特集★総批判・労働法制「改革」
◆特集にあたって………編集委員会
◆安倍政権の労働法制「改革」を批判する………浅倉むつ子
◆「働き方改革」における労働時間法制改変の表と裏………緒方桂子
◆真に求められる非正規労働法制とは何か………梅田和尊
◆解雇の金銭解決制度──これまでの議論と問題点──………中村優介
◆柔軟な働き方・雇用関係によらない働き方………竹村和也
◆「働き方改革」は女性を輝かせるか………新村響子
◆外国労働者受入れ問題………大坂恭子
司法をめぐる動き・内閣官房報償費(機密費)情報公開裁判──最高裁一部勝訴判決………上脇博之
司法をめぐる動き・1月/2月の動き………司法制度委員会
判決・ホットレポート 倉敷民商弾圧事件 禰屋裁判控訴審(広島高裁岡山支部)判決………浦野広明
メディアウォッチ2018●《「事実」はどうだったのか》「特ダネ」が政治を動かした… 「事実の隠蔽」から「文書改ざん」へ………丸山重威
あなたとランチを〈№34〉………ランチメイト・礒野弥生先生×佐藤むつみ
投稿●政治の私物化を許すな──明治維新一五〇年をふり返って──………吉田博徳
改憲動向レポート〈№2〉憲法改正を実現していく大きな責任があると発言する安倍首相………飯島滋明
トピックス●官邸前からの報告──公文書改ざんと改憲問題………久保木太一
コラム
時評●立憲主義と納税の義務──3.11と租税法律主義──………庄司慈明
ひろば●大国間の核兵器応酬の悪夢………大久保賢一
◆特集にあたって
▼本特集の趣旨
「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」。第二次安倍政権が発足した直後の安倍首相の施政方針演説での発言である。当初の第二次安倍政権の労働政策は、常用雇用の代替禁止を実質的に骨抜きにした派遣法改悪に見られるように、規制緩和一辺倒であった。その後、ニッポン一億総活躍プラン以降、「同一労働同一賃金の実現など非正規雇用の待遇改善」、「長時間労働の是正」などが掲げられるに至り、現在の働き方改革一括法案に繋がる。しかし、その一括法案には、裁量労働制の拡大、高度プロフェッショナル制度の創設など労働時間規制を大幅に緩和する「毒薬」が含まれ、規制緩和路線を放棄したものでないことが分かる。
そして、「目玉」であったはずの労働時間の上限規制は、「過労死ライン」の労働を可能とする危険性を有し、同一労働同一賃金についても現行法に多少「色をつけた」ものに留まっており、非正規労働者の待遇改善に繋がるものといえるのか疑問なしとは言えない。
その他、安倍政権が進める労働政策には問題を含むものが多くある。労働力不足を外国人労働者に補ってもらっているにもかかわらず、その人権侵害や強制労働等を野放しにする「外国人労働者の受け入れ問題」。財界の悲願である「解雇の金銭解決制度」の導入を進める議論。そもそも、労働関係諸法規が適用されない「柔軟な働き方・雇用関係によらない働き方」の促進などである。
本特集は、それら諸課題について労働法研究者、労働弁護士から論考を寄せていただいた。国民的関心の高い労働法制の問題を考える一助になれば幸いである。
▼でたらめな統計数字の続出
根拠を失った働き方改革
本特集企画後、いわゆる「裁量労働制・不適切データ問題」が明るみになった。働き方改革一括法案における「裁量労働制拡大」について首相が宣伝していた「裁量労働制の方が一般より労働時間は短い」との説明の根拠の数字がでたらめだったことが次々暴露されたのである。結果として、裁量労働制拡大は一括法案から外されることになった。目的に合わせて適当な統計を作って説得材料にする…。日本社会にはそんな習慣ができてしまっているのだろうか?
