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名前
尾山宏
生年月日
1930年12月29日生。東京で生まれた後、北九州小倉に移住
経歴
1953年東京大学法学部卒/1956年弁護士開業 1957年愛媛県の勤務評定反対闘争に派遣される。 1988年日本教職員組合常駐顧問弁護士に。 日教組分裂で顧問辞任。 読書大好きの弁護士です。

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No.5の記事

 日本の民主主義についてC

 わが国の民主主義がいまなお成熟していない重要な要因の一つとして、歴史認識と戦争責任の問題がある。このことは平和主義にかかわることであるが、同時に民主主義に深く関わるものである。なぜなら自国の政府や自国民が犯した過ちを率直に認めて謝罪するというのは、民主主義的価値観に属するからである。自国の政府や自国民の過ちを率直に認めることから、初めてそれを是正する努力、別言すれば民主主義の復元力が生まれるのである。過ちを率直に認めなければ、復元力が生まれるわけがない。民主主義の復元力は、過ちを犯したとき、なるべく早くそれに気付き、過ちを過ちとして率直に認めることの国民的能力にかかっていると言える。
 たとえば何年か前に長野の冬季オリンピック大会の開催は、大金をばらまいての不正な誘致工作によるのではないかという疑惑を生じたことがある。同じ時期にソルトレイクシティについても同じ疑惑が生じた。長野の例を知ったソルトレイクシティは、長野の例を見習うのが、誘致への早道と考えたようである。しかしその疑惑に対してソルトレイクシティは、直ちに過ちを認めて謝罪した。これに対し長野では関係資料を全部焼却したので、詳細は分からないと弁明した。関係資料を全部焼却したと言えば、それ以上追及されることはないと考えたのであろう。しかし資料は決して膨大なものではなく、焼却する必要もないし、第一、焼却したというのは、いかにも不自然である。証拠を隠蔽したと疑われても仕方があるまい。田中知事が一回目の選挙のとき、その疑惑の解明を公約したが、ついに公約を果たすことはなかった。この両者の対応を見て、私は日本人として恥ずかしい思いをした。長野はなぜ疑惑に対する説明責任を果たそうとしないのか。ここにも民主主義的価値観が深くかかわっていることを知ることができる。
 さて本題にもどって歴史認識と戦争責任の負の遺産について述べよう。
 わが国にもかつては自国の過ちを率直に認めることが真の愛国心だという考え方があった。家永三郎先生も原告本人尋問で以下のように述べている(第二次家永教科書裁判第一審東京地裁での原告本人尋問)。
 「われわれは、そういう目隠しされた教育(戦前教育を指す)を受けてきたためにあの悲惨な『十五年戦争』を止めることができなかつたわけであります。
われわれは、日本のすぐれた伝統を正しく認識して、よりよき日本の発展のためにそれを積極的に役立てるとともに、日本のあやまち、これは率直に反省して、再びそれをくり返さないようにする、同時に、日本の矛盾は矛盾としてそれに目をそらさずに、これを大胆に見すえて、その矛盾を打開していくことこそ真に国民のとるべき道だと思います。この編集趣意書(家永先生が、教科書原稿を記述する上で作成し文部省に提出した編集趣意書)の三番目に、『日本人としての自覚を高めるとともに民族に対する豊かな愛情を育てる』と、これは学習指導要領の文句でありますが、これを私としては、私の正しいと思う立場で解釈いたしたわけであります。『その目標を達成するために古代から現代に至るまでの各時代において、日本人が社会的矛盾の解決、民衆の地位の向上、文化の創造に努力してきた事実を明らかにすることに特に力を用いた』とありますが、この社会的矛盾の解決、民衆の地位の向上ということは、戦前の歴史教育の盲点でありました。特に日本自体のあやまちに対する反省ということは、最も欠けていたところではないかと思います。」
 それに次いで家永先生は、幾人かの先覚者の言葉を次のように紹介している。
