7月14日、兵庫県内の「孤児」65名が原告となっている中国「残留孤児」兵庫訴訟が、神戸地裁で結審しました。
判決期日本年12月1日午前10時と指定されました。
http://blogs.yahoo.co.jp/genkokusien/37631437.html
結審前行動の様子はこちら
http://www.geocities.jp/czk_oka/
(中国残留孤児in岡山)
神戸地裁宛公正判決要請署名
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/177.pdf
※中国「残留孤児」国家賠償請求兵庫訴訟(弁護団HP)
http://www16.ocn.ne.jp/~kojikobe/zanryukojitop.html
※中国「残留孤児」国家賠償請求兵庫訴訟(支援)
http://karen.saiin.net/~nicchu-hyogo/koji/index.html
これまで、中国残留日本人孤児等の取材を続けてこられた朝日新聞記者大久保真紀さんによる『中国残留日本人─「棄民」の経過と、帰国後の苦難』(高文研)が発売されました。
日本の敗戦により、「満州」に置き去りにされ、生きるために中国に残らざるを得なかった残留婦人・孤児たち。やっとの思いで祖国・日本に帰りついたが、そこに待っていたのは……。
新聞記者として20年にわたり、「国家」に翻弄される人びとに寄り添い、苦難の人生を見つめ続けたヒューマンドキュメント!
●目次
はじめに
T「原告番号1番」池田澄江さんのたどった60年
「日本政府は本当に冷たい」
世界一尊敬している養母のこと
養父母に預けられた経緯
貧乏のどん底へ
つのる祖国への想い
恐怖の文革時代
肉親の情報を求めて
「私の心は日本に届く」
祖国の土を踏む
まぶたの父は、父ではなかった
強制送還の恐怖
日本人なのに、日本国籍を取得できない?
正真正銘の日本人に
日本語の壁
弁護士事務所の事務員に
中国人の夫が日本社会になじむまで
子どもたちが猛烈ないじめに
娘が見つけた居場所
中国に残した養父母
奇跡の再会
「一歳」の誕生パーティー
「残留孤児」の生存権をかけて
原告団の代表として
U「強行帰国」で国を動かした12人の残留婦人
「祖国で死なせて」
「強行帰国」のリーダー
国友忠さんとの出会い
シベリアに抑留された夫は再婚していた
養家は布団もない極貧農家
「強行帰国」への準備
中国帰国孤児定着促進センターへ
記者会見で語った一二人の思い
「中国残留邦人等帰国促進・自立支援法」の成立
帰国後の暮らし
特別身元引受人との葛藤
精神的な上下関係
「国からお金をもらって、毎日遊び歩いている」
子どものためだけに生きてきた
「日本人の女の配給だ」
文革の嵐を生き抜いて
一回でいいから、中国に残した子どもに会いたい
たまたま死ねなかっただけ
五〇〇キロのコーリャンと交換で嫁に
中国から呼び寄せた家族が直面した「壁」
娘の「おしっこ!」がわからない
孫娘が弁論大会に出場
V 政府の強制退去命令とたたかった 井上さん家族の「きずな」
第二の家族離散
強制収容
二度目の強制収容
仮放免という身分
忘れられないキュウリの味
土地改革で生活が一変
帰国できなかった理由
下放された農村での生活
帰国までの長い道のり
一万円の生活保護の制約
中国に残した長女と次女を呼び寄せる
新たなたたかい──強制退去命令の取り消しを求めて
強制収容で一変した生活
敗訴──福岡地裁三〇一号法廷「棄却する」
控訴審開始
拘留一年一〇カ月後の仮放免
勝訴──福岡高裁五〇一号法廷「原判決を取り消す」
希望の歌「離れたくない」
「残留日本人」を生み出した歴史と残された課題
http://www.koubunken.co.jp/0375/0365.html
(高文研HP)
2006年5月24日、東京地裁103号法廷において午後1時30分より口頭弁論が開かれ、原告側は最終弁論を行いました。
原告側は、裁判所に提出した最終準備書面の各章(第1章 はじめに、第2章 本件請求の基礎となる事実、第3章 早期帰国実現義務違反、第4章 自立支援義務違反、第5章 被害の本質の原告らの損害、第6章 国の抗弁に対する反論、第7章 おわりに)ごとにパワーポイントを使いつつ、10人の代理人がその主張の要旨を述べ、被告国の責任を明らかにしました。
※鈴木弁護団長の最終弁論
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=166
また、病気等のため欠席した5名を含む40名全ての原告についての紹介を行い、9名の原告が最後の意見陳述を行いました。
※原告紹介及び意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=173
最後に証言台に立った原告代表の池田澄江さんは、
「私たちは、みんな高齢です。これからの人生だけでも、普通の日本人として人間らしく生きられるようにして欲しいのです。裁判官の先生、ぜひとも、この私たちの思いを受けとめてください」
