プロフィール

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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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No.6の記事

日本の民主主義についてD

私事にわたって恐縮だが、何年か前にパリにいる娘からの手紙に、「アウシュヴィッツの後で文学が成り立つか」と言って頭を抱えているフランス人がいると書いてあった。娘もよほどショックだったようだ。私も少なからぬショックを受けた。というのも日本には、「南京大虐殺の後で文学が成り立つか」とか「731部隊の後で文学が成り立つか」という問いを発した人はいないからである。
その後、ヒョンなことから、この言葉の発信源を知ることができた。  
徳永恂編著『アドルノ 批判のプリズム』(平凡社、2002年)を読んでいて、偶然に知ったのである。発信源は、ベンヤミン、アドルノ、ハーバーマスと続くフランクフルト学派のアドルノ(1903―1969年)なのである。この三者ともに私の食指が動くのだが、恐らくハーバーマスを読むのが精一杯であろう。
他にも読みたい本が数多くあるからだ。ところでアドルノの言葉は、上記とかなり異なっていて、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」というものである。彼は、ナチスが政権をとるとアメリカに亡命し、戦後の1949年にドイツに帰っている。
彼の1949年のエッセイ「文化批判と社会」の末尾近くに現れる言葉だという(同書75―76ページ参照)。少しくこの言葉の背景を見ておくと、彼は、「アウシュヴィッツをドイツの特殊事情に由来するものとは見なさない。近代という時代、いやそれどころか西洋の文明史の全体の中に深く根を下ろす出来事と捉えている。だからこそ、それは、いつ何どき反復されるやもしれない危険なのだ」(77―78ページ)。
だからこそフランス人も、他人事とは考えられないのである。彼が「もくろんだものは・・・文明と野蛮との癒合を指摘すること。『詩を書くことは野蛮だ』とは『文化は野蛮だ』の言い換えである」(78―79ページ)。ドイツ文明―西洋文明―は、ついにアウシュヴィッツを阻止することができなかったのである。アドルノによれば文明の歴史、その「歴史の全体が、自己保存をめざす人間がその道具的理性という能力を駆使して自然支配を強化してゆくプロセスとして解釈されることになる。そのプロセスのまさに『最終段階』に出現したものこそ、ナチズムという全体主義体制であり、それを象徴するのが『アウシュヴィッツ』という地名に他ならない。
文化はアウシュヴィッツに対して無力であっただけではない。文化こそが、アウシュヴィッツを生み出したのである」(同書81ページ)。
そこで考えてみるに、われわれ日本人は、とことんまで物事を突き詰めて考えることが苦手である。苦手というより「できない」と言った方がいいだろう。確かに生きていくうえでは、過去を引きずらない方がいいに決まっている。生活力という点で言えば、その方がしぶとい生活力を生むとも言える。
しかしそれでは精神的に価値のあるものは、何も残らないのではないか。過去を現在と未来とに結びつけ、とことんまで考えぬいて精神的に価値あるものを積み重ねていかない限り、民主主義は生まれないのではないか。私は、そう思う。