 「たとえば、植村正久というキリスト者は、明治二九年六月二六日の『福音新報』という個人雑誌にこういうことを書いております。『よく自国の罪科を感覚し、その逃避せる責任を記憶しその蹂躪せし人道を反省するは愛国心の至れるものに非ずや』と。これに対して、現在いたずらに悲憤慷慨して意地を張ろうとするものとか、あるいはいたずらに歴史に心酔するものばかりしかないが、こういうものは良心を痴鈍ならしむるの愛国心である。はなはだしきはさきほど述べたような『自国の罪科を率直に反省する愛国心をもって非難するに国賊の名をもってす』と。こういうような『良心を痴鈍ならしむる愛国心は亡国の心なり。これがために国を誤りしもの、古今その例少なからず』といっておられます。(中略)憲法学者佐々木惣一博士が「学問と社会」という昭和三三年に発行された『道草記』という随筆集の中に収めた論文の中で、こういっておられます。『我々個人についても自分自身を反省せぬ人は発達しない人です。社会についても社会自身が終始何か反省している客観的標準をもって、現にあるままの社会というものは欠陥があるということを明らかにすることによって、社会が進歩するのだということを理解する人でないと、学問に対して危険性を感ずるということになる』というふうにいっておられまして、個人についても社会についても、欠陥を反省することが一番大切であって、学問の使命は社会の欠陥を明らかにして、それを是正するにあるということを書いておられます。」
 家永先生は、さらに内村鑑三や柳田国男の同趣旨の言葉を挙げている(『家永三郎教育裁判証言集』一ツ橋書房、1972年、128―131ページ)。
このように日本が犯した過ちを率直に認め悔い改めることが真の愛国心だという思想がある。愛国心と一口に言っても、その人の思想や情念によって変わってくるのであって、政府・与党あるいは文部科学省や教育委員会が考える愛国心だけを愛国心とし、それを学校教育によって子どもたちに押し付けられては困る。
 そこでまず戦争責任について述べると、敗戦直後、当時の東久邇首相は、一億総懺悔を唱えた。敗戦の責任はすべての国民にあるというわけである。もちろんわが国におけるファシズムの台頭と侵略戦争の責任について、国民自身にも責任がある。悪いのは時の政府、政治家や軍部にあり、国民は、その被害者にすぎず一切責任がないかのように論ずることは誤りである。軍部や政府の暴走を止めることができなかった国民にも責任がある。それはそれとして自己点検がなされなければならない。しかしそれ以上に責任を問われるべきは軍部、政府、政治家と最高権力者であった天皇の責任である。天皇の戦争責任は、敗戦直後の一時期を除いて長い間タブーになっていたが、最近では国内外で明らかにされている。明治憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(4条)とされ、官制大権(10条)、陸海軍の統帥権(11条)、宣戦布告の権限(13条)などを有する文字通り日本国の最高権力者であった。昭和天皇は、柳条湖事件に端を発する現地の軍の独走・暴走を追認したのを初めとして侵略戦争に深くかかわっていた。敗戦後、連合国の間で天皇の戦争責任を追及する世論がきわめて高かったのも当然である。しかし天皇やその側近は、天皇の戦争責任追及をいかにしてかわすかに積極的に動き、連合国最高司令官マッカーサーも日本統治における天皇の利用価値を高く評価し、両者の間で「取り引き」が行なわれたことは、今日では広く知られるところとなっている。ジョン・ダワ〜の『敗北を抱きしめて』上、下巻(岩波書店、2001年)や先に紹介したハーバート・ビックスの『昭和天皇』上、下巻(講談社、2002年)にその間の事情が詳細に記されている。
 このように最高権力者が責任を負わなければ誰も責任を負わなくなる。いわば「無責任の体系」である。
 そして言うまでもなく、戦争責任と歴史認識とは不可分一体のものである。上記のように天皇の戦争責任の回避は、わが国の戦争責任と加害者であることの歴史認識を雲散霧消させてしまった。もっとも戦後、極東軍事裁判で日本の戦争責任が追及され、政府も神妙にしていた。サンフランシスコ講和条約11条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と定めている。しかし戦後早くも東西冷戦が始まり、占領政策が転換されて以降、戦争責任論と加害者であることの歴史認識は急速に影をひそめた。それでも1982年に教科書検定で「侵略」を「進出」に書き直させたことなどが内外に知られ批判されたとき、時の政府は、宮沢喜一官房長官を通じて、誤りは「政府の責任において是正する」と言明した。このときにいわゆる「近隣諸国条項」が検定基準に挿入され、中国、韓国や東南アジア諸国への配慮を示した。そのためどの教科書にも南京大虐殺や慰安婦などの記述が載ることになった。84年1月5日には、当時の中曽根首相が首相として初めて靖国神社に新春参拝し、8月15日には首相以下全閣僚が公式参拝をしたが、中国側が懸念を表明すると、以後、中曽根首相は、参拝を取りやめた。国会では「日本の国益を考えて取りやめる」旨を表明している。それらの情況と現在の情況と比較すると、小泉首相が度重なる中国、韓国の抗議にもかかわらず、靖国参拝を頑なにつづけていることの異常性がよく分かる。