と述べて陳述を締めくくり、2002年12月提訴以来約2年半闘われた裁判の審理は終結したました。
※池田原告代表の最終意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/174.pdf
審理の終結後、裁判長より、2007年1月30日午後1時30分の判決期日が正式に指定されました。
※2006年4月25日口頭弁論
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=148
※2006年2月21日証人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=140
※2005年12月22日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=125
※2005年11月8日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=113
※2005年8月31日原告本人尋問
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=91
※2005年6月1日口頭弁論(弁論更新手続)
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/diary.cgi?no=43
※全国の提訴状況(最新)はこちら
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/36.htm
裁判終了後、原告、弁護士、支援者はこれまで集まった約8万筆の「公正判決要請署名」を東京地裁民事第28部に提出しました。
※以下より「公正判決要請署名」の用紙をダウンロードすることができます。プリントアウトしてご使用下さい。
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/143.pdf
※写真は、結審後、記者会見を行う原告・弁護団
☆「本件請求を基礎づける事実」に関連して
●H.Hさん(原告番号34)
2004年11月25日、原告として法廷でも陳述しましたが、Hさんは、敗戦のわずか3ヶ月前の1945年5月に、家族とともに開拓団として満州に渡りました。当時、8歳でした。3ヶ月後、Hさんは、逃避行の末、ソ連軍との激しい交戦として有名な佐渡開拓団事件に巻き込まれ、父母、2人の姉を無くし、孤児となりました。1944年10月頃からソ連参戦の予兆はあったにもかかわらず、被告国が開拓団を送り続けたため、まさにHさんは孤児になったのです。
●U.Tさん(原告番号8)
Uさんも2004年11月25日に、原告として法廷で陳述しました。当時5歳のUさんは、母と4人の兄弟とともに逃避行し、その途中、日本人の集団自決に巻き込まれました。麻山事件です。この時、Uさんは、誰かに銃剣で頭を刺されて失神しました。気付いた時、Uさんは既に息絶えた母の死体の下になっていました。「私と姉の2人は、草の根をかじり、畑の野菜を盗んで食べ、夜は母親の遺体に抱きついて泣きながら寝るという日が何日も続きました。遺体が腐っていく臭いと「ぶーん」という蚊の飛ぶ音は決して忘れることはできません。」とUさんは陳述しています。
●Y.Tさん(原告番号24)
Y.Tさんは、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。当時8歳のYさんは、敗戦後、父母がいない中、兄として、5歳の弟の手を引き、3歳の妹を背負って、匪賊や暴民から逃げ逃避行をしました。襲撃を受けたある日、一緒に逃げていたおばさんから「おい照也、あんたの妹血が流れてる、死んでるよ。」と言われ、自分の背中で妹が死んでいるのを知りました。
●T.Tさん(原告番号13)
T.Tさんも、病気のため、残念ながら本日出頭することができません。裁判官宛てに伝言がありますので、代読します。
「私は、原告番号13番のT.Tです。体調が悪く、残念ですが、結審の法廷に参加できません。お許しください。私は、6歳のころ、中国の内モンゴルで敗戦を迎えました。逃避行の途中、ソ連軍と日本軍の戦闘に巻き込まれ、日本兵に母と妹弟の3人が目の前で射殺、私も打たれが弾がそれたらしい。中国人養父母に助けられ小学校の先生をしていたが、6年前に永住帰国しました。二度とこんな悲しい戦争孤児が発生しないように、正義の判決をお願いします。」
●清水宏夫さん(原告番号2)
清水さんは,養父から,もっぱら労働力として扱われました。朝3時に起きて家族のご飯の支度をし,一人で家畜の世話をしなくてはなりませんでした。養父母の実子は学校に行くことができましたが,清水さんは通わせてもらえませんでした。養父母の吸うアヘンを調達させられたことまでありました。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/39.htm
