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2004年12月01日の日記

『わたしたちなにじんですか』(報告)

わたしたちなにじんですか
   〜国に翻弄される人生〜

         東京訴訟弁護団・弁護士 長尾 詩子

 1 はじめに

 中国「残留孤児」国賠訴訟の原告は、街頭で、自分たちの苦労を訴えることができなかった。でも、裁判で勝つためには、中国「残留孤児」の声を聞いたことのない人たちに、原告の味わってきた悲劇・苦労・困難を伝えなければならない。
 では、どう伝えるか?人権交流集会で何をするか?
 −「セリフが決まっている劇なら、日本語が多少できなくても、できるんじゃない?」「うん、それ、いいかも?」「やろう!」。ときわめて安易なやりとりの結果、波瀾万丈(?)の『わたしたちなにじんですか−国に翻弄された人生』は、始まった。


 2 練習裏話

 (1) 聴き取り
 まず、脚本の題材集めという名目で、原告の聴き取り開始。法律事務所職員と残留孤児二世(以下「二世」)、学生が数人ずつチームを作って、原告宅へ話を聞きにいった。合計約15名ほどの原告を、約20名ぐらいの若者が聴き取りをした。聴き取りは、とにかく多くの人に聴き取りに参加してもらうことを目的に、参加者の枠は設けずに出入り自由とした。
 戦争を知らない若者たちが、目の前で満州に捨てられてたった一人で生きぬかなければならなかった原告の話に聞き入った。そして、日本で生まれ育った人以上に、「ふるさと」日本を思い、やっとの思いで帰国した原告が、1カ月3万から5万円で暮らしていることを聞き、知らなかった現実に驚いた。自宅でゆったりと話を聞くうちに、原告から、中国人の夫とのなれそめを聞かされたり、原告と「友だち」になる人もいた。話が終わって、本場中国の手作り餃子をお腹一杯ごちそうになったという人もいた。
 法律事務所職員・二世・学生と、なんの接点もなかった人たちが、聴き取りをして、共通の思いをもって、話をするようになった。
 聴き取り感想交流会では、参加者みんなが、次々と自分が聞き取った話を話した。そして、自分たちが原告の話を聞くことで原告の心のケアができるならば、もっともっと聴き取りを続けたいという声まで出た。
 (2) 脚本
 聴き取り参加者のレポートから、エピソードを抜き出して、脚本を完成。
 元演劇少女の私の手にかかれば、すらすらと脚本第一稿は完成(ちょっと得意!!)。大変だったのは、その後。
 まず、日本語の読めない原告のために、二世の力を借りて、中国語に翻訳。ワードで送ってもらった中国語の原稿は、すべて見事に文字化け。中国語翻訳についてはパソコンが使えないということで、切り張りをして脚本を完成。
 「どう?すごいでしょ?」と自信満々の私を前に、原告は、まず、「6時間話したのにこれしかセリフがないんですか??」が、第一声。
 次ぎに、原告は、一気にではなく、ぽろぽろと、「ここは違う。正しくは……」と中国語で意見。ごめん私は中国語話せないのよと、二世に翻訳してもらう。それをセリフにして、脚本に反映。そうやっても、「やっぱり、ここは違う」との原告からのご指摘。微妙なニュアンスが伝われない……、身をもって言葉が通じない苦労を味わった。
 (3) 練習
 そして、練習。毎回、日曜日、出演者以外15名ぐらいの人が集まって行った。出演者が決まるまでも一大事。特に孫役は最後まで決まらなかった。その間は、まちだ・さがみ法律事務所の鈴木剛弁護士が、「みいちゃんはね……」と代役をした(意外と好評!)。
 練習は、1日に何度も繰り返した。練習会場となった東京南部法律事務所では、毎日曜日、真っ昼間から、「北国の春」やら「ふるさと」が歌われていた。苦労したのは原告が声を合わせて話す箇所。日本語が得手でない原告は、日本語の読み方を覚えるのに必死。日本語ができても、ちょっとずつイントネーションが違う。「私たち、ふるさとに帰りたかった」など4つのセリフを、何度、練習したことか(50回は超えるんじゃないかな)。文字通り前日まで、繰り返し練習した。
 原告桂さんは、おしゃれさんで、練習の時に鮮やかな花模様の上着を着ていて、「これ当日にどうかしら?」と聞いた。祖母役山川さんは、「孤児がそんなきれいなよそ行き服じゃ、生活が苦しいようにみれないわよ!」なんて言っていた(でも、山川さんは、当日、2種類の洋服をもってきて、どっちがいいかしら? なんて、みんなに聞き回っていた)。
 毎日曜日、原告はみんないそいそと集まり、楽しそうに練習していた。いきなり知らない人ばかり集められて出演することになった原告たちだったが、終わるころには、みんな仲良しになっていた。


