さらに、原告団代表の宇都宮孝良さんが意見陳述を行いました。その内容は以下のとおりです。
1 私は原告番号1番の宇都宮孝良です。12月1日、残留孤児神戸訴訟について、神戸地裁は、国の責任を認める原告勝訴の判決を言い渡しました。原告が勝ったとのテレビの速報が流れたとき、胸が熱くなり、涙がこぼれました。私たちの長かった苦しみにようやく光が差し込んだと感じました。
2 神戸地裁判決は、「戦闘員でない一般の在満邦人を無防備な状態に置いた戦前の政府の政策は,自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であった」と認定した上で、戦後の政府には,可能な限り,その無慈悲な政策によって発生した残留孤児を救済すべき責任があると認定しています。
私の場合も、父を根こそぎ動員で奪われ、ソ連軍が侵攻してきたとき、母は、当時4歳だった私と姉を連れ、千振から佳木斯まで命がけで避難しました。しかし佳木斯の難民収容所にたどり着いたところで母は体調を崩してしまい、まともな治療も受けられず、母は、そのまま収容所で亡くなり、私は、中国人の養父に引き取られたのです。
もし、国が、開拓団民の安全を第1に考え早期に避難させていたら、また、父が動員されていなかったら、私たち家族は、日本に引き揚げてくることができたかもしれません。私が中国人の養子となり,中国に留まることになったのは,まさに,「自国民の生命・身体を軽視する無慈悲な政策」の結果に他なりません。
3 また、神戸地裁判決は、自分の本当の親兄弟に会いたい、あるいは、祖国の地に帰還したいという残留孤児の願望は、人間としての最も基本的かつ自然な欲求の発露にほかならない、と述べていますが、私も、養父に引き取られたときから、日本に帰りたい、父や親族に会いたいという思いをずっと抱いてきました。しかし、何の情報もなく、どうすることもできませんでした。
1972(昭和47)年、日中国交が正常化し、同時に文革も下火になり、日本人探しを始めました。人づてに佳木斯にも日本人がいることが分かり、残留婦人の一人に手紙を書いて貰い、日本の厚生省に出して貰いました。日本名や家族の名前、出身地などは覚えていなかったので、収容所の名前・場所、母・姉とはぐれた場所、養父母の名前・住所などを書きました。その後も厚生省には何度も手紙を書きましたが、返事は来ませんでした。
日本大使館にも4、5通手紙を出しましたが、大使館から、整理番号が第5959番であるとの知らせがきただけで、同封されていた調査用紙に必要事項を記入して送りかえしても、それに対する返事はありませんでした。
その後1978(昭和53)年頃、同じ佳木斯に住んでいる女性の残留孤児の身元が分かったのです。その人も私と同じように父親を捜すために、残留婦人に頼んで手紙を書いて貰って厚生省に出したところ、運良く身元が分かり、父親が見つかったのです。この残留孤児が、同じ原告の一人である森実一喜さんです。
森実一喜さんは、私より1歳年下ですが、終戦時、母親と一緒に佳木斯の収容所にいたことがあり、またいろいろ話を聞いてみると、私と同じ開拓団にいた可能性があることが分かりました。
そこで、森実さんの父親だったら私のことについて何か知っているかもしれないと思い、わらにもすがる思いで、残留婦人に頼んで、森実さんの父親に手紙を書いて貰ったのです。そのとき私が11歳くらいの時に撮った写真を入れておきました。
この写真が決め手となりました。森実さんの父親は、その写真を見て私が宇都宮孝良であると思ったそうです。
その後、森実さんの父親から手紙が届き、私の名前や家族のこと母の実家の住所などを教えてもらいました。
こうして、私の身元が分かり、1981(昭和56)年の第1回訪日調査に参加し、翌1982(昭和57)年3月17日、家族と一緒に帰国することができました。
