プロフィール

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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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No.3の記事

日本の民主主義についてA

 さて前回、明治期の日本の「近代化」=西欧化について述べたが、いま一度そのことについて触れておきたい。
 明治政府が「近代化」を急いだのはー明治20年代にはほぼ「近代的」法制を確立したー一つには、幕末に泰平の夢から目をさましてみると、日本の目と鼻の先で欧米列強が植民地争奪戦を繰りひろげており、日本も植民地化されるのではないかと恐れていたことが挙げられよう。時代はまさに帝国主義真っ盛りの時期であった。年代史的にみても1840年から42年にかけて有名なアヘン戦争があり、清国は、わずかなイギリス軍に敗れている。当時の日本人は中国を大国だと信じていたから、この知らせは日本の知識人に大きな衝撃を与えた。つづいてイギリスは、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシア、シンガポールへと植民地を拡大し、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、アメリカはスペインとの戦争に勝利しフィリピンをスペインから奪った。明治維新に前後する時期にこれらの事件が、相次いで起きているのである。
 いま一つには、幕府が幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を改正するためであった。不平等条約を改正するには、欧米諸国に近代国家として認知してもらう必要があった。そこで明治政府は、徹底して西欧諸国の制度の導入―徹底した西欧の模倣―に走った。たとえば明治憲法が発布された後、1889(明治22年)年7月から約一年をかけて、伊藤の配下である金子堅太郎が、伊藤編集の『憲法義解』をたずさえて欧米諸国を訪れている。その目的は、「彼国議員内部の組織を始め議事規則、議員建物の管轄、院内の警察権、議事の速記」といった「憲法統治の実況」を調査することであったが、同時に重要な任務は、明治憲法に対する欧米諸国の評価を知るためであった。つまり近代国家の憲法として認知されるかどうかを調査するためである。「明治憲法お披露目の旅」とも言われている。金子の帰朝報告を聞いた伊藤は、次のように語ったという。
 「吾輩は君が出発してから帰って来る迄小田原の別荘にて、日夜どう云ふやうに欧米の政治家や憲法学者が批評するかと内心びくびくして居ったが、今君から詳しい報告を聞いて安心した」(以上、瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』189ページ、196ページ)。
 このように西欧文明が日本に奔流のように流れ込み、日本人はそれに圧倒され、根深い西欧コンプレックスが生まれた。そのコンプレックスから日本人が免れたのは、そう遠い昔のことではない(しかしそれに代わってアメリカへの政治的、軍事的な従属と経済政策・企業経営の在り方についてのアメリカ・モデルへの信仰が生まれている)。そのため逆にそれに対するリアクションが生まれた。和魂洋才の思考がそれである。西欧文明に対抗する和魂の典型が教育勅語である。科学技術や物質文明は、西欧を受け入れるとしても、日本人の魂は失わないというわけである。しかし外国文明に対する対抗意識は、これに始まったわけではない。和魂洋才の前には和魂漢才と言った。漢は、いうまでもなく中国である。少しく余談になるが、幕末までの長い間、日本は中国文明の影響下にあった。それへの対抗意識から本居宣長らの国学が興った。と、私は見当をつけて、以前から本居宣長に目をつけていた。子安宣邦さんの『本居宣長』(岩波現代文庫)を読んでみると、果たせるかな宣長が、中国文明に対して強烈な対抗意識をもっていたことが歴然としてくる。これは対中コンプレックスの裏返しにほかならない。歴史をみていると、どうも日本人は、日本に影響を与えた外国文明に対するコンプレックスと対抗意識をもちつづけてきたように思えてならない。それが日本人の意識の流れの通奏低音になっており、なにか事があると、それが表面化してきたように思えてならない。1990年代後半からの歴史修正主義(自由主義史観と呼ばれた)の台頭と横行もー日本を戦争のできる国にするという政治的背景があったことはもちろんだがーこのような日本人の通奏低音の表出と考えられる。なにしろ80年代にJapan as number one と賞賛されていた自慢の経済が長期低迷へと落ち込み、なんとか建て直しをしようと予算のばら撒きをした結果、財政も破綻情況になってしまったのだから。自殺者がここ数年3万人を超えるという有様である。こうした自身喪失が自画自賛の歴史修正主義を生む土壌となったと考えられる。
 もう少しおしゃべりを続けたい。1894(明治27)年、志賀重昂(しげたか)という人が『日本風景論』という本を書いている。そのなかで彼は、「霊峰富士」を初めとしてわが国の風景や四季の移ろいの美しさを礼賛しているが、随所で「烈々たる敵愾心を燃やして、諸外国と日本の風景を対決させている。いわく、イギリスの詩人はその秋を讃えるが、かの国に見事な紅葉があるか。日本にはあるぞ。・・・一つでも火山があるか。日本にはそれはもうあるぞ。・・・ことに支那は最悪だ」(浅羽通明『ナショナリズムー名著でたどる日本思想入門』99ページ)。この本が日清戦争の年にベストセラーになったそうである。ここまでくると、なんだか馬鹿馬鹿しくなるし、どうみても子どもじみている。戦前・戦中の日本の教科書や最近の「つくる会」の教科書をみる思いがする。この本の岩波文庫’(1995年新版)には、志賀の先輩である内村鑑三の当時の書評を掲載しているが、「内村は、ハワイの火山、ナイアガラの瀑布、マッターホルンの高峰、アラビアの大砂漠、エベレスト山(チョモランマ)などを、一つでも匹敵すべきものが日本にあるかといわんばかりに羅列して」志賀の論を揶揄している(同書100ページ)。私は、これを読んで思わず吹き出してしまった。これまた日本人の視野の狭さを、これでもかこれでもかと見せつけられる思いである。
 もちろん私は、現在の日本人の自身喪失を嘲っているわけではない。日本のすぐれたところは、日本人として認識し誇りに思うべきだと考えている。しかし臭いものには蓋式の歴史修正主義では困る。日本国、日本人あるいは日本文明のよいところ劣っているところを、もっと客観視することが必要だと言いたいのである。そのためには諸外国にも、それぞれにいいところがあること、日本のいいところも、そのなかの一つであると相対化して考えるべきである。今のように日本人の多くが精神の余裕を失っているようでは、それがむつかしいのである。
 大分長くなったので、ここらで一旦終えることにする。