安倍首相は今年一月二九日、衆院予算委で「厚生労働省の調査によれば、裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均な、平均的な方で比べれば、一般労働者よりも短いというデータもあるということは、ご紹介させていただきたいと思います」と答弁した。首相は二月一四日にも同様に答弁し、結局これを取り消すハメになった。
つまり、これは「厚労省」調査ではなく、「労働時間の長さ」も実労働時間でなく、「比較」も本来できず、「短い」という結論も誤りだった。
▼政府に都合のいい数字に
裁量時間制拡大は、二〇一三年の労働政策審議会以来議論されてきており、政府は厚労省は労働政策研究・研修機構(JILPT)に裁量労働制と一般の働き方との比較研究を委託して調査した。ところがその結果は、裁量労働制の方が一般労働者より労働時間が長い、という傾向がはっきり出て、政府にとって都合の悪いものだった。そこで問題のデータが作られた、という。
具体的には、「裁量時間制の労働者は平均九時間一六分、一般労働者の労働時間は九時間三七分」という数字。ところがこれは、データは「平成二五年度労働時間等総合実態調査」を特別集計、一般労働者は「最長の日の労働時間」、裁量労働の労働者については「平均的な労働時間」を比較、残業時間しか把握していなかった一般労働者については、残業時間の最長に一日の上限の労働時間八時間を加えた数字を作ったものだった。
これは「何者かが担当課の職員に指示し、監督官の指導と併せまとめられた調査を使ってデータを捏造する作業をさせた」(月刊全労連二〇一八年四月号、雇用・労働法制局長伊藤圭一論文)としか考えられないものである。
国会では、この「平成二五年度労働時間等総合実態調査」には、一週間の残業が二五時間三〇分だった人の一カ月の残業が一〇時間など同じ人の残業時間が一週間よりも一カ月の方が短かかったり、一日の残業が一二時間四五分の人の一週間の残業時間が四時間三〇分になっているなど、新たに八七事業場で一一七件の異常な数値が見つかった。
労働政策は統計を基礎に論じられることが多い。その政府労働統計の基本的な信頼性が揺らいだ事態は深刻である。
法と民主主義編集委員会
(税理士・石巻市議会議員 東日本大震災被災者)庄司慈明
改憲勢力の論拠に大震災を想定した『緊急事態条項』がある。3.11の惨状を市民とともに乗り越えた者として、またヒトラーの恐怖政治誕生等の歴史を学んだ者として、「大規模災害が起きたとしても、首相が全権力を掌握する必要と必然はない」「我々被災者を利用するな」と怒りをもって訴えたい。それにしても、三権分立の危うさやマスコミの現状を見るにつけ、「軍事国家は独裁国家であるが、独裁国家は軍事国家でなくとも成立する」ことを想起する。そんな歴史的瞬間に生きてはいまいか。
安倍自公政権の唯一のとりえは、『立憲主義』という概念を多くの市民に知らしめたことだろう。ここでは立憲主義と納税の義務との関わりを実証的に論じたい。
教育・勤労・納税が三大義務であるが、教育と勤労に関する条文(憲法§26、§27)では権利とともに義務が記述されている。しかるに納税については、義務の記載だけである。
『国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う(日本国憲法§30)』これを根拠に国民の義務は強調されるが、納税者の権利についての議論はなかなか前進しない。
さらに現憲法の記述が、旧憲法と類似していることもこの状況を生み出す要因となっている。『日本臣民は法律の定むるところに従い納税の義務を有す(大日本帝国憲法§21)』
しかし、「国の元首にして統治権を総攬」する「天皇」が「統治」する手段であった旧憲法が、「主権が国民に存することを宣言」した現憲法に改正された故に、表現の類似性に関わらず本質的な前進があったのだ。国税に関する一般法である国税通則法では、2つの納税額の確定方法が規定されている。すなわち①申告納税方式(納税者の申告により納税額が確定する方式)②賦課課税方式(課税庁の処分により納税額が確定する方式)である。そして明治から昭和37年に国税通則法が制定されるまでの間における国税の多くは賦課課税方式であった(コンメンタール国通法P1152)。こうしてみると、現在多くの税制が申告納税方式である事実は、納税額の第一義的確定権を国民が有すること、つまり税制における国民主権の表現を教示していると考える。
さらに、現憲法第30条の規定は「納税の義務」は「法律の定め」により「負う」との内容であり、逆説すれば「法律の定めがなければ、納税の義務は負わない」という権利規定と筆者は理解している。
私たち東日本大震災の被災者は、最大で300万円の支援金を収受している。この法的根拠は『被災者生活再建支援法』であるが、同法21条には「租税その他の公課は、支援金として支給を受けた金銭を標準として、課することができない」と、明確な課税禁止の規定がある。