国は、当初、身元の分からない孤児の帰国を認めない方針をとっていました。そのため、帰国するには、自分の身元を証明しなければなりませんでしたが、国は、私の身元調査のために殆ど何もしてくれませんでした。私は、森実さんのおかげで運良く身元が判明しましたが、それでも10年近くの歳月がかかりました。もし、国が、孤児の身元調査を積極的に行い、身元の判明・未判明にかかわらず、帰国を希望する孤児を何の制限も設けずに帰国させるという方針をとっていれば、私は、どんなに遅くとも日中国交回復直後に帰国することができたはずです。神戸地裁判決は「日中国交正常化時に若くはなかった残留孤児の帰国をいたずらに遅らせ、残留孤児の高齢化を招き、残留孤児が日本社会に適応することを妨げたのであり、残留孤児に対する政治的に無責任な政府の姿勢は強く非難されて然るべきである」と述べていますが、正に私はその実例に他なりません。
4 また、帰国してからも国は、私たちに対し、殆ど何の援助もしてくれませんでした。当時は定着促進センターなどなく、私たちは、愛媛県西宇和郡三瓶町の町営住宅に住むことになり、私は、近くの浜田電機工場に勤め、船舶の修理の仕事に従事しました。しかし、給料も安く、他に仕事は見つからず、なんといっても日本語を習うところがなかったのが困まりました。
そこで、1983(昭和58)年2月頃、友人の太田昇さん(佳木斯に住んでいた残留孤児)を頼って、東京に出ることにし、江戸川区平井の民間アパートに移り住みました。職安の紹介で、理研金属工業鰍ノ勤め、新小岩の電車修理工場で働き、夜は、小松川中学校で開いている日本語夜間学校に通いました。2年間ここで日本語を習いましたが、簡単な日常会話はできるようになっただけで、複雑な会話は今もできません。日本語ができないために職場内でもいろいろな差別を受けてきました。
神戸地裁判決は、「拉致被害者が自立支援を要する状態となったことにつき,政府の落ち度は乏しい。」「これに対し、残留孤児が自立支援を要する状態となったのは政府の措置の積み重ねの結果であるから」、残留孤児に対する自立支援策が、拉致被害者に対する支援策よりも貧弱でよいわけがない、と判断しました。
しかし、国は、私に対して、日本語学習支援、就労支援を全く行わず、その後の孤児に対する支援策も拉致被害者に対する支援策に比べて極めて不十分なものでした。
5 神戸地裁判決は、私たちの訴えに耳を傾け、国の責任を明らかにしました。現在、全国に約2200名の原告がいますが、みな神戸地裁判決に確信を持ち、全国の代表数百名が東京に結集して、12月1日から、連日、国会議員を訪ね、この意見書の末尾に添付したパンフレットを渡して、中国残留孤児問題の全面解決を訴えてきました。同時に、厚労省前に座り込み、この判決を踏まえ、首相や厚労省に対し、私たち孤児が老後を安心して暮らせるよう政策を作って欲しい、そのために私たちとの話し合いに応じて欲しいと、連日訴えてきました。しかし、厚労省は、私たちとの話し合いに応じようともせず、12月11日、不当にも控訴をしてしまいました。
私たちは、終戦時に国から見捨てられ、その後も長い間放置され続けてきましたが、今回の控訴で、国から再び切り捨てられたという思がします。どこまで私たちを苦しめれば、国は満足するのでしょうか。
原告団は,みな高齢になっています。今は生活保護に頼らず頑張っている孤児も、働けなくなれば、生活保護に頼らざるを得なくなってしまいます。現在、孤児が置かれている現状では、社会的地位も、人権も、自由もありません。
私たちに残された人生は長くはありません。裁判官の皆さん、苦労に苦労を重ねてきた「孤児」たちが、せめて祖国での老後を安心して暮らせるようにして下さい。そのために、ぜひとも、神戸地裁判決を超えるすばらしい判決を出していだき、1日も早く中国残留孤児問題を全面的に解決できるようにしてください。
このことを、強くお願いして、私の意見陳述を終わります。