●Y.Zさん(原告番号35)
Yさんは,2004年12月22日,原告として法廷で陳述しました。Yさんは12歳の時,公安局に呼び出され,残留日本人の最後の引揚であると言われました。連れて行ってもらえるように泣いて頼みましたが,保護者のいないこどもはだめだと言われて,帰国していく日本人を泣きながら見送ったという経験を述べています。
●紅谷寅夫さん(原告番号33)
紅谷さんが15歳のとき,勃利県の職員が養父母の元を訪れました。紅谷さんの帰国についての相談だったようです。しかし,職員とBさんは直接会うことができず,帰国の夢は叶いませんでした。この時,孤児の実情に応じた引揚政策があれば紅谷さんは15歳のときに帰国することができたはずです。
※2005.6.1口頭弁論期日における意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/38.htm
●T.Rさん(原告番号16)
Tさんは1955年,18歳のときに日本の親族に宛てて手紙を書いています。国はこの時から登坂さんの生存・その所在まで分かっていました。しかし,Tさんは,国から帰国するかどうかの意思確認を受けたこともなく,また帰国する方法も教えてもらえませんでした。
何の情報も与えられず,帰国する術も見つけられないまま25年の月日が過ぎ,結局Tさんが永住帰国したのは1980年のことでした。Tさんは43歳になっていました。
○S.Tさん(原告番号21)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/161.pdf
○S.Kさん(原告番号28)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/162.pdf
☆「早期帰国実現義務違反」に関連して
●T.Sさん(原告番号22)
Tさんが中国に残されていたとき、近くに住んでいた残留婦人が1953年に後期集団引揚げで日本に帰国し、また親しくしていた残留孤児が国交回復前の1960年台の半ばに個別引き揚げで日本に帰国しました。Tさんも、早くから自分も日本に帰国したいと思い続け、国交回復直後から、日本大使館に手紙を書き始めました。平成16年11月25日の本人尋問で、Tさんは、繰り返し手紙を書き続けたこと、思い余って日本大使館に4日間にわたり直訴の行動をとったりしたことなどの苦労を語っています。しかし、国が身元未判明孤児の帰国政策をつくることが決定的に遅れたために、永住帰国できたのは1985年、42才のときでした。
●K.Nさん(原告番号15)
Kさんは、母親の異なる兄と一緒に中国に残されました。兄は、1953年の後期集団引揚げで帰国し、日本政府に、Kさんの生活している場所を届け出ていました。しかし、国は、中国での居場所のわかっている菊地さんに対し、直接、帰国を呼びかけることすら一切しませんでした。Kさんは1975年に一時帰国をしましたが、このときに国は、残留孤児が安心して帰国し、生活をすることを可能とする政策を全くもっておらず、菊地さんに、永住帰国の意思確認すらしませんでした。国から家族責任を押しつけられた兄も悩み続け、そのため、さんの永住帰国できたのは1991年、52才のときまで遅れました。
●I.Tさん(原告番号7)
Iさんは、後期集団引き揚げの際や、1981年頃に日本大使館に書き送った手紙に対して大使館から経歴の調査票がきたとき、あるいは1986年の訪日調査の成果で身元判明したときに、日本に帰国するチャンスがありました。ところが、国が、その時々において、残留孤児の帰国する権利を実現するために、残留孤児の特殊性をふまえた適切な政策をつくっていなかったために、結局Iさんはチャンスをいかすことができず、永住帰国できたのは1994年、56才のときまで遅れました。Iさんは、平成17年8月30日の本人尋問で、残留孤児が日本にいくことを決断することにさまざまな困難があったことを語っています。
●Y.Tさん(原告番号10)
Yさんは、実の母がまだ健在です。戦時死亡宣告制度ができるや、行政は、Yさんの母に対し、帳面の整理のために、死んだと言えと執拗に迫りました。このことは平成17年11月8日に行われた本人尋問の際にビデオを通して、母ご自身の語りとして聞きました。母に対する人権侵害と評価してもよい言動に、その後も行政は一片の謝罪もなく、本来協同し合ってYさんの所在を調査する関係にある留守家族と行政との間に、埋めがたい不信の溝ができました。Yさんが1977年に一時帰国をしたときに、国は、永住帰国に関する説明を行っていません。それは無策であったからであり、無策であることを基本方針としたからでした。Yさんは、中国の養母の問題、妻と未成年の5人の子どもたちの問題を個人で解決することを余儀なくされ、結局永住帰国は養母が亡くなった後の1989年、46才のときになってしまいました。
●T.Yさん(原告番号19)
