前に、原告は、まず、「6時間話したのにこれしかセリフがないんですか??」が、第一声。
次ぎに、原告は、一気にではなく、ぽろぽろと、「ここは違う。正しくは……」と中国語で意見。ごめん私は中国語話せないのよと、二世に翻訳してもらう。それをセリフにして、脚本に反映。そうやっても、「やっぱり、ここは違う」との原告からのご指摘。微妙なニュアンスが伝われない……、身をもって言葉が通じない苦労を味わった。
(3) 練習
そして、練習。毎回、日曜日、出演者以外15名ぐらいの人が集まって行った。出演者が決まるまでも一大事。特に孫役は最後まで決まらなかった。その間は、まちだ・さがみ法律事務所の鈴木剛弁護士が、「みいちゃんはね……」と代役をした(意外と好評!)。
練習は、1日に何度も繰り返した。練習会場となった東京南部法律事務所では、毎日曜日、真っ昼間から、「北国の春」やら「ふるさと」が歌われていた。苦労したのは原告が声を合わせて話す箇所。日本語が得手でない原告は、日本語の読み方を覚えるのに必死。日本語ができても、ちょっとずつイントネーションが違う。「私たち、ふるさとに帰りたかった」など4つのセリフを、何度、練習したことか(50回は超えるんじゃないかな)。文字通り前日まで、繰り返し練習した。
原告桂さんは、おしゃれさんで、練習の時に鮮やかな花模様の上着を着ていて、「これ当日にどうかしら?」と聞いた。祖母役山川さんは、「孤児がそんなきれいなよそ行き服じゃ、生活が苦しいようにみれないわよ!」なんて言っていた(でも、山川さんは、当日、2種類の洋服をもってきて、どっちがいいかしら? なんて、みんなに聞き回っていた)。
毎日曜日、原告はみんないそいそと集まり、楽しそうに練習していた。いきなり知らない人ばかり集められて出演することになった原告たちだったが、終わるころには、みんな仲良しになっていた。
3 当 日
さすが!としかいいようがなかった。
中国では学校の科目としてお遊戯の時間があったらしい。その成果だと思われるが、原告のみなさんは、他人の前で情感たっぷりに話すことに慣れていて、本番では、練習の何倍も堂々として、自分の言葉で自分の気持ちを訴えている迫力があった。
練習時から上手かった斉藤さん、田中さんはもちろん、練習時にはちょっとうつむき加減だった桂さんも、あのヒョーキン吉成さんも、練習になかなか参加できなかった吉田さんも、すごい迫力だった。
劇の後、会場から、「中国語で意味がわからなくても、原告の方の言葉には、迫力があって、気持ちが伝わってきた」という感想があったが、ホント、そのとおりだった。
中国語のわからない私たちは、「すごい迫力!」と、ただ圧倒されるだけだった。中国語のわかる二世は、「えー、えー、また字幕以外のことを言っているー」と圧倒されたらしい。特に照明を担当していた二世は、字幕を無視してしゃべり続ける原告を見て、照明を切り替えていいのかどうか、パニック状態だったらしい。練習中から、密かに、原告が、本番になって突然、字幕を無視してアドリブで話すのではないか、と心配していたが、その心配は見事的中してしまったのである。
一部セリフの順番を無視したり、「北国の春」がワンテンポずれっぱなしだったり、細かい失敗はあった。けれど、会場のみなさんに、原告の思いは伝わったのではないだろうか。
感想交流では、いきなり、「もっと練習すれば上手くなります。上手くなって全国公演してください」というありがたい意見があった。
二世の友人から誘われて、初めて中国「残留孤児」の話を聞いたという人もいた。子連れのその女性は、子どもにもこういった話を聞かせたいといった。その子どもは、「どうして、あの人たちは中国でも日本でもいじめられるの?」と聞いたという。
感想の中で通訳をしていた二世が、「私は、自分の母が残留孤児であることが恥ずかしくて、友だちに言ったことがなかった。今日、原告のみなさんが一生懸命生きていた歴史を聞いて、そんな自分が恥ずかしく思った」と涙ながらに訴えた。それに対して、原告の一人が、「あなたたちの親は、中国でも日本人として一生懸命生きてきて、ふるさと日本に帰って、苦しいけれどがんばって暮らしているのよ。私たちの体を流れているのは日本人の血なのよ。親のことを恥ずかしく思わないで……」と答えた。
ありきたりではない感想交流だった。
4 さいごに
3月21日を目標に、原告・二世・法律事務所の職員・学生・若手弁護士で、とにかく劇をするということでがんばってきた。この経験を経て、また、広がりができてきている。5月26日には、劇の再演が決まった。
若い美容師の協力を得て、希望する原告の髪をカットして、原告のみなさんの髪も心も軽くしようという「ビューティフルライフ」(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=6)計画もある。
人権交流集会を一つのきっかけに集まった若者の中で、花見や「踊る★中国語講座」などが行われることになった。この若者パワーで、中国「残留孤児」支援の大きな流れをつくっていきたい。
※以上は、「青年法律家 号外2004・12・1・第12回人権研究交流集会報告集」より転載させていただきました。
※『わたしたちなにじんですか』は、2004年3月21日、第12回人権研究交流集会「いま平和の想像力を!−みんなで世界をつなげよう−」(於:早稲田大学)・中国残留孤児分科会の中で上演されました。
その後、2004年5月26日には、大塚うたごえ酒場 第6回「平和が一番・憲法9条を守れ!」(於:東京労働会館)、8月7日には、「共生のアジアを!フェスタ8・7」(於:明治学院大学)で再演され好評を博しています。
※脚本はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=17
2004年11月21日、東京土建練馬支部会館において
第1回「中国・帰国者まつり 〜中国「残留孤児」訴訟勝利のために〜」
(主催:帰国者まつり実行委員会
孤児訴訟原告団、弁護団、日本中国友好協会、日中友好雄鷹会
国民学校1年生の会、下町人間の会、虹の会、残留孤児2世の会
法律会計特許一般労組有志 実行委員長:岩佐一)
が行われました。
原告・支援者による演し物を楽しみ、
原告の作る餃子を食べながら原告、支援者、弁護団の交流を深め
訴訟勝利への決意を新たにしました。
また、併せて、写真展「兩个祖国」、
ビューティフルライフ(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=6)
も行われました。