8月22日、船は上海に入港し、安達さんはそこで下船して10日間の旅を終えました。
ピースボートに乗船して
中国「残留孤児」国家賠償訴訟原告 安達 大成
この度、中国残留孤児、被爆者、中国人戦争被害者三事件グループの一員として船に乗せていただきました。
今回の旅で、一番嬉しかったことは、下は女子高校生から上は六五歳の方まで、私の話に熱心に耳を傾けてくれて、残留孤児に想いを寄せてくれたことです。船の中で本当に多くの人たちとお話しすることができました。
そして、今回の旅で改めて実感できたことは、私たち残留孤児だけではなく、日本の植民地政策、軍国主義の被害者が沢山いることです。
韓国ではソロクトを訪れ、日本の植民地支配下で強制的に隔離され、強制労働をさせられて、手を失ってしまった元ハンセン病患者の方と会いました。
また、丹東から乗船してきたチチハル遺棄毒ガス被害者の丁さんとは同じ船室で、私は丁さんの通訳もしました。私は丁さんにその下半身の傷を見せてもらいました。何故、この平和な世の中で、丁さんのような若い人が、日本軍のために被害にあわなければならないのか?
私は、平和に暮らしている今の若い人たちに二度と私たちのような悲しい思いをさせたくはありません。私は、今回の旅で本当に多くのことを勉強することができました。ここで勉強したことを生かして、これからは、残留孤児の被害のことだけではなく、様々な被害者のためにも行動したいと思っています。
(「法と民主主義」2005年10月号原稿より抜粋)
※「法と民主主義」2005年10月号では、今回の旅について特集致します。
丁さんは、8月19日に丹東で乗船してから、22日に上海で下船するまで、安達さんと同じ船室で過ごされました。
安達さんは、日本語・中国語の通訳を務められ、日本語の出来ない丁さんに代わって、日本の乗船客に丁さんの被害を訴えました。
※写真は、日本の乗船客からの手紙を中国語に訳してあげているところ
8月19日には、チチハル毒ガス被害者の丁樹文さんが乗船されました。
2003年8月4日、黒龍江省チチハル市の団地の工事現場で、旧日本軍が製造・遺棄した毒ガスの入ったドラム缶が発見されました。工事に携わった人々、掘り出されたドラム缶を扱った廃品回収業の人々、掘り返された土が運ばれて来たところの人々と被害は広範に渡り、1名が死亡、43名が病院に運ばれる事態となりました。
丁さんもそのような被害者の一人です。
日本軍が遺棄した毒ガスの被害等については
http://www.peace-justice.jp/ja/
http://www.geocities.jp/dokugas2000/
丁さんは、8月20日には、船内でのシンポジウム“「歴史認識と未来の選択」証言〜日本政府の責任〜”に元日本軍戦時性被害者・李容洙さんとともにパネリストとして出演され、ご自身が受けた被害についてお話されました。
※写真右から2人目が丁さん
奉天は旧満州の最大の都市(「満州国」の「首都」は「新京」〔長春〕)です。現在も当時の建物が多く残されていました。
※写真は旧ヤマトホテル
旧奉天市の市街地図と写真等は
http://homepage3.nifty.com/jiangkou/Kiyoshi/shenyang/index.html
「勿忘“九.一八”」
8月19日、船は中朝国境近くの港・丹東に入港しました。
「3事件グループ」の一部は、オプショナル・ツアーに参加し、瀋陽を訪れ、世界遺産である瀋陽故宮博物館、九.一八歴史博物館等を見学しました。
瀋陽は清朝発祥の地であり、旧満州時代には「奉天」と呼ばれていた地です。
1931年9月18日、関東軍は奉天駅北方約8キロの地点にある柳条湖付近の満鉄線を自ら爆破しました(柳条湖事件)。これをきっかけとして、関東軍は軍事行動を開始し、奉天等の都市を占領し、ついには「満州国」の「建国」へと至りました(満州事変)。
柳条湖事件は、「十五年戦争」の発端となった事件であり(ただし、満州事変は1933年の塘沽協定で停戦、日中の全面戦争は1937年の「廬溝橋事件」から)、中国「残留孤児」問題の原点ともいえる事件です。中国では「九.一八事変」と呼ばれ、満鉄爆破地点に「九.一八歴史博物館」が建てられています。
その後、「3事件グループ」はツアー一行と別れ、「アリラン・コゲ(峠)」に向かいました。
原告の安達さんは、1933年、当時日本の植民地支配下にあった韓国ソウル(「京城」)で生まれ、3歳までソウルで過ごされましたが、その地で実母を亡くされました。安達さんは、その後、「満州国」(中国東北部)に移られ、そこで、日本の敗戦を迎え1981年まで中国で過ごすこととなったのでした。まさに、安達さんの半生は戦前の日本の植民地政策と切り離せないものでした。
安達さんが幼いころお父さんから聞いた記憶によると、実母のお骨は「ソウルのアリラン山の麓の日本寺院」に納められているとのこと。そこで、「アリラン山の麓の日本寺院」を唯一の手がかりとして、そのお寺を訪ねることとしましたが、地元の人に尋ねてみると、「アリラン山」ではなく「アリラン・コゲ(峠)」であることが判明しました。そこで、アリラン峠に向かい、いくつかの寺院を訪ねましたが、日本寺院を見つけ出すことはできませんでした。しかし、約70年ぶりにアリラン峠を訪れた安達さんは、その地の土を遺骨代わりとして日本に持ち帰り、仏壇に納めることとしました。
※写真はアリラン峠にあった寺院。これが昔、日本寺院であったのかは不明。
「アリラン」については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3