文化大革命下で強い差別を受けたTさんは帰国への想いをより一層強くしましたが、日中国交回復後もその具体的方途を知らされず、長期間帰国を果たすことができませんでした。国ではなく、知人から訪日調査のことを知ったのは国交回復から21年後の1993年です。それから4年後の1996年、ようやく訪日調査に参加できましたが、時既に遅く、身元は判明しませんでした。それでも帰国への想いは強く、身元引受人制度を利用して帰国を果たそうとしましたが、ここでも身元引受人の斡旋を2年間も待たされたことなどにより、念願の帰国が果たせたのは戦後から実に43年、国交回復からも26年経過した1998年6月のことです。このとき既にTさんは53歳になっていました。
●N.Hさん(原告番号18)
日本に帰国して、敗戦時に別れた際、泣きながら頬にキスをしてくれた実母と再び会いたい。そんな希望を胸に、Nさんは中国での辛い生活に耐え続けていました。1976年に日中国交回復を知り、直ちに日本大使館へ手紙を3通も出しましたが、長期間返信がありませんでした。しかし、3年後に日本人ボランティアと偶然知り合うことができ、その協力を得ながら帰国手続きを進めましたが、当時はNさんのような身元未判明孤児の帰国を可能とする制度がなかったため、帰国を希望しても帰国できない状況でした。それでもNさんは待ちきれず、1986年6月、48歳の時、民間ボランティアに身元保証人となってもらい自費帰国しましたが、旅費が足りなかったため家族全員が船便で帰国しています。
●T.Tさん(原告番号27)
Tさんは、日中国交回復前から、日本への帰国を希望し続けていました。しかし、帰国の具体的方法を知ったのは、1977年、帰国意思の調査に訪れた公安局員から聞いたことがきっかけです。これを機に、1983年に訪日調査に参加した結果、叔父と再会することができ、身元が判明しました。Tさんは直ちに帰国を希望しましたが、叔父からは身元引受人となることを拒否され、帰国できませんでした。それでもTさんの帰国意思は固く、身元引受人制度を利用するため厚生省に対し、自分の身元判明認定書を取り消して欲しいという手紙を送った程です。民間ボランティアの必至の説得もあり、最終的には叔父も身元保証人となることに同意しましたが、帰国が実現したのは1989年、身元判明から6年後のことでした。
●S.Eさん(原告番号4)
Sさんも、国交回復前から帰国意思を持ち続けていたにもかかわらず、国交回復後も被告から具体的な帰国方法を知らされず、国交回復から14年の時を経て、民間ボランティアの一人だった菅原幸助氏の力を借りてようやく帰国を果たした身元未判明孤児の一人です。本日、この法廷で意見を述べる予定でしたが、先日怪我をしてしまい、この場に立つことができませんでした。変わりに菅原延吉さんご本人からメッセージを預かっていますので、以下、代読します。
「私は原告番号4番のS.Eです。足首を捻挫し、残念ですが結審の法廷を欠席させていただきます。中国の文化大革命の時、私は28歳の青年でしたが、胸に日本軍国主義の子孫と書いた布をぶら下げ、頭に三角帽子を被されて、町中を引き回されました。この裁判でデモ行進をやると、あの時のことを思い出します。裁判長殿、私のあの悔しさを忘れさせるような立派な判決を書いて下さい。」
○N.Rさん(原告番号14)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/163.pdf
○M.Sさん(原告番号40)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/164.pdf
☆「自立支援義務違反」に関連して
●T.Bさん(原告番号9)
2004年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Tさんは、1988年10月、47歳で帰国しましたが、被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語能力は身に付きませんでした。現在も、簡単な日常会話が理解できる程度で、新聞も読めません。そして、被告からの就労支援の全くない中で、仕事を探したものの日本語ができないことを理由に断られ続け、やっとボランティアの紹介で酒屋に就職できました。Tさんは、中国では、教師をし、校長にまでなりましたが、そのキャリアを生かすことはできませんでした。その後、定年退職するまで酒屋で働き続けましたが、退職後の年金は月6万円以下であり、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●A.Kさん(原告番号20)