ところが、である。国税庁は通知文書に「支援金として受けた金銭に対しては、租税を課すことが法律上禁止されている」と明記しながらも、課税した。理由は「支援金の実質は、損害を補てんする保険金と同じであり、見舞金ではない」とのことだ。しかしここには二つの過ちがある。一つは確信犯的な憲法違反(法律で禁止されていることを百も承知で課税した)。二つは支援金の本質の見誤り(見舞金なのだ)。
私も激しい議論を行ったが平成23年12月20日、国税庁は支援金への課税を止めた。主権者である納税者への謝罪は一言もなく、国税庁は「震災後の実情などを踏まえ、再検討を行い」「東日本大震災以外の災害により支給された支援金についても、遡って取扱いを変更」したのである。国税庁が「踏まえた」とする東日本大震災の実情と、遡っての取扱いの変更とには何の因果関係もない。
国は過ちを認めはしないが、裁判での負けいくさは避けた。
立憲主義が課税庁の暴走をいさめた瞬間であった。
罪刑法定主義と租税法律主義、この二大原則が今後も歴史の両輪であり続けるよう不断の努力が求められる。
(しょうじ よしあき)
トランプ米国大統領は、1時間のうちに3回、「米国は核兵器を保有しているのに、なぜ使用できないのか」と外交専門家に質問したという(毎日新聞1月30日付夕刊)。理解力が欠落しているか、使用することに躊躇がないかどちらかであろう。いずれにしても物騒な話である。その彼は「力による平和を維持する」ために、「最強の軍隊を堅持する」としている(「国家安全保障戦略」)。そして、核弾頭の運搬手段(大陸間弾道弾、戦略原子力潜水艦、戦略爆撃機)を強化し、小型核兵器と核巡航ミサイルを導入し、非核攻撃に対しても核兵器で対抗しようとしている(「核態勢見直し」・NPR)。この核態勢の見直しは「ロシアや中国に加えて、北朝鮮やイランの核保有の野心や、核を使ったテロは継続的な脅威だ」としており、ロシアや中国は引き続き「戦略上の競争相手」(「国家防衛戦略」)なのである。
他方、ロシアのプーチン大統領は、複数のミサイルが米国を攻撃する動画をバックに、「探知されにくい低空域の巡航ミサイル(新型ミサイル)は、ほぼ無制限の射程距離に核弾頭を運ぶ。あらゆるミサイル防衛システムに対して『無敵』だ」と演説している(一般教書演説)。
世界の核兵器15000発の内、5000発はロシアが4700発は米国が保有しているとされる。その核超大国双方が、核兵器の近代化を競っているのである。「核兵器のない世界」への逆行であるだけではなく、新たな「相互確証破壊」(MAD)への道が再開されたかのようである。
北朝鮮の核やミサイルも問題であるが、その核弾頭の数(15ないし20)や運搬手段などを見れば、米ロなどとは比較にならないことは明らかである。「核兵器のない世界」を展望するとき、北朝鮮の核だけに目を奪われていては、その本質を見失うことになるのである。核兵器の近代化を図る米国やそれを「高く評価する」日本が、北朝鮮に対して核兵器を放棄しろと迫るのは、没論理的な強者の圧力でしかない。
北朝鮮は、ビン・ラーディンやサダム・フセインが、米国によって亡き者にされたのは、核兵器がなかったからだと考えている。元々、北朝鮮はNPTに加盟していたのだから、核兵器を保有しないという意思を国際的に示していたのである。その意思を転換したのは、米国に睨まれれば、体制転覆をされてしまうという恐怖からである。米国のアフガンやイラクに対する軍事行動からの帰結である。そして、その恐怖心は、米韓合同演習によって、塗り固められてきたのである。私は、北朝鮮に肩入れするつもりはないけれど、米国の軍事行動は非難されるべきだと考えている。米軍の圧倒的戦力のもとで、多くの民衆が殺戮される光景を見たくないし、米国は国際法の到達点を無視していると考えるからである。米国の「力による平和」という欺瞞を看過することはできない。
ところで、北朝鮮との対立を煽る安倍首相だけではなく、南北朝鮮の融和を快く思わない連中がいる。全核兵器の廃絶を語るのではなく、「北の独裁者」の核だけを問題視するという発想である。彼らは「民衆の困窮」とか「世襲」などを理由として「北の独裁者」を非難するけれど、武力衝突の危険性には目を向けないのである。戦争や経済制裁で最も困窮に陥るのは社会的弱者である。日本国の象徴も世襲である。彼らにはそんなことも、「北の独裁者」の存在が「安倍一極支配」の一助になっていることも念頭にないのである。北朝鮮を責めるだけで、日米政府の行動に異議を述べないことは、不公正である。
北朝鮮の核兵器使用は、自らの崩壊との引き換えである。トランプやプーチンの核兵器使用は、人類社会の崩壊との引き換えである。私は、「北の独裁者」に目を奪われて、本当の危険を見失うようなことはしたくない。「武力による平和」の実現が、核軍拡競争を誘引し、人類社会を滅亡へと導くことを阻止しなければならない。
(弁護士 大久保賢一)