8月17日、船は第2の寄港地、韓国・仁川(インチョン)に入港しました。
私たち、「3事件グループ」はオプショナルツアーに参加し、ソウルにあるNGO「参与連帯」、「聖公会NGO大学院」を訪問し、韓国の民主化運動の歴史と現状について伺いました。
※写真は、「参与連帯」元事務所長で、現在NPO「美しき財団」理事の朴元淳(パク・ウォンスン)氏
参与連帯は政府監視活動などオンブズマン活動を活発に行っている市民運動団体で、2000年の韓国の総選挙で「落選運動」を展開したことでも名高い。朴元淳氏は韓国で最も影響力をもつ市民活動家といわれている。
※参与連帯については、「法と民主主義」2000年12月号でも特集が組まれました。
ソロクトは、日本が韓国を植民地支配していたときに作ったハンセン病療養所ですが、日本国内におけるハンセン病強制隔離政策と同様に強制収容、労働の強制、断種・堕胎等の優生政策の徹底、懲戒検束等の絶対隔離・絶滅政策が行われ、その人権蹂躙の実態は、日本国内の他の国立ハンセン病療養所をはるかに上回る苛酷なものであったとのことです。
日本のハンセン病回復者の方々は、「ハンセン病補償法」に基づき補償金が支給されていますが、日本政府はソロクトに入所されていた方々の請求を拒否したため、現在日本で裁判が闘われいます。
詳しくは、ソロクト・楽生院 補償請求弁護団HP
http://www15.ocn.ne.jp/~srkt/
※写真は断種台
ソロクトでは、日本国内における国立療養所と同様に、結婚の条件として男性に断種が強制され、また妊娠した女性に対しては堕胎が強要されたが、さらに、、懲罰としても断種が行われたという。
私たちは、60回目の「終戦記念日」を韓国で迎えましたが、韓国の人びとにとって8月15日は日本の植民地支配から解放されたことを祝う「光復節」。釜山でも、60回目の光復節を祝う式典が開催されていました。
※韓国では8月15日は祝日
安達さんは、肉親と離別して1981年に帰国されるまで人生の大半を中国で過ごされました。その間、深夜には家の裏の林畑に行き幼いころ覚えた日本の歌を歌い日本語を忘れないよう努めたといいます。
ほとんどの帰国者が日本語を話せない中で安達さんは希有な存在です。そのため、安達さんは他の帰国者原告が弁護士と打ち合わせする際には通訳を勤めるなど、原告と弁護士、支援者との橋渡し役としても活躍されています。
また、厚生労働省の見解によれば、「中国残留孤児」とは終戦時に13歳未満であった者をいうとされるため(その見解の是非は措くとして)、終戦時に12歳であった安達さんは、「孤児」の中でも最年長者です。肉親と離別した状況についての記憶さえない「孤児」が多い中、安達さんは、植民地支配下での軍国主義教育などについてもご自身の記憶に基づいて語ることができる貴重な存在といえます。
安達さんのお話しは、老若・国籍の別を問わず、多くの乗船客の心をとらえ、安達さんは多くの人々との交流を深めました。
※アメリカ人、中国人、日本人と語る安達さん。
英語、中国語、日本語が飛び交った。
安達大成(だいなり)さんは「終戦の日」を旧満州で迎えた。12歳の中学生だった。ソ連との国境に近い小さな街で、いつものように外で遊んでいた。家に帰ると、母親から「戦争に負けた」と知らされた。えっ、それ何、という感じだった。
その数日後、ソ連の飛行機が現れた。上空からいきなり機銃で撃たれ、林の中に逃げた。安達さんは「日本では戦争が終わっていたが、私にとっては、この日から戦争が始まったようなものです」と話す。
まもなく、ソ連軍が街にやって来た。土木技師だった父は数カ月前に病死していた。母と2人の弟とともに収容所を転々とさせられる。その途中で、2歳だった下の弟は、母に背負われたまま死んだ。食べものにも事欠いた。自分がいなければ2人が助かる。そう考えた少年は黙って姿を消した。それが母や弟との長い別れとなる。
辺境の農場で働き、20代の初めに出会ったのが妻の素子さんだ。素子さんは開拓農民の娘だった。母と一緒にソ連軍の侵攻から逃げたが、母は亡くなり、中国人の養父母に育てられた。異郷で結ばれた2人の残留孤児が母国の地を踏んだのは、終戦から36年後だった。
旧満州には約150万人の日本人が住んでいた。そのうち、ソ連軍や地元民の襲撃、集団自決、病気などで、約20万人が死んだといわれる。同じ日本人でも、どこで「終戦の日」を迎えたかで、運命は変わった。
安達さん夫妻はいま、千葉県で月に6万円の年金で暮らす。妻は日本語が話せない。5歳年上の夫は「私が先に死んだらどうなるのか」と心配する。
(2005年8月16日・朝日新聞「天声人語」より)
※写真は、船上で日韓の乗船客にご自身の体験と他の「残留孤児」の生活の実情等を語り、訴訟支援を訴える安達さん。
この「コリア・ジャパン未来クルーズ Peace & Green in Asia」は、日本のピースボート(http://www.peaceboat.org/index_j.html)と韓国のNPO『環境財団』が共同で企画・運営をすすめる船旅で、8月13日から8月29日までの間、釜山、仁川(韓国・ソウル付近)、丹東(中国東北部)、上海、那覇、長崎に寄港しながら、東アジアを2週間で回るクルーズです。
(http://www.japangrace.com/peaceboat/tour/50/index.html)
中国「残留孤児」訴訟関係者からは、弁護団の田部弁護士、渕上弁護士のほか、原告の安達大成さんが参加し、安達さんは8月13日から8月22日(上海)まで乗船されました。