Aさんは、身元は判明しておらず、敗戦時推定3歳でした。小学校に2年間通っただけで、物心付いたときから農業に従事してきました。1989年3月、46歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、あいさつ程度の日本語ができるだけで、食事の注文も満足にできない状態でした。現在も、新聞などは全く読むことができません。そして、被告からの就労支援のない中で、知人の伝手で工場労働者となりましたが、日本語ができないことから、重労働・低賃金を強いられ、会社の業績が悪化すると真っ先にリストラされました。退職後の年金は月5万円以下であり、Aさんも、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。第2言語(この場合、日本語)の習得の前提として、第1言語(この場合、中国語)の習得は不可欠です。原告ら中国残留日本人孤児の場合、Aさんのように、中国語の教育すら満足に受けられなかった者が大勢います。そのような孤児に対しては、特に綿密な日本語学習カリキュラムが必要だったにも関わらず、被告は漫然と短期間での学習支援しかせず、原告らの自立を支援する義務を怠りました。
●K.Mさん(原告番号25)
2005年12月22日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1985年6月、49歳で帰国しました。敗戦時10歳でしたが、日本語はすっかり忘れていました。帰国前に、独学で日本語を学んではいたものの、到底社会生活を営めるような程度ではありませんでした。しかし、所沢定着促進センターでの4ヶ月間の日本語教育しか受けることはできませんでした。その後、被告からの就労支援のない中で、病院の清掃の仕事に就きましたが、日本語ができないため苦労をし、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●K.Eさん(原告番号26)
2005年8月30日、原告本人尋問を行いましたので、簡単に紹介します。Kさんは、1991年7月、49歳で帰国しましたが、やはり被告が用意したたった1年間の日本語教育では、ほとんど日本語を習得できず、しかも就労後に日本語を使う機会がなかったため、現在では日本語は全くと言っていいほど話せません。買い物もままならず、生活すること自体が困難な状況です。Kさんも、被告からの就労支援のない中で、自力で探した清掃会社で働いていましたが、退職後は、生活保護を受給しなければ生きてはいけない状況に追い込まれています。
●F.Yさん(原告番号29)
2004年12月22日、本人尋問を行っています。Fさんは、1997年、53歳で帰国しました。Fさんが初めて厚生省に手紙を出してから8年以上経っていました。子どものころは成績もよく、中国で働いていたころは記憶力がよいと言われていたFさんですが、日本語を話すことがどうしてもできません。帰国が遅れ、年をとってから日本語を勉強しなければならないからです。Fさんと夫は、職業訓練校に通って技術を身につけようとしたのですが、生活指導員から「合格するはずがない」と強く言われて、諦めざるを得ませんでした。結局、Fさんと夫は、帰国後一度も就職できず、ずっと生活保護を受給しています。
●S.Tさん(原告番号30)
2004年11月25日に本人尋問を行っています。Sさんは、47歳で帰国しました。Sさんは、初め、日本語ができなくとも働けるリサイクル会社に就職しましたが、日本語で話ができるようになりたくて、3ヶ月で仕事を辞め、6ヶ月間、拓殖大学の日本語学校へ通って勉強しました。しかし、日本語の勉強を始めるのが遅いし、合計約1年の日本語教育では、挨拶ができる程度にしかなりませんでした。資格を取って働きたかった齋間さんは、職業訓練校にも通いました。しかし、教科書も授業も日本語で、通訳もいなかったため、ほとんど何にも身につきませんでした。Sさんは、帰国する前は、中学校の校長をしていましたが、帰国後は、単純な清掃の仕事しかできませんでした。今は、生活保護を受給しています。
●Y.Rさん(原告番号32)
2005年11月8日、本人尋問を行っています。Yさんは、1985年に44歳で帰国しました。Yさんは、日本で簿記の資格を取り、経理事務として就職しました。しかし、電話に出ることができないし、最初の頃は、同僚や上司の話している内容がわからず、どの勘定科目に入れるのかもわからず、たいへん苦労したそうです。また、定年退職後の再雇用で、差別を受けました。Yさんの年金額は月4万2000円で、現在、生活保護を受給しています。
●S.Kさん(原告番号38)
Sさんは、33歳ごろ、日本へ帰りたいと中国の日本大使館を訪れています。しかし、Sさんが実際に日本に帰ることができたのは、13年後の46歳でした。消息の把握が困難だったから早期に帰国させることは難しかったという国の主張は成り立ちません。Sさんは、定着促進センターでの4ヶ月の日本語教育しか受けておらず、日本語を話せるようにはなりませんでした。中国で軍医として活躍していたSさんですが、46歳から日本の医学部で資格を取り直すのは、ほとんど不可能です。Sさんは、せめて鍼灸師として働きたいと思い、孤児のための援護基金からお金を借りて、専門学校に通い始めました。ところが、生活保護の担当者に、専門学校に通うのであれば生活保護をうち切るといわれ、専門学校への通学を断念させられました。Sさんは、結局働き先が見つからず、ずっと生活保護を受給しています。