 一体この間にいかなる変化が国内に生じたのであろうか。中曽根氏と小泉氏の首相としての才覚の違いや中曽根氏のそばには自民党内では良識派の後藤田氏が控えていたが、小泉氏の周辺にはそれに相当する人物がいないという事情もあるであろう。しかし私は、わが国が全体として大きく変化したからだと考えている。すなわち80年代は、先に述べたようにわが国がJapan as number one と高く評価され、経済大国として自信に満ち、80年代後半に一気にバブルへと登りつめていく時代である。日本国民の多くが誇りをもち、したがって精神的余裕があった時代である。
 ところが前にも述べたように、90年代に入るとバブルがはじけ、日本経済は長期低迷状態に陥る。日本人がもっとも誇りにしていた経済が駄目になったのである。こういう自信喪失の時代には、盲目的にナショナリズムへと突っ走る傾向がある。自身喪失という心理を癒すためにである。仲間内だけでしか通用しない「論理」を弄(もてあそ)んでは自らを慰め、励ましているのである。そうなると精神的余裕がもてなくなる。何がなんでも日本の国と日本人はすぐれていると絶えず自分に言い聞かせないと精神の均衡・平安が保てないという強迫観念に取りつかれる。だから中国や韓国からどのように抗議されようと靖国参拝をつづける小泉首相が「毅然たる態度」をとっている頼もしい政治家だと、国民の目には映る。逆に中国・韓国の抗議を配慮して靖国参拝をやめるようでは、自分たちの誇りが損なわれたように感じる。アメリカには徹底した追随外交をとっているのに、中国や韓国に対して居丈高に振舞うことに矛盾を感ずるどころか逆に痛快に感じられ、自尊心を満たされる思いがするのである。
 しかしこうなると、アジアのなかの日本、世界のなかの日本というふうに、日本国や日本人を相対化して見ることができなくなる。相対化することができなければ、客観的に世界と日本を見ることができなくなる。いまのわが国における偏狭なナショナリズムや右翼的潮流は、このようにして生じたものと考えられる。
 アジア諸国では、日本は戦争責任についてsorry(気の毒) はあるがapology(謝罪)がないと言われている。
 確かにたとえば1995年の村山富市首相談話と1999年のラウ・ドイツ連邦大統領の「強制労働者に赦しを請う」という声明とを比較すると、そのことがよく分かる。以下に両者を挙げておこう。
 村山談話「・・・わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・・私は、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。」
 ラウ大統領声明「・・・私たちは皆、犯罪の犠牲者が金銭によって本当は補償されないことを知っています。私たちは皆、何百万の男女に加えられた苦痛が取り返しのつかないことであることを知っています。・・・私は多くの人々にとって、金銭などまったく重要でないことを知っています。彼らは自分の苦しみが苦しみとして認められ、自分たちに加えられた不正を不正としてみなされることを求めているのです。私はドイツの支配下で奴隷労働と強制労働を行なわなければならなかったすべての人に思いを馳(は)せ、ドイツ国民の名において赦しを請います。彼らの苦しみを私たちは忘れません。」(石田勇治東大教授訳)
05年にバンドン会議に出席した小泉首相は、村山談話を引いて謝罪の意を表したが、ドイツの大統領や首相のように、なぜ自分の言葉で謝罪の意を述べないのか。これでは謝罪者の顔が見えず誠意を感じさせない。しかもドイツは強制労働者に対して補償を行なっているが、わが国は村山談話を受けての補償は一切していない。