 3 当 日

 さすが!としかいいようがなかった。
 中国では学校の科目としてお遊戯の時間があったらしい。その成果だと思われるが、原告のみなさんは、他人の前で情感たっぷりに話すことに慣れていて、本番では、練習の何倍も堂々として、自分の言葉で自分の気持ちを訴えている迫力があった。
 練習時から上手かった斉藤さん、田中さんはもちろん、練習時にはちょっとうつむき加減だった桂さんも、あのヒョーキン吉成さんも、練習になかなか参加できなかった吉田さんも、すごい迫力だった。
 劇の後、会場から、「中国語で意味がわからなくても、原告の方の言葉には、迫力があって、気持ちが伝わってきた」という感想があったが、ホント、そのとおりだった。
 中国語のわからない私たちは、「すごい迫力!」と、ただ圧倒されるだけだった。中国語のわかる二世は、「えー、えー、また字幕以外のことを言っているー」と圧倒されたらしい。特に照明を担当していた二世は、字幕を無視してしゃべり続ける原告を見て、照明を切り替えていいのかどうか、パニック状態だったらしい。練習中から、密かに、原告が、本番になって突然、字幕を無視してアドリブで話すのではないか、と心配していたが、その心配は見事的中してしまったのである。
 一部セリフの順番を無視したり、「北国の春」がワンテンポずれっぱなしだったり、細かい失敗はあった。けれど、会場のみなさんに、原告の思いは伝わったのではないだろうか。
 感想交流では、いきなり、「もっと練習すれば上手くなります。上手くなって全国公演してください」というありがたい意見があった。
 二世の友人から誘われて、初めて中国「残留孤児」の話を聞いたという人もいた。子連れのその女性は、子どもにもこういった話を聞かせたいといった。その子どもは、「どうして、あの人たちは中国でも日本でもいじめられるの?」と聞いたという。
 感想の中で通訳をしていた二世が、「私は、自分の母が残留孤児であることが恥ずかしくて、友だちに言ったことがなかった。今日、原告のみなさんが一生懸命生きていた歴史を聞いて、そんな自分が恥ずかしく思った」と涙ながらに訴えた。それに対して、原告の一人が、「あなたたちの親は、中国でも日本人として一生懸命生きてきて、ふるさと日本に帰って、苦しいけれどがんばって暮らしているのよ。私たちの体を流れているのは日本人の血なのよ。親のことを恥ずかしく思わないで……」と答えた。
 ありきたりではない感想交流だった。


 4 さいごに

 3月21日を目標に、原告・二世・法律事務所の職員・学生・若手弁護士で、とにかく劇をするということでがんばってきた。この経験を経て、また、広がりができてきている。5月26日には、劇の再演が決まった。
 若い美容師の協力を得て、希望する原告の髪をカットして、原告のみなさんの髪も心も軽くしようという「ビューティフルライフ」(http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=6)計画もある。
 人権交流集会を一つのきっかけに集まった若者の中で、花見や「踊る★中国語講座」などが行われることになった。この若者パワーで、中国「残留孤児」支援の大きな流れをつくっていきたい。



※以上は、「青年法律家 号外2004・12・1・第12回人権研究交流集会報告集」より転載させていただきました。

※『わたしたちなにじんですか』は、2004年3月21日、第12回人権研究交流集会「いま平和の想像力を!−みんなで世界をつなげよう−」(於:早稲田大学)・中国残留孤児分科会の中で上演されました。
 その後、2004年5月26日には、大塚うたごえ酒場 第6回「平和が一番・憲法9条を守れ!」(於:東京労働会館)、8月7日には、「共生のアジアを!フェスタ8・7」(於:明治学院大学)で再演され好評を博しています。

※脚本はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=17