○S.Hさん(原告番号5)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/167.pdf
○I.Yさん(原告番号37)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/168.pdf
☆「被害の本質の原告らの損害」に関連して
●K.K(原告番号3)
Kさんは、中国で青年期を迎えたときに、日本人であることを理由に大学受験で不合格になり、また交際相手の両親から結婚を反対されました。平成16年10月27日の原告本人尋問で、Kさんはそうしたつらい体験をしたときの心情を「人並みの権利をもっていない、奴隷のような気持ち」と述べています。中国における残留孤児の立場を象徴的に表した言葉でした。
●N.Sさん(原告番号31)
Nさんは、戦時死亡宣告により戸籍が抹消され、その回復の際に妹と取り違えられたため、22年間、死亡していた妹の名前を名乗って暮らしました。平成16年11月25日の原告本人尋問で、Nさんはその時の複雑な心情を「長い間亡くなった人の名前を使ってきて、気持ちがよくなかった」と表現しています。戦時死亡宣告はこんな悲劇も生んでいたのです。
●池田澄江さん(原告番号1)
池田さんが、昨年である平成17年12月22日の原告本人尋問で述べた内容は、まだ記憶に新しいことと思います。池田さんは、中国においては日本人として差別を受け、日本においては中国人として強制退去の危機に瀕しました。中国でも日本でも心の安まるときのない人生だったと言わざるを得ません。
●N.Yさん(原告番号36)
Nさんは、帰国後夫が病気になり、病院にかかろうとしましたが、言葉が通じず、5箇所も病院をたらい回しにされました。やむなくNさんは、夫に治療を受けさせるため、約70日間、中国に戻りました。この間、生活保護の支給が止められてしまいました。しかも、Nさんが生活保護の再開を申し出たとき、5400円しか入っていない財布の中身を調べられました。その後も毎日のように福祉事務所から所在確認の電話が入るようになりました。これが、自らの政策で60年も辛苦の人生を送らせた人に対する国の処遇なのです。
(本人からのメッセージ)
現在、私は生活保護を受けていますが、毎日監視されているようで屈辱的な思いをしています。自由に中国に行けないことも辛いです。
生活保護は私たち中国残留孤児にはそぐわない制度です。このような場当たり的な対応ではなく、老後を安心して生活できるようにして下さい。
●W.Tさん(原告番号11)
Wさんは、6歳の時に母親と別れ、養父母に育てられることになりましたが、養父母からも虐待を受け、首吊り自殺を図るほど苦しみました。国交正常化から16年も経過した昭和62年に訪日調査のことを知らされ、急いで調査に参加しましたが、とうとう肉親を見つけることは出来ませんでした。平成元年に日本に永住帰国した時には、すでに、48歳となっており、日本語が修得出来ず、職場でも陰湿ないじめを受けました。いまだに「いらっしゃい。」「ありがとう。」等の簡単な挨拶程度の日本語しか話せません。これらは、まさに、帰国が遅れた上、不十分な自立支援しか受けなかった為に、生じた被害と言わざるを得ないのです。
●H.Kさん(原告番号12)
Hさんは、生後8ヶ月で養父母に預けられ、日本人であることをひた隠しにして、育てられました。手を失うという障害を抱え、しかも、生活の苦しかった養父らに育てられたため、Hさんは、小学校すら通わせてもらっていません。平成8年に訪日調査の存在を知らされ、平成10年に永住帰国していますが、このときすでに54歳になっていました。中国語も学べなかった原告が、この年齢になってから日本語を習得することがいかに難しいかということは、容易に想像出来ると思います。このため、Hさんは、就職もことごとく断られ、日本に帰国して以来、ずっと、生活保護で生活せざるをえなかったのです。そのため、Hさんは、現在、木の葉を干してお茶代わりにするなど、切りつめた生活を余儀なくされています。この結果は、まさに、被告の帰国政策・自立支援策の誤りが露呈したものです。この悲惨な現状を原田さん個人に押しつけ放置するわけにはいきません。
●T.Hさん(原告番号17)
Tさんは、歴史的にもまれに見る悲惨な事件として有名な、麻山事件の奇跡的な生き残りです。昭和55年、44歳の時に永住帰国しましたが、この時点では、国は、日本語教育の施設を設けておらず、Tさんは、帰国後、国から日本語教育を一切受けられなかったのです。現在、Tさんは、これまでの苦労が体にでてしまい、糖尿病、高血圧、気管支炎などの様々な病気を抱えており、医師からは、すぐに手術が必要であるとまで言われていますが、それも費用が捻出出来ずに控えている状態です。現在の生活は、年金で何とかまかなっていますが明らかに困窮しており、見るに見かねた近所の人が米や野菜を持ってきてくれるので、それで食事をまかなっている様なありさまなのです。このように、国が早期帰国を実現し、しかも、その後の日本語教育を中心とする自立支援策を充実させていれば、現状は今とは全く違ったものになっていたでしょう。