 サンフランシスコ講和条約後に補償の問題を生じたときにも、アメリカは、反共防波堤としての日本の経済力の復興を優先する立場から、アジア諸国に賠償金の額を低く抑えさせた。しかも日本の政府や財界は、その賠償さえも日本の東南アジア諸国への経済進出のための格好の道具として利用したのである。末広昭氏は、「賠償支払い形態は、現金ではなく当初は役務ついで資本財中心になされたから、賠償を通じた経済活動は「日本製品・企業の東南アジア再進出の露払い」の役割を果たし、ひいては日本の輸出拡大と重化学工業化の契機となった」と述べている(末広「経済進出への道」前掲中村他編『戦後改革とその遺産』所収221ページ)。日本化薬社長(当時)の原安三郎氏は、経団連の座談会「賠償問題と東南アジア諸国の動向」のなかで、次のように述べている。
 「ここで注意すべきは、賠償の支払いはその方法の如何によっては、単に賠償の支払いのみに終わらず、禍を転じて福となしうるのである。すなわち生産役務賠償による物資の提供が、東南アジア諸国に日本の産業の実態を知らせ、両国間に経済上不可分の友好関係をつくり、日本品の永久マーケットがその国に開けるのである。」(前掲書221―222ページ)
「賠償」は日本にとっては「禍」なのであり、戦争被害者に対する誠実な謝罪を表わすものとはそもそも考えられてはいないのである(もっとも日本の政府・財界が考えていた「東南アジア」には当初はインド、パキスタンなどの南アジア諸国―非賠償請求国―が含まれていた。現在言われている東南アジアを指すようになったのは、1960年代半ば以降のことである。前掲書224ページ)。
 吉田茂首相(当時)も「アメリカのダレス国務長官と会談した際、『賠償は一種の投資である。賠償の名において東南アジアの経済開発に協力できるならば共産主義浸透防止ともなり、一石二鳥の効果がある』と明言していた」(前掲書222ページ)。1953年に「東南アジア経済協力」に関する基本方針が閣議決定され、「賠償問題の早期解決を図る」ことが閣議決定された時にも、「東南アジア諸国の要求にまず応えるというよりは、経済提携を進めるための前提条件という意味合いが強かった」(前掲書231ページ)。
 その背景には、太平洋戦争で日本が負けた相手はアメリカであって、『大東亜戦争』そのももの理念は間違っていなかった、むしろ日本は東南アジア諸国の民族解放と独立に手を貸したのだという独善的解釈が広く存在していた」、「フィリピン、マラヤ、タイ、ベトナム、ビルマなどで独立前後に抗日運動が激しく展開された事実に思いを馳せるような発言は、少なくとも経団連などの座談会を見るかぎり皆無だった」(前掲書236ページ)。
 つまるところ「賠償」は、日本企業の金儲けのための道具にすぎないのである。
 だから東南アジア諸国民が誠実な謝罪がなされたと考えないのは、当然の成り行きである。
 しかも日本は、戦前はもとより戦後の今日まで、アジアの中での「兄貴分」(「盟主」)でなければ気がすまないという意識が強い。
 「反欧米感情の強いアジア諸国では『アジアの兄貴分』である日本がアメリカとの橋渡しをすべきだという発想が、当時の官界や財界の中には存在したのである」(前掲書236ページ)。岸首相は、歴代首相としては初めてアジア諸国を訪問した。「アジア(のち東南アジア)開発基金構想」をひっさげてである。しかし岸首相を迎えた「東南アジア諸国もマスコミの雰囲気も、日本政府が当初期待した歓迎や関心とはほど遠いものであった。『大東亜共栄圏の復活か』と現地新聞が批判的に報じたフィリピンやインドネシアはさておき、アメリカの反共戦略に深くコミットしていたタイでさえ、現地の新聞は岸首相の訪問中の行動や発言をほとんど報じていないからである。」「タイ語新聞である『サイアム・ニコン』紙・・・の論調は『岸の名前は、アメリカと中国というふたつの岸のどちらにもつけない日本を象徴している』「タイ・日本共同声明の内容は、日本の首相がバンコクに滞在していたというニュース以上のことを国民に伝えるものではない」といった冷淡なものであった(前掲書244ページ)。
もっとも佐藤首相時代の1966年4月の日本政府主催の「東南アジア開発閣僚会議」が転機となったと言われている。67年以降、日本企業の東南アジア向け投資が顕著に増大したのである。しかし日本側の基本姿勢は、「賠償交渉の決着とその支払いは、このプロセスを準備し補強するためのひとつの手段でしかなかった」点で変わりがなかった(前掲書248―250ページ)。
このように見てくると、小泉首相のアジア諸国に対する言動が彼自身の個人的特性ではないことが分かる。それは、古くからの自民党のメンタリティの底を流れる水脈なのである。
日本は、こういう態度でアジアに臨んでいたのである。これでは誠実な謝罪もその証としての補償も生まれないわけである。
この話を次にも続けたい。