●K.Y(原告番号23)
Kさんは、2歳で養父母に引き取られ、その後養父母が3人変わっています。日本には、肉親を探したい一心で、平成2年に永住帰国していますが、このときすでに、47歳となっていました。兄らしき人と血液鑑定を行ったものの、国から親族ではないという書面が来ただけで、その根拠となる鑑定結果等は最近に至るまで開示されませんでした。未だに肉親は判明していません。Kさんは、右半身が不随ですが、センターを出た後、国からの援助はまったくなく、自力で民間のアパートを探し入居しました。しかし、1年半ほど経過した後、国から県営住宅の4階をあてがわれました。これも、孤児の個別の実情を全く無視した政策であると言わざるを得ません。また、現在、生活保護を受給していることについて、Kさんは、自分自身も40年以上生活してきた中国に行って、養父母の墓参りをしたい、中国の親戚とも会いたい、しかしながら、生活保護ではそれがかなわない、と悲痛な訴えを陳述録取書にて述べています。生活保護がいかに中国残留孤児である桂さんの様な人にそぐわない制度であるかは、一目瞭然です。
○Y.Hさん(原告番号6)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/170.pdf
○H.Tさん(原告番号39)意見陳述
http://www.jdla.jp/cgi-bin04/column/zan/upfile/171.pdf
最 終 弁 論 要 旨
2006(平成18)年5月24日
原告ら訴訟代理人
弁護士 鈴 木 経 夫
弁論を終えるに当たって
1 中国「残留孤児」の経験を共感をもって受け止めるのは難しい。
我々代理人は、多くの残留邦人と会い事情を聞いてきた。未判明孤児の原告番号18番・NHについても、2人の代理人で3回にわたり、各回長時間をかけて事情を聞いた。ところができあがった「聴取書」を日本語のできる娘が読んで、「中国での私たち家族のあの苦労や、なんとしても日本へ帰るとの母の強い決意は伝わってこない。」と批判された。特に僻地にあった農村に下放されて、中国の大飢饉のなかを生き延びたときのこと、毎日の体力ぎりぎりの労働、小学校にも行けずに食べるために働いたこと、村での日本人に対する虐め、そこでの母の頑張り、苦労等に関してであった。そのような記述と現実とのギャップは、やはり言葉の壁が大きな原因であり、さらに中国で充分な教育を受けていない孤児たち自身の表現力の問題も関係していると思われる。しかし最大の問題は、逃避行を初めとして、中国で孤児たちが体験した凄惨ともいうべき実情が、現代日本の社会からはあまりにもかけ離れていて、その場面やそのときの孤児の立場に、私たちが共感を抱くことが困難だということにある。恐らくその点においては裁判官におかれても、我々と同じ立場であろうと思われる。是非そうした見地から、孤児たちの主張・陳述を今一度検討していただきたい。
2 早期帰国実現及び自立支援について被告は法的義務を否定してきた。
被告は、政策の立案過程でも、本件訴訟でも、一貫して孤児の早期帰国の実現、自立支援について、法的義務を否定している。被告がそれに関して策定し、実行してきたいろいろの施策は、法的義務否定に対応して、手薄で、実効性に欠け、また、時期遅れのものであった。再論は避けるが、早期帰国の関係で国交回復後だけを見てみても、肉親探しの開始は遅く、その対象人数は限られた。
未判明孤児が帰国できるようになったのは1985年からであり、さらに制度自体に問題のあった親族の身元保証人、親族からの旅費の請求、その弊害を是正するための特別身元保証人制度ができたのは、実に1989年である。しかもその実効性にも問題があった。自立支援についても、日本語の習得、職の斡旋、日本の社会との交流をはじめ、被告の各施策は、それ自体に問題があるうえ、さらにそもそも実効性に欠けていた。
ずっと遅れて、1994年「残留婦人のいわゆる強行帰国」を契機に議員立法で成立した「自立支援法」について、やっと制定されたこの法律についても、厚労省は立法そのものに反対し、また、法施行後も、「この法律は、これまでの施策を法文化したものにすぎない」と公言してきた。当然のこととはいえ、その後施策の根本的な見直しはされず、同法施行後12年が経過し、現在に至っているのである。被告の支援策も、経済的な自立だけから見ても。失敗は明かある。
被告には、国自体が主体となって残留邦人を帰国させるという政策はなく、それを個人の責任としてきた。しかし、私人間で重大な基本的人権の侵害があり、それに国が規制権限を行使するような場合とは異なり、本件は国自体が重大な人権侵害状況を作り出したのである。被告が、そこから孤児を救済するための法的義務を負担していることは明らかで、かつ、その義務を実現するための時期、方法等について被告が有する裁量の幅は極めて狭いと解すべきである。
早期帰国実現及び自立支援に関し、被告国の法的義務の有無につき、裁判所に対し的確な判断を求めたい。
3 この裁判で何が問われているか。
再び旧満州のあの場面に戻りたい。敗戦の年とその翌年の越冬期に孤児となって流浪し、あるいは中国人に引き取られた孤児は、いったいどれだけいたであろうか。原告番号39番のHTもその一人である。彼は3人の養父から3回追い出され、その度にただ一人で路上生活をし、最後に病気で、恐らく栄養失調であろうが、路上に倒れたが、助けられ、辛うじて生き延びることができた。東北3省だけで同じ運命に陥った10歳程度の孤児がどれだけいたろうか。原告Hは生きることができた。しかし、死んだ孤児も多かったであろう。実際は生き残った方が少ないのかもしれない。
中国の地で死んだ人の遺骨採集の旅はいまでも継続されている。骨となっても、骨だけでも祖国の土に埋葬され、祖国の土で眠りたいと思っているだろうと感じ、遺骨を採集するのである。骨となってもそうなのだ。ならば、生きて肉も血も心もある生身の孤児が祖国に帰りたいと希求する。これに最大限の誠意で応える。あまりに当然のことではないであろうか。
これに、このことに、国家は誠実に応えたか。これが本件の争点である。この人格の最も根元的な場所から希求される権利に応える国家の義務は、その当時の国家の対応し得た客観的な方法の中で、最も高度で誠実な水準を満たしていなければならない。本件で、被告に問われている義務は、国家にとっても、国民に対する最も基礎的な、最も根元的な義務の履行だからである。裁判所におかれても、本件は、自国民に対する国家の誠実義務が問われるているのだという深い認識を持っていただきたい。
4 被告の準備書面について
被告の最終準備書面は、基本的にはこれまでの繰り返しで、新しい視点があるわけではなく、特に付け加えるまでもなく、これまでの原告の主張で充分に対応していると考える。
ただ、原告の個人準備書面に対する反論、初めての事実主張についての認否、反論ともいえるが、これは充分にこちらの主張、立証を検討してのことであろうか。若干具体的に反論したい。たとえば、原告番号18番のNについてで ある。原告Nは、遅くとも1976年頃から北京大使館に帰国したいとの手紙を何回も書いている。当初の3年ほどは何も返事はなく、結局帰国まで約1 0年ほどかかっている。それも、帰れたのは国の帰国手続に乗ったのではなく、奇跡的に献身的なボランテイアに出会えたからである。しかも自費による帰国である。そのまま国の手続に乗っていれば一体何時帰れたのであろうか。原告Nについての早期帰国実現義務違反は、むしろ明らかと言うべきである。
次に原告番号21番の原告STについてである。被告は死亡宣告後も調 査を続けていた旨主張する。しかし、原告Sに対してはその片鱗も認められない。もし被告が荒川村に調査を依頼したとすれば、同村は機敏に対応したであろう。なにしろ、国交回復後であるが、村自体で捜索隊を出したほどである。そもそも、究明カードを精査しても、死亡宣告された各原告について見ても、国が死亡宣告後に何らかの調査等をした形跡はまったく見あたらない。被告の主張は失当である。なお、多くの原告についても、「生活保護を受給しているから自立支援義務違反はない」との趣旨の記載がある。厚労省は、生活保護からの「脱却」称して「自立」と言ってきた。生活保護でしか生活できない状況に追い込んで、自立支援義務に反してないとするのは、何とも理解に苦しむのである。
5 終わりに
ところで、被告の早期帰国実現に大きな懈怠があることは、各原告の帰国時期からも認めることができる。もう10年早く帰国できていたら、原告らの自立の条件は異なっていたであろう。そしてまた、被告の自立支援策が失敗であったことは、実際に孤児の日常生活を見ると明らかである。自立できず、生活困窮者となって生活保護を受給し、さらに、周囲から疎外され、孤立し、「これでも日本人なのか」と自問するのが、孤児たちの毎日である。
外に目を転じても、今回の大戦終了後60年を経過して、戦争の末期に外地に取り残された自国民の問題を解決できていない国はないであろう。事例は異なるが、アメリカが、日系人の強制隔離に関して、その過ちを認めて謝罪し、損害について補償をしたことは記憶に新しい。恐らくこれで日系人も、アメリカが祖国であり、自分もアメリカ人であるとの実感を抱いたと思われる。原告らは被告に対し、中国に長く放置し、早期帰国を実現せず、かつ自立支援も怠ったことにつき、謝罪と補償に代るものとして、損害賠償を求めたのである。
本準備書面によって、原告は、被告の法的責任、原告に対する被告の権利侵 害、共通損害の発生等、判決に必要な論点について明確にしたと考える。提出 した各証拠で、立証も尽くしたと思料する。
中国「残留孤児」たちが、自分たちは見捨てられているのではない、やはり 日本へ帰ってきて良かった、我々は日本人である、日本は祖国であると胸を張っていえるような明快な判